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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2021.09.20 (Mon)

宗教が争いの原因になり易い理由の続き。

 

それでも、

特に、釈迦が言い遺したことのなかには、現代人にとっても有用な教えは あるように思うし、

私は、釈迦が直接に説いたという内容は、「宗教」と呼ぶよりも、むしろ、よく言われるように、『心理学』に近いもののように思う。

 

死者に対する仏教的弔いの行為にも、残された者の心の癒しのほうを考慮している感じが するし、

死後の世界を問われて、「無記」とだけ答えたという話にも、それは科学者の基本姿勢に等しいものだと思える。

 

他の宗教なら、死んだあとは、こうなって、ああなって、、、
まぁ いろいろと、まさに「見てきたような」尾ひれが付くのが定番よねw

 

なので、

死んだあと、どうだ こうだ、などといった「脅し」に近いような教えは、それは それとしての「方便」のようなものなのかもしれないが、
おそらく、ほとんどは「如是我聞」と前置きした、それぞれの弟子や後世の信者たちが付け加えていったものだと思う。これも古今東西、ありがちなことだ。

弟子や信者は、始祖たる釈迦本人よりも、もっと世俗の考えかたや感覚から脱け出しきれなかっただろうし。

 

 

なお、『ヴェニスの商人』のことも挙げている者が いたけど、

この、一見は単純な作品こそ、シェイクスピアの、世界に冠たる文豪としての価値を示しているものかもしれない。

 

私も、小学低学年の時分に、身内の誰かに買い与えられた、児童向け『ヴェニスの商人』を読んだことが あるのをハッキリ憶えている。

 

憶えている理由は、
キーとなる、そして、「ヒール」的役回りの登場人物でありながら、本当の主人公であるとも言えよう、ユダヤ人『シャイロック』が、少し、気の毒にすら思えたからw

かつ、ヒロインの『ポーシャ』のほうは、なんかヘリクツ言ってるな、後出しジャンケンかよ、くらいに思えたしww
ポーシャのカレシなんぞときたら、まったく憶えてない。影が薄いw

 

だんぜん、シャイロックが光ってるwww

 

 

もっとも、
シャイロックの頑なさ、冷酷さには、多くのユダヤ人が生業としていたらしい金融関係の商売で、徹底した厳格さや容赦のなさ、それゆえの恨みを買って、地域社会から白い眼で見られるような存在となったことの鬱屈や恨み返しのような心情を抱えたユダヤ人という存在を、一身に象徴させているのだろう。

このように、シェイクスピアが生きていた時代は、ユダヤ人に対する蔑視や差別意識は、当然とされていたそうで、そんな時代に生まれ育ったシェイクスピアも、一人の人間的限界は免れず、
彼自身も、ユダヤ人差別について、問題意識というものは全く持ったことが ないという。

だからだろう、作品『ヴェニスの商人』に おいても、キリスト教徒側からのユダヤ人観と、あらまほしきことの要求ぶりが徹底的に描かれたうえでの結末となっている。

 

それなのに、
『ヴェニスの商人』で活写された、非情で冷酷で無慈悲な悪徳商人は、「人間たるシャイロック」だ。

これを、作者シェイクスピア自身は、無意識のうちに描きあげたというのである。

 

それと、
シャイロックの娘については、ごく善良なタイプとして描かれている。

親が こうだからと言って、子のほうも、親に似ているとは限らないということを明示している。

そして、ユダヤ人の子であろうと、善良な者には、豊かな恩恵が与えられてしかるべきという話に仕上げている。

 

なので、
いかにも昔のキリスト教徒的な「教育的指導」臭がプンプンしているようでもあり、
シェイクスピアの作品は、実は、異国の伝説などを下敷きにしていることが よくあるそうなので、ストーリーそのものの画期性よりも、人物描写が、やはりイキイキしているということだろう。

 

 

で、

「もしも、お釈迦さまにインタビューできたら」

どのように お答えになるか。

 

やっぱり、「のり越えるように」と仰るんじゃないだろうか。

「互いが寛容に」と。

 

不寛容こそは、争いの原因になるのだし
(『シェヘラザード―ー千夜一夜物語』にも、「不寛容の罪」というテーマの小話が出てくる)、

例の『イスラム教・原理主義』を見てたら分かるように、

結局、力で強引に押さえつけ、従わないの従えないのとなったら、最後は、力と力の悲惨な競り合いになる。

「革命か死か」?w

 

 

これも仏教説話の一つで、

『阿修羅と帝釈天』の争いってのが あるでしょ。

 

事のスジは、そもそも、『阿修羅』のほうが、そりゃ尤もなんだろうけど、

わが娘は『帝釈天』にレイプされたのに惚れちゃってるし、阿修羅パパのほうは、「スジ通さんかーーーい!!emoji」と激怒して、とことん戦ったと。

でも、
「やったもん勝ち」帝釈天のほうがゴリ押しバカぢからが強くてwやっぱり勝っちゃう。

って、
途中、ちょっとした番狂わせを挟んでいるんだけれど、ま、ごくごく大まかには、そんな話。

 

そう、この世界、とにかく強い者が勝つんだぜという、身も蓋もない、
そして、じつに くだらない世界よねw

なくていい世界だ。

なんで あるの??
という疑問は、「考える葦」にとって、宇宙の発生の謎と共に永遠だわww

 

だったら、せいぜい楽しむしかないね♪

と言いたくなるが、そんな甘いことばかり言ってられない現実も重い。

 

 

オマケの考察だけど。

『帝釈天』というのは、現地名を『インドラ』と呼ぶこと、それと敵対したというストーリーのなかで登場する、もう一方の主人公『阿修羅』に、もとは『ゾロアスター教』のなかで「最高善神」という位置付けであった『アフラ・マズダー』との関連が あることを考えると、『インド』と『イラン』の関係性をも鑑みるに、興味深い大逆転が見受けられるわけだ。

かくのように、

「神」とは、人間の つごうで、いかようにも変転させられるw

 

【続く】

 

 

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