2021.09.20 (Mon)
『【続】宗教が争いの原因になり易い理由』の続き。
大昔のことになるほど、障碍は、抱えている者の生存を不利にするだけでなく、
その周囲まで巻き込む恐れも高かっただろう。
現代になっても、身体の障碍は まだしも、脳や精神の障碍が引き起こすトラブルは、自他ともに、解決は、なかなか困難なままだ。
およそ障碍、障碍者が忌み嫌われてきた歴史を持つのも、ぶっちゃけ、ゆえのないことでは ない。
ひとえに、生存欲求と安泰への希求から来る、要するに煩悩、エゴゆえだが、少しずつ克服していく過程も、人間の歴史。
ケダモノのままじゃ、人間やってる意味もないからね。
私個人の話だけど。
聴障者である私は、自分の事情を話すときに、「聴覚障碍者」とか「耳が不自由」といった言いかたを するし、もちろん、他人に、そう言われても、何ら不快には思わない。
でもね、「つんぼ」と言われたら、大いに不快です。
なんで、って、
昔は、そういうコトバでしか表現できなかったとしても、こんにちに おいては、きちんとした代替になるコトバが あるので、敢えて「蔑視・侮蔑的」とされている特定のコトバで表わす必要は ないはずだから。
わざわざ言おうとする者の品性と本心は、しっかりと、その顔に出ておりますw
子どもの頃は、幼なじみとかクラスメートなどからも何度か言われた記憶が ある。
「※※ちゃんて、ツンボなん?」と、確認するかのような口調で聞きたがる子も いたが、ふだんから、気立ての良くない子という感じは持っていた。いま思うと、その子の親が、私のことを言っているのを聞いたのかもしれない。
私は、もともと鈍感なほうの性分だけど、それでも、
悪気を込めていることを感じさせる言いかたを されたことは多いが、
そうでは なくて、単に知っているコトバ、それしか言いかたを知らない、「ボキャ貧」から言った場合も あったのかなと思う。
でも、いずれにせよ、大いに不愉快だった。
「聞こえにくい」という言いかたなら、そのとおりだと思うけどね。
無自覚に、悪気なく言った者が、まだ幼い子どもだったりすれば、「教育的指導」をば施すかもしれないけどw
もし、悪気が あって言い放った「くそガキ」なら、容赦しないww
親の躾けが悪いのであろう、その子のためにもね。
まあ、親父なんかには、「この出来損ない」と罵られてたけど。
原因つくったのは、当の親だ。それでも、この言いぐさ。
いまの私なら、
ただ、「そういうレベルなんだ、この人は」としか思わないだろう。
でもね、
「ははん、その程度のコトバ遣いしか できないんだな、いいトシして」
みたいに見下したら、それも また、争いの原因になるのでしょ。
昔の日本の説話で、
たしか『宇治拾遺』のなかに登場する お坊さんが、
「めくら」というコトバに反発して、
「鼻暗(はなくら)ななり」と言い返していたという話が あるよね。
「鼻先が暗いだけだ」という意だそうな(苦笑)
さて、
「最低でも不読」。
うーん、、、
もちろん、とりあえず「見えなくすることは、根本的解決では ない」でしょう。
再び言うのだが、
やっぱり、問題の箇所が出てくる経典を読誦するときは、事前のレクチャーや確認し合い、「問題意識の共有」が大事じゃないかと。
そして、「のり越え」と「寛容」ですかね。
あるいは「慈悲」と言いますか。
不快を乗り越えなければならない側こそは、より強くなければ ならないわけ。しんどいけどね。
ものの道理に冥い者こそが、知性弱く、哀れな存在なのだから。
ことわっておくけれど、
重度の知的障碍を抱えていてさえ、ほんとうの知性と、人を見抜く眼を持っている者は存在してる。私は知ってるよ。
あっ、
でも、ヘンな演出して、重度障碍児の わが子に過酷な役回りを押しつけてるミエっぱりの哀れな母親とは無関係よ。
ところで、
「是旃陀羅(ゼセンダラ)」っていう、『観無量寿経』に出てくるという「差別語」だけど、
関西には、「あほんだら」という罵倒コトバが あるwもしかして、仏教用語なのか?と思っちゃったww