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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2021.09.20 (Mon)

日本に おいても、こういう問題が続いていたことを、私は知らないでいたのだけれど。

 

経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち京都新聞9/18() 19:21

https://news.yahoo.co.jp/articles/51c31f28dfd79f5e868567397e0be1522bd5396d

 

そりゃそうよね。

仏教って、『インド』が発祥の地だし、
あちらの習慣とか事物などを、こっちの それに置き換えるのは よく あることだ。そもそも、翻訳言語だって そうだもの。

 

よく思うことなんだけど、

こういうとき、当の人物にインタビューできたらなあと。

でも、はるか遠い時代の人なので、
ここは、ひたすらに想像してみるほかは ない。

で、想像してみた。

 

 

もともと、『釈迦』自身が、生まれ育った当時の生活習慣や宗教観(現代よりも、もっと強く、生活のなかに密着していたであろう)から逃れることは できなかったはずで、

しかも、それだけでは納得いかない悩みや苦しみを持ったからこそ(人間だもの)、「カウンター」としての、新しい思想を得たわけで、古今東西の何事によらず、古いもの(前世代)は新しいもの(次世代)の母体である。

 

 

で、特に、釈迦の場合、布教するに あたって、ほとんどは、学も教養も ない民衆に説き聞かせるうえで、彼らにも、できるだけ分かりやすくと、「たとえ話」など、くふうした あとが豊富だということだそうで、

すると、昔からの言い伝えとか、当時の一般的だった宗教説話なども、大いに取り込みながら説いたわけだろう。

 

 

「ヤフゴミん」らのなかには、そういう理解から、こんにちでは、明らかに「差別的用語」としているコトバでも、それを用いているのは何のためかということを考えるべき、といったコメントを寄せている者も散見するが、これは尤もだろう。

 

ただし、
私自身は、およそ経典というものを詳しくは知らないまま、単に、実家の宗派が『仏教』の一派であるというだけだから、彼らが指摘するように、「差別は良くないということを説くために、従来の差別習慣から来るコトバを敢えて用いているだけ」というのが本当のことか どうかは分からない。たぶん、そんなところなのだろうとは思えるけども。

 

 

であれば、

いわゆる差別用語に該当するコトバを含んでいる経典を、よく理解していない信者などとともに読誦したりするときは、その前に、必ず、丁寧に噛み砕いた「講義」、レクチャーを行うことが望ましいのではと。

すでに実行されているらしいが。

 

 

「ヤフゴミん」は「ヤフゴミん」ならではの通常運転で、
「時代の価値観」とか「コトバ狩りは やめろ」とか言い募って、自分のなかの「差別したい!!」「差別できなくなったら、自分にとっては不自由!!そんなの、暗い社会だ~」という本音を正当化してるようだけど(嗤)
私の眼emojiは誤魔化せないのよんw

 

 

もしも、当の釈迦自身が、差別対象を差別して当然という思い込みを持ったままだったのであれば、そこは、やはり、一個の人間だったのだなと、私は思うだけ。

そもそも「出家」した動機を聞けば、まさに人間ならではのことだもの。

 

 

こないだ、『クルアーン』には、だいたい、どのようなことが説かれているわけかな?と、『ウィキペディア』なんかをザッと読んでみたかぎりでは、どうも、『ムハンマド』が生きていた時代の規範や模範を もとに、言わば「生活指導」みたいなことを、フシつけて唱えやすく、覚えやすく まとめてあるんだなという印象だ。

 

やはり、よく言われることだが、宗教の もともとは、当時の人々の生活上で、避けたり忌むべきことや、やるべきこと、望ましいことを教え諭すのが目的であったという感じが伴う。

自然環境が厳しい地域ほど、その教えは厳格になるように見受ける。

 

『クルアーン』には、特に、わが国の学校の「風紀委員」だの「生活指導」みたいなものを連想させられた しだいw

 

だからだろうか、

私が少々知っている、ある『イスラム』教徒の日本人女性は、これは、『キリスト』教徒にも共通すると聞いたことは あるのだが、教えの内容を、自分なりに、どう解釈して、生活のなかに、どのように取り入れ、実践していくのか、常に「神と対話、問答」するのだというふうに言っていた。

つまりは「自問自答」だろうと、私は思うけど。

 

でも、そういうことが できない人なら、それは一字一句、コトバどおりの「原理主義」に陥らざるを得ないのかもしれない。

「なぜ」、「どういうわけで」を考えることが できないから。

要するに、「思考停止」。

 

 

もし、『ターリバーン』あたりの「原理主義」者の前に、
これこそが、ほんものの『ムハンマド』が説いたものだった、ということが明らかである経典が発見された、と しよう。

そのなかに、

「男に教育は、いっさい無用」

「頭から足先まで全て覆う布を被ること」

「常に、母や姉の言いつけに絶対服従すべし」

などと書かれてあったら、そのとおりにするんだろうか?w

 

 

当然、
昔から現代まで、基本的に変わらないことも あるけれど、
変わってしまっていること、変わらないと困ることも多々あるわけで。

 

だから、
大昔の人が、当時の生活習慣とか、それが土台になっている倫理観などで、こうしたほうが良いとか、こうするべきと説いたコトバを、こんにちになっても、一字一句も変えず、その書かれたコトバどおりに死守することなんて、ナンセンスである以上に、不可能なことだ。

 

現代の利器の一つで、たとえば、コンピューターやパソコンというものを、『ムハンマド』が禁じていたとしたら。

むろん、それは ありえないこと。

なぜなら、ムハンマドと言えど、それらの出現も存在も、夢にも想像できなかった時代の人だから、どこにも何も書き残してない。

冷蔵庫も洗濯機も電話も電子レンジのことも、書き残してないのだから、たとえ『イスラム教』でも「原理主義」の信者でも、ほいほい使っていいのだろう。

ムハンマドが知らないことだからw

それだけだし、

それを もって、どんなに立派な始祖や御開祖と言えども、「時代の限界」からは逃れ得ぬ、一個の人であったという証左となる。

 

というわけで、

「個人崇拝」は、愚かしい、ということだ。

 

【続く】

 

 

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