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2022.02.11 (Fri)

【続】昔の「ヤング ケアラー」と、現代の母親たちの」続き。

 

義祖母が やって来る前の事情なのだが、

長女である母親は、小学低学年の年齢で、実母(私の実祖母)を亡くしているので、幼い弟妹たちを、自分自身も まだ幼いうちからメンドウみていた。

間もなく、日本は、『太平洋戦争(第二次世界大戦)』開戦、

経済的には裕福な家庭だったと言えど、見たこともない田舎へと、弟妹たちを連れて移住し、祖父が借りあげた一軒家で疎開生活を始めたものの、妻を亡くした祖父とて、大阪での仕事が あるから、なるべく定期的に訪れるのが精いっぱい。

そのたびに、まとまった生活費も、長女に一任して託し、次に来るまで、それで やっていくんだぞ、と言い置いて帰っていくが、私の母親だって、まだ小学生だ。

 

お米などは、祖父が、近辺の農家と契約していて、あの当時でも、母親らは、基本的に白米を食べていられた。

けれど、米だけで生くるに あらずで、

まだ聞き分けのない弟妹に ねだられたり、ぐずられたりして、どうしても、生活費の割り振り予算をオーバーしてしまう。

 

そこで、小学生だった母親は、近所の商店に頼み込んで、掃除や洗い物、井戸水汲みなどのアルバイトに雇ってもらい、下校後や休みの日に、僅かな日銭を稼いでは、足りない食料品や日用品を買い足しつつ、父親(私の祖父)が訪れるのを待ち焦がれていたそうな。

 

生まれつき病気がちで、子ども時分は痩せっぽちだったという母親が、
うんしょ、うんしょと、井戸水を汲み、洗い物に掃除と、いっしょうけんめい働いているあいだ、

おなかを すかせた下の叔母が やって来て、めそめそ泣きながら、
「ねえちゃ~ん、ねえちゃ~ん」
と、まとわりついてくるのを、店の人に見つかるとマズイ、家に戻れ!と叱って追い返すのが辛かったと、

この話を、私に聞かせるときの母親は、いつも涙ぐんでいた。

 

いま盛んに言われている「ヤング ケアラー」そのものだったわけよね。

 

 

私自身も、ある種の「ヤング ケアラー」に該当していたのだろうと思う。

両親とも、それぞれに、手間の かかる親だったからねw

 

母親を庇って、酒乱の親父を なだめ、どつかれ、

家のことも、近所の人たちが感心するくらい、よく手伝っていたはずだけど、それでも、母親にとっては、大いに不満足だったようで、

きょうは、どれだけの手伝いを したのかと詰問し、

もっと手伝いなさいと怒り、

溜まりに溜まっていた洗い物や掃除を やっといたよ、と告げると、

「それくらい やっても、バチは当たらん!」と返してくる。

 

そんな母親が、めずらしく、私について褒めていたのは、皮肉なことに、

私は、素直に喜ぶ気性で、素直に、お礼を言える性格だ、ということ。

プライドが高い母親には、それが できにくい傾向が あったからだろうか。

 

それ以外は、常に、

「おまえは、皆から嫌われる」と、

私に向かって呪文のように唱えていたけどね。

 

あと、

「おまえは、負けてクヤシイとか、他の人に できることを、自分は できないことが悔しくないのか!?」

と、小学生時分に、よく責めてきたものだが、

おっと、おっかさん、

くやしくても、努力で できるようになるわけじゃないからね。

不治の障碍を背負っている身で、他の人たちがアタリマエに できることを、自分が できないと、自分で自分が許せないのなら、もう、自殺でも するっきゃないわ。

 

「悔しくないのか??」

と問い詰められた私が、

「…べつに」

と、困惑して、力なく答えると、

母親は、心底、フシギで ならなかったようだ()

長じるに従い、諦めたのか、だんだん、それだけは言わなくなったw

 

たぶん、
他の人たちに できることが できなくても、

私に できることが、
母親も含めた、他の人たちには できないことも ある、

それが、なんとなく、私の余裕になっていた部分は あると思う。

 

まあ、でも、私だって、何度か自殺を はかったけど。

 

 

で、

私がマメに家事を手伝うのは、母親が病気の多い人だからと、子どもの頃から心配して思ってたからだが、

加えて、

いずれは親父と離婚する基礎づくりのためだったらしいが、東京の叔母の所で、まとまった おカネを貯めるために、長期間、家を出ていたので、少なくとも、自分のことは自分で殆ど やらなければ ならなくなった当時、私は小学低学年だった。

その後、大阪へ戻ってきた母親は、親父と、どういう結論を出したのやら、いちばんの理由は、私が、転校することを嫌がったからだと言ってたが、ほどなくして、割烹店を始め、数年後に交通事故で長期入院。

 

この間に、私は、年齢が大きく離れている腹違いの姉らのイヤミやイジメに晒されながら

(特に、義姉は、私を殴るように仕向けるため、親父に告げ口して唆す等、かつては義兄も同様の目に遭っていたらしいが、今度は私を餌食にしようとした)

いよいよ、自分で自分の身の回り全般を始末するのは勿論、
家事にも親しまざるを得なかった。

 

もっとも、このトシになって、ほんとうに手抜きばかりのズボラと化してるけどw

 

正直に言うと、

病気の親というものは、特に母親が そうだと、いつも、なんとなく、気分が重苦しく、鬱陶しいものだ。

特に精神面の問題を抱えている親は、ほんとうに、子どもは災難だろう。言って悪いけどね。

 

 

昔から、日本の庶民は、たくさん生まれた順繰りに、上の子が下の子を負ぶい、めんどうを みるのがアタリマエの習慣だったという。

母親も、農家だったり家内工業だったりで、夫と共働きがアタリマエ。

出産翌日には、野良仕事に出ていたという。

 

いまの時代なら幼稚園児に相当するくらいの子でも、あかんぼを背負わされ、あかんぼが今にも背中からズリ落ちそうになりながらも負ぶい続けていた、それは、現代では、「ヤング ケアラー」と名付けられ、虐待のうちと見做されるようになった。

 

常に、あかんぼをアタリマエに負ぶっていた、昔の、幼い子どもから見れば、現代の中学生や高校生ともなると、ほとんどオトナに等しいだろう。

オトナのように見えるであろう中学生や高校生は、幼い弟妹を負ぶわされたら、早々に殺してしまうかもしれない。
そんなことを懸念しなくては ならないようになった。

 

それどころか、実の母親ですら、産んだ端から、持て余して、殺す。

そんな時代に、どこが どうして、こうなったのか。

 

いやいや、

大昔から、母親は、わが子を間引いていたのだ。

「母親だからといって、母性を期待するほうが おかしい」

ナルホドよね。

 

 

……

おどんが うっ死()んだちゅうて

(だぃ)が泣いて(にゃあて)くりょか

裏の松山 蝉が鳴く

 

 

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Updated   
2022.02.08 (Tue)

近頃の所感いくつか。の続き。

 

ちょうど、
その頃から、『法善寺』の『水かけ不動尊』が、あのように苔に まみれていったのは何故、という話題が出た先日、
それは、くだんの『不動尊』「脇侍仏」の石像が、「器物損壊」だとかいうので、警察沙汰になりかけたというニュースが あったからだが、

聞けば、『コンガラ』『セイタカ』両像とも、頭部の苔が剥がされており、

いつ、誰が、というので、防犯カメラの記録映像を確認してみたら、とある老年の男性が、たぶん、あそこの備え付けの柄杓を使ってだろう、「脇侍仏」の頭をゴーリゴリやってるところが映っていたという。

 

一報を目にしたとき、私が真っ先に思ったのは、

「なに?!怪しからんなあ。しかし、このジイサン、よそ者なのか?」

ということ。

なぜなら、あの『不動尊』は、苔に覆われていてアタリマエという感覚が、大阪人なら、幼い子どもにすら共通しているであろうからだ。

 

私自身、あの苔を剥がそうなんて、ついぞ思ったことが ない。

あそこの近場で生まれ育った母親に連れられ、祖父宅へ訪問した帰途などに、お参りしたことが何度も あるが、
初めて、あの『不動尊』像を見たときは、たしかに、少々ギョッとした感覚は あったかと思う。

でも、それが、ここの『お不動さん』の姿なんだと、すんなり納得していた。苔だらけになっているのは何故かと、親に尋ねることもなかった。

 

だって、見たら分かる。毎日毎日、みんなで寄ってたかって、水を かけるんだからさ。

「お頼()申します」と祈りを込めて かけ続け、
それが積もり積もって、あのモコモコの緑の衣装だ。

 

地元の人だろうか、一人だけ、

「寄せられる信仰の厚さが、そのまま、あの苔の厚さなのだ」

というふうに、『ヤフー』コメント欄に投稿していたが、要するに、そういうことだろうよ。

 

んで、

「脇侍仏」は、おつむのテッペンからスムーズに水を かけやすいけれど、真ん中の『お不動さん』自体には、うまく水かけするのが、けっこう難しいのよ。おとなでも、見上げるくらいの大きさだから、私なんか、子ども時分から、『お不動さん』のおつむに水を、なんとかして かけようとチャレンジしたものだけれどw(この意味、わかるね?ww)

なかなか、うまく いかず、せっかく かけた水が、こっちへ跳ね返ってくる。なので、
むき出しの石像にパシャッと かけるよりは、水を吸う苔に、みっちり覆われているほうがイイくらいなのね。

 

やっちゃったジイサンは、きれいにしてあげたいと思ってのことだったそうだが、たしかに、一週間後くらいに、またぞろ訪れて、手には、ペーパータオルみたいなものを、「脇侍仏」のオツムを拭くために持って来ていたらしいから、ま、悪気で やったわけじゃないのだろう。

お寺側も、穏便に済ませたそうだから、それで良いだろう。

 

ただし。

信心の表現も いろいろだ。

ふつうなら、こんなはずは ないのに、ということが まかり通ってきているということは、何らかの理由なり事情の積み重ねが あろうかと察し、それでも疑問や問題に思うのなら、この場合、まずは、そばに ある寺務所に尋ねれば いいんだよ。

それも せずに、勝手に、いきなりだからね。

おとなの やることや ないよ。

『法善寺』ならぬ、まさに独り善がり。

しかし、このテの独善的な性格の者って、なぜか、老人それも爺さんに多いような印象は あるなぁ。

なんでやろ?

 

それと、

「ヤフゴミ捨て場」のヤフゴミんのなかには、

言わば「お不動さんの意思で、そうさせた」かも、

みたいな、わかったようなオカルトこじつけ言ってる者が いたが、

だったら、この世の全ての災厄、それは、あくまで人間にとってのだが、それら災厄の類の全てをも、「(神仏の)思し召し」として、素直に受容できるのか?

 

なべて「神仏」、それへの信仰というものは、人間の恐れ、苦しみ、不安、納得いかなさ、それこそを母胎に生まれたものだろう。

 

ともあれ、

子ども時分から、私は、『法善寺の水かけ不動』さんへ お参りするたび、なんとなく、「わが家に帰って来た」ような安らぎを感じていた。

あの お寺さんは、いまだ「戦後の復興」途中であるとは知らなんだが、
言われてみれば、子ども心にも、どこか変わった雰囲気の つくりでは あった。

 

『不動明王』が「本尊」に当たるという、うちの母親が亡くなってから、ほぼ全く、訪れることも なくなったので、なんとも言えず懐かしい。
いつか、機会が あれば、また お参りしたいと思った。

 

そして、母親は、私に言ったのだった。

「疎開から帰って来たら、難波から梅田まで、すかーっと見渡せるんや。ほんまに焼野原。おまえ、想像できるか?」と。

 

思えば、その、一面の焼け野原のなかで、くだんの『不動尊』だけが、轟々たる石の炎を背負ったまま、立ちつくしていたというわけだ。
どんな光景だったやら。

 

「あんたたち、想像できるか?」

以前にも紹介したとおり、これは、『広島』で「二次被爆」したという恩師のコトバ。

道端に、腕やら足やらゴロンと転がってる。誰も驚かんし、見も せん。
いまやったら、指一本でも大騒ぎで警察を呼ぶやろ?と。

 

おとなでさえ、大事な話と分かっていても、同じような内容を何度も聞いたりしているうちには、緊張感も薄れてくるし、ましてや子ども世代なら、なおさらだろう。

 

戦後となってからは、『平和教育』として、生々しい体験談を直に聞くことは、あの時代を生きたことが ない、体験できない者にとって、たいへんに得難いことだ。

けれど、
いつしか、もう だいぶ前から、『広島』や『沖縄』などで、重い体験を話してくださる人への礼儀を欠いた態度や、無関心さを あらわにする子どもが目立ち始めているという問題が報じられるようになり、
私も、どうしたものかしらと思っていた。

 

さて、先述の記事で、

横井氏が長年、『グアム島』で隠れ住んでいた地中の穴の空間を、実物大の断面図で、シンプルかつ的確に表現したパネル ボードを作製・設置し、子どもたちに体感してもらったという。

なるほど、「体感」!

とても良い発想、着眼点だと思う。

 

これまでにも、ちょっとした追体験的なイベントなどは、各所で時おり実施していたことと思うが、

たとえば、「すいとん」を作って試食してみたとか。

で、意外に美味しいと、子どもらが喜んだとw

 

ま、いかに美味しくても、年がら年中じゃ苦痛になるというところまで味わわないと、ほんとうの追体験には ならないんだろうな(苦笑)

 

話を聞いたり、見たりだけでなく、自分の身をもって、「自分事」体感してみる くふう。

「体感」。

今後の平和教育に大きなヒントと できうるのでは ないだろうか。

 

 

 

現在の『ミャンマー』などに おける、「民主主義の危機」的騒動を報じる記事を読んでいたら、なぜか、どうしても、自国のことを連想させるものが あり、

しかも、この日本のほうが、水面下でジワジワ進行しているのでないかという特徴的な危惧は、年々、確かさを増しているように思われる昨今。

 

「権力は腐敗する」。

長期権力は強固になった分、なおさら厄介だ。

こんなことくらい、世のなかの多くの凡人も指摘しているし、「ヤフゴミん」ですら、それくらいのコメントは しておる。

 

ただ、辛うじて選挙だけは やってるからと、「民主主義国家」として機能している、とは言えまい。

 

悪しき権力は、いずこに おいても、長く続けば続くほど、装いも巧妙に、手が込んでくる。

 

『民主主義』のはずの選挙も、あっけなく、機能しなくなるものなのだ。

 

装いの下が、どうなっていることか。。。

 

それを見分け、見抜いて、どう判断するのかは、有権者の知性しだいだ。

 

装いを凝らす必要すらも なくなったら。。。

とんだ「先祖返り」だわな。

 

文字、読むこと、書くことは、大昔は特権者のものだった。

悪しき権力者は、民衆の知性を、最も恐れるもの。

 

しかも、

辛うじて「間引き」せずに残した子どもには、さっさと働いてもらいたい、嫁入って口減らししてもらいたい、

うちのセガレや娘どもに、読み書きソロバン、学問なんぞ不要!

小難しいこと言うやつぁ目障り!

「お上」に間違いは あるはずない!すべて おまかせいたしやす!

と、

自分から言ってしまうのが、愚かなシモジモ庶民。

 

現代の日本人なんか、

「お上の間違いは、良い間違い」

てなことまで言いかねない。

なっ?『自民ダッピ党』支持者や、その周辺()

 

民衆の あさはかさを、悪しき権力者は、最も悦ぶ。

手間いらずだからねw

 

 

民衆の知性が、良く はたらくのなら、

独裁権力でさえ、良く はたらかざるを得ないだろう。

 

結局のところ、『民主主義』も、独裁の道具たりうる。

 

『民主主義』自体で自動機能するわけでは ないから。

 

 

Updated   
2022.02.08 (Tue)

まずは、
先日の、電車内タバコ注意したら凶悪暴行で返されたという事件ね。

これも あとから詳しく報じていたけど、

暴行犯は女連れだったそうで、「優先座席に寝そべり」という最初の情況は、ははあ、連れの女の膝にでも頭のっけてタバコぷかぷか、なんてな光景だったのか?wと。

 

で、
キッパリずばり真っ向から注意した男子高校生側も、数人連れだった。

 

「恥かかされた!」「メンツへし折られた!」
それも「女の前で!!」みたいな、か?ww

女連れの男、特に、屈折した劣等感のカタマリみたいな若造ほど、そりゃイキりたつもんねぇw

 

 

うちの母親が、親父と抜き差しならぬ不倫関係になり、とあるアパートで「通い婚」的な生活状態だったときに、階下の一室に入居していた家族連れの男性と、私の母親が、切っ掛けや理由は、私は聞いたのに憶えてないのか忘れてしまったか、とにかく、険悪な状況になったのだそうだ。

敗戦後の余韻も まだ少しは残っている時代だったのであろう。

くだんの男性は、戦時中、うちの親父よりも、ずっと下位の軍人だったとかも言ってたかなぁ?

で、親父が、私の母親の訴えを聞いてイキリたち、

「俺の女にガタガタ言うんじゃねえ!!」

とかナントカと怒鳴り込みに行って、ソッコーで相手の男性を問答無用に屈服させたらしい。

「俺の女」だった、私の母親は、うっとり

なーんてことも あったらしい()

男女絡みは、リクツじゃないからねえw


 

で、次は、横井庄一氏に関する記事。

そうだった、そうだった。

30年近くも『グアム島』内で隠れ住んでいた横井氏が帰国されたときの大騒ぎは、私は まだ子どもだったが、世間も、うちの親も、もちきりの話題だっただけに、さすがに憶えているし、例の、「恥ずかしながら」というコトバが、一種のブームのようになっていた影響で、クラスメートの男子たちが、軽薄にもフザケて真似したりしていたことも あったように思う。

 

これが横井庄一さんの隠れた「穴」の断面図原寸大を前に小学生たちも息を飲む~
2/1() 15:00配信 最終更新:2/1() 16:26CBCテレビ

https://news.yahoo.co.jp/articles/6782b34dd492dbdd9e6d85af3efd4666a968409e

 

この記事のなかでアップされている動画を見てみて、
あの頃の私は、やはり、戦後の子どもだったのだと再認識した。

というのは、
帰国後の記者会見の席に おいて、「恥ずかしながら」と話す、横井氏の表情の意味するところを、当時の私には、理解しきれていなかったなと気づいたから。

 

いま、このトシになって、やっと多少の理解が及ぶようになったのだろうか、

「恥ずかしながら、生きながらえておりましたけど」

と絞り出す、その表情は、帰国できた単純な嬉しさよりも、むしろ、
「ああー、やれやれだった」という深い深い疲労感と共に、どこか苦渋の入り混じった、なんとも複雑な表情だった。

 

のちに、今度は、『ルバング島』で小野田寛郎氏が発見されたわけだが、

かつての上官を、現地に呼びつけ、「情報将校」としての長い、あまりにも長い任務を、キッチリと手順を踏んで解除させてのけた、そのうえで、あくまでも「命令」に従ったのである、と言わんばかりの帰国を果たした小野田氏の表情からは(横井氏のときよりは、私の年齢も少し上がって、中学生になっていただけあってか)

もはや、話に聞くしかなかった時代の、まさに、ほんものの兵士の、現に生きて、立っている姿に、凄まじい意地と気迫を感じさせられたものだが、

そこのあたりの差が、横井氏の、いつの時代も変わらずに共通する庶民の柔軟な雰囲気が失われず前面に出ていたこととの違いだろうか。

 

それでも、

お二方とも、内に抱え込んだまま、目を逸らさなければ、やってられない重苦しさ、全てを言い尽くせることは なかったであろう。

 

横井氏の場合は、期せずして、現地住民に見つかり、もし最悪の場合は、その場で、二度と、故郷の土を踏みしめることも叶わぬまま終わったかもしれない、その いっぽうで、小野田氏の場合は、身内や戦友たちの一団が、自分を探しに来たことを知っていながら、なおも頑なに潜んでいて、ついに捜索を打ち切られた。その翌年、
みずから攻撃的にという「装い」だったのだろうか、今度は積極的に出てきて、日本の青年と遭遇するまでの、更に その間は、それまで以上に、よりいっそうの孤独と深い葛藤、後悔にさえも苛まれた1年だったことだろうと察する。

意地を張っていた本心では、なんとしてでも、自分を見つけ出し、無理にでも連れ帰ってほしかっただろうと思う。

 

もし、日本から やって来た「冒険家」青年の存在が なかったら、
小野田さんは、そのままだったのだろうか。。。

 

お二方とも、と言うよりも、日本兵は、現地の人々からの多大な恨みを買っていたのだ。

 

恐らく、横井さんや小野田さんのように、出るにも出られず、あるいは、敢えて、故国に背を向け、その地で黙って死に絶えていった人たちは、私たちの想像以上に多いのでは なかろうか。

 

小野田氏の場合、『日本会議』と深入りしてしまっていたというのも、残念なことだった。

 

ちなみに、

戦時中、まだ二十歳前後という若さだった うちの親父も、小野田氏と同世代であり、軍隊での階級なども近い。

以前から思っていたが、

それぞれの入隊、士官した頃の青年時代の風貌を写真で見ると、なんだか、似ているのだ。

晩年に至ってからも、やはり、共通した感じが ある。

もっとも、小野田さんのほうが、うちの親父なんかよりも、もっとキリッとしたハンサムだけどw

ただ、

親父も、もともと細身で細面(ほそおもて)なせいか、一見は、軍人それも将校クラスのバリバリ軍人にしては そぐわない、どちらかと言えば知的・柔和な雰囲気と言うか、軟弱にさえ見えるくらいなのだが、

しかし、なかみは、外見と大いに異なっていて、意外なほど「剛毅」と言うのか、いや、それよりも、以前から指摘していたように、

アメさんじゃないけれど、ずばり、

クレイジーemoji

としか言いようのない、
独特のガチガチゴリゴリした硬直性を保っていた。

 

これは、私らの世代も勿論だが、いまどきの若者、いやいや、

「疎開児童」世代であり、戦後の「墨塗り教科書」に、おとなたちへの猛烈な怒りと反発心が湧き起こったと言う世代の私の母親ですらも、

親父らの世代は、ほんとに独特、逆立ちしたって、あれは真似できない、と言い切っていたものだ。

あの時代の教育ぶり、ってことかな。。。

 

 

先日のエントリーで、再び、隣家の おじさんは「シベリア帰り」の人だったという話を少し述べたけれど、

どうりで、この おじさんが、ご自宅は勿論、うちの実家の台所やら水回りを始め、物置部屋、私の部屋の内装などをも含めて、ほぼ一人で黙々と建て増しや拡張していったあとに、やがて引っ越されたため、ご自宅の分を解体しなければならないので来てもらった専門業者が、あまりにも頑丈に造り過ぎていると言って驚き、非常に難儀していた、という理由も分かった。

そう、知ってる人は知ってるね。

「シベリア抑留」経験者だったからこそなんだ。

 

でもね、

この おじさん、「仏の」何タラさんと呼んでも通るくらいに、およそ不機嫌な感じの表情を、ついぞ見たことが ない私らにも、ご家族に対しても、常に穏かで、いつも、ひたすら優しい人だったけれど、

あるとき、おばさんから聞いた話では、

戦後になって、やっと、日本に帰って来て、まだ年数も浅かった頃までは、お酒を飲んで、酔いが回ったかなと思ったとたん、何が気に障ったのやら、無言のまま、いきなり、出刃包丁をグサーッと畳に深く突き立て、その包丁の柄を握ったまま、一畳分まるごと高々と持ち上げ、ぶんぶん振り回すほどの怪力で暴れていたんだという。

とても信じられない話だったけど。

あの おじさんも、戦時中そして抑留中の、コトバに できないものを深く、抱え込んでいたのだろうか。

 

 

で、私の場合は、
皮肉なことに、戦時中が、人生で最も輝かしいエリート時代だった親父は勿論のこと、
「疎開児童」世代だった母親にしても、
祖父は裕福だったので、戦時につきものの苦労、衣食住の どの面でも、基本的には、酷い不自由までは なかったから、都会っ子が田舎に疎開したときの定番話で、土地の学校の同級生に ねたまれ、特に、男子にサンザンいじめられて、だから、田舎者は大嫌いになったんだ、
とかいう、せいぜい、その程度なので、

本人にとっては、いろいろ大変な思いを したと精いっぱい言いたいわけであっても、

私には、うちの両親からの話だけでは、それほどの切迫感も感じられず、さりとて、学校の授業も、「臭い物にフタ」的通り一遍。

 

言っとくけど、

ウヨどもの主張とはウラハラで、

われわれの学校時分も、「平和教育」と言うよりは、単に、日本にとって つごうの悪いことは全てサラーッと駆け足で流して終わってたのw

 

だから、

うかうかしてたら、あの時代のことについて、ほとんど無知なまま成人し、親に なってしまうかもしれなかった私には、なんとなくながら危機感が あり、ゆえに、
学校の授業や親らの話には、あまり期待できないのならと、その かわりに、原爆投下や敗戦前後の話題が特集される時期の新聞記事、テレビならドキュメンタリー番組、若い兵士が書き遺したものや、当時の子どもたちの ようすなどを、ひととおりは知っておかねば なるまいと思い、自発的に読んだり見たりに努めていたものなのです。怠惰な私でもね。

 

私らの世代だって、いまの若い世代と同じく、「平和な時代」しか知らない。

だが、親や体験者から直接に聞かせてもらうことは、まだ可能だった。

 

けれど、
同時代を生きていた人どうしでさえ、全く同じ体験を したとは限らないのも現実なのよね。

 

たとえば、戦地の前線へ赴いた人と、国内から出ることが なかった親父とでは、同じ軍人でも、苦労の度合が全然、異なっているし、

母親の場合、祖父のツテで、地方に疎開していて、戦争が終わってから、生まれ育った大阪市内の実家へ戻ってきたので、『大阪大空襲』の直撃を、じかには知らない。

その頃、たまたま、事情が あってか、疎開せず、大阪市内に とどまっていた同級生とバッタリ遭遇し、そこで、あの『大阪大空襲』の凄まじかったことを聞いたのだ、と。

 

【続く】

 

 

Updated   
2022.02.02 (Wed)

うんざりウンザリうんざり!の続き。

 

やれやれ、
だれに頼まれたからとて、そんなにも過酷な苦労してるわけ?

「自分自身が、ナニしたくてナニした結果の腹ぼて、あるいは妊活とやらを強行したのか、いずれにせよ、だれから頼まれもせんのに産んだだけのことで、こうも自己愛まる出しになるとは()

「あーたが産み落とした、生まれさせられた子どもは、まず確実に逃げられぬ何らかの苦しみを負う日が、いつか必ず訪れる。どのみち死ぬ日が やってくる。この国では特に大災害に遭いやすいし、理不尽にも、ひょっとしたら、殺されるかもしれない。わかってて産んだのよね?いや、全くのところ、考えもしなかったんでしょうねw」

と、

しょせん、「ヤフゴミ捨て場」に入り浸り、視野の狭い自己愛コメント投稿に耽ってる、こんなのが母親だなんて、ろくなもんじゃあるまいという印象を拭えない私は、つい、冷笑してしまうんだけどさw

 

同じ女性どうしの あいだにも、イミフな敵を つくり、

同じ妊婦どうしや母親どうしの あいださえにも、ヘンな格付けランキングを拵えたがる。

 

なんか、近頃、このテの、自己愛性マザー、ナルシストかあちゃんが急激に増加してるんだろうか。

 

脳に異常が あった うちの母親は、まさに、そういうタイプだったがな。

いまの母親世代よりも、ずっと上の世代で、60歳代で亡くなり、いま存命ならば、80歳代なんだけど。

 

あるいは、これって、もしかしたら、一種の、いわゆる「フェミ」的スタンスからの投稿なのかな?とも思えたが、およそ宗教にも「フェミ」なんちゃらにも疎い私には、こうしたケッタイな風潮の原因となっている詳しいところは分からない。

 

ただ、いったい、自己愛的な歪みから起こしているような犯罪は、男の側にも、よりいっそう頻々と見受けられる傾向の現代だ。

 

 

付け加えておくと、

私の義姉(親父の長女)も、『帝王切開』で出産した。

あの頃は、いまみたいに、「少子化」が深刻になるという切迫感などなく、まだまだ、出生数が多かった時代だからか、『帝王切開』は、妊婦の要望じゃなく、病院や医者側のスケジュールの つごうで決められてしまうらしかった。

 

いまどきの妊婦さんは、持病とか、よんどころない事情が あるわけでもないのに、あえて『帝王切開』希望が多いんだろうか?そのへん、私は知らないけど。

 

 

義姉も、出産後、何度か、うちに電話してきて、母親が、何やら なだめているようすなのを、当時は、小学生か中1だった私は、何なんだろう?と怪訝に思いつつ、ただ、横で聞いていたのだが、

受話器を置いてから、母親が、いささかウンザリした口調で言っていたには、義姉は、切った おなかが痛いことをコボシているということだった。

 

ちなみに、

私自身も、開腹手術のあと、なにしろ、予想外に、痛み止めが殆ど効かなかったため、全身麻酔から覚めたとたん、七転八倒の苦しみを経験している。

痛み止めが効かないということは、おなかを切られた痛みが、そのままということなのだから、そりゃ、断末魔の如しだ。

 

このときも、わざわざ起こさずに、ほうっといてくれて よかったのに、とも思ったしw

以来、全身麻酔による「安楽死」の可能性に興味を持つようになった。

 

で、

重度の仮死状態で生まれさせられた私としては、はなはだ疑問に思えるのだが、

いちおうにせよ「自然分娩」と言っていいものやら どうやら、私の母親は、

『帝王切開』の傷が痛むと、電話で泣きついてくる義姉に対し、やっぱり、どこか軽蔑しているふうな感じだった。

 

私ら母子の場合、
出産予定日を1ヵ月も過ぎようとしているのに、

「出て来たがらないものを、無理に出すことも なかろう」

と、

すでに3人の子持ちだったバカな親父は言っていたそうだw

 

うんうん、いまの私には、察しが ついてるよ。

親父はサ、ダブル不倫相手だった私の母親を、そもそも、本気で、ヨメにするつもりもなかったのに、異常に気の強い女に押し切られたうえ、デキちゃった私を、本音では、産んでほしくなかったんだよねw
どうりで、出生届も出してなかったしww

 

で、

親父の言うことを本気にしていたとも思えないのだが、母親も母親だ。

初めての出産どころか、こっちも、すでに一度や二度は、出産も死産も経験済みでありながら、友人らと酒場へ飲みに出かけ、そこでナンパしてきた男が警察官で、などと、私に向かって、ヘンな自慢を語っていたが、このように、のほほんと構えていて、

ついに、当時は出始めだったという『陣痛促進剤』を使用しなければ ならない事態になった。

 

胎児だった私は、命の綱の「胎盤」が、ほぼ完全に剥がれていた状態のなか、栄養どころか、酸素が絶たれた状態。もちろん、憶えてないけどw

生後6ヵ月からの記憶がハッキリあるくらいだから、ふつうの状態で生まれていたなら、いわゆる「胎内記憶」も鮮明だっただろう。


それにしても、
このバカップル、私が、重度障碍を抱えて生まれたら、どうするつもりだったのやら。


 

いまでも、

「無理に蘇生してもらわいでも、せっかく、キゲン良く死ぬとこだったんだから、ほっといてくれたほうがw」

と思うのだがww

当の母親は、あくまでも、自分が大出血して、死にそうになったことを延々と自慢するだけ。
おまけに、
「会陰切開」とかを しないで済んだのは、医者も感心したほど、アソコの皮膚が柔軟だった おかげとかいう、ヘンな自慢もwww

 

 

『鬼子母神』の逆バージョン。

 

死ぬまで隠し通し、黙りとおして、
文字どおり「墓場まで」持って行きおおせた、魔女のような母親だけど、

私も、近年、長いあいだ疑問に思っていたことを、いろいろ調べてみて、やっと分かったんだが。

 

乳児期に、中等度の聴覚障碍を負うことになった原因が、母親のアンタであるだけでなく、

許し難いのは、
障碍が判明していても、親として取るべき対処を完全放棄し、

私に対して、ひたすら、

障碍のことは隠せ!
いや、そんなものは障碍なんかじゃない、
聞こえないのは、努力が足りない!性格が悪いから聞こえないんだ!と、

そればかりを言い張ってたでしょ、アンタはw

 

しまいには、

「そーいう星のもとに生まれたオマエが悪い!!」

と きたもんだ。

 

私の逸失利益は、莫大なもんだと思うぞ。

 

振り返ると、

うちの親らは、何かにつけて、私を罵るだけでなく、特に人前で罵倒したり、ひどく恥ずかしい思いを させるのが、殊のほかに楽しかったんだなと思い当たるのよ。

 

 

やれ、「来世は」とか「今度生まれてくるときは」と、無責任で陳腐な定番セリフを言わずにおれない心情も、「切なる思いゆえの願望」であるのだろうとして、理解できないでは ないけれど、

やはり、問題が全くないわけじゃないとも思う。

 

どうしても、「リセット」の感覚、
命についての安っぽい感性が つきまとうからだ。

 

言ってる本人たちは、真逆のつもりで、多分に無自覚なんだろうけど。

 

【続く】

 

 

Updated   
2022.02.02 (Wed)

最近、そうとうウンザリしていること。

まずは、相変わらずの政界のモメ事から いきましょうか。

これについては、いつにも増した、くだらない騒ぎなので、少しだけ触れるに とどめておくが、

いやはや、定番の「ヒットラー」を「ナチス」を、ってやつね。

『立憲民主党』の菅 元首相が、稚新あ、違った()w、『維新』だか橋下氏だかについて述べたという発言。

 

ことわっとくけど、私自身、『維新』にも橋下氏に対しても、早くから不審や批判を述べ続けてきたし、橋下さんと言えば、府知事のときだか市長のときだったか憶えてないけど、いつぞや、日本国内の駐留米軍兵士らに向けて、「風俗」ご利用のススメみたいな「提言」()を発して、内外ともに大顰蹙を買ったという騒ぎが あったわな。すっかり忘れてる人のほうが多いんだろうけど。

 

要するに、『アメリカ人』の「本音と建て前」というのは、基本的な宗教上の理由も大きいゆえにか、われわれ日本人以上に乖離している実態が あるようだし、少なくとも、「それを言っちゃあ おしめえよ」的な、まさに、「ご法度」発言だったのだが、

当の橋下氏ばかりは、そんなことにはトンと疎く、いたって妥当、適切な提言のつもりでブッ放しちゃったんだよね。

あのとき、完全に あらわになった、橋下さんの無知、無教養、軽薄ぶりは相変わらず継続していると見えて、

「国際的ご法度」などと、大きく出てのけたというので、わたしゃ、

「あー、そりゃ、菅さんも軽率だろうにせよ、橋下さんのハッタリと不勉強ぶりは相変わらずな!」

と、あらためて思った。

 

橋下氏の演説が上手いとか説得力が あるとかいうことが『ヒットラー』さながらとは本当なのか、私には全く分からない。ただ、不勉強を誤魔化すためにか、ヘリクツとハッタリ、単純な思い込みが目立つようだ、とは感じていた。

 

「ユダヤ人がっかり」ってのもさぁw

だったら、例の麻生さんの「ナチス(の手口)に学べ(学んだら どうだ)」云々発言は?()

これこそ、ユダヤ人にとって、致命的に聞き捨てならない発言のはずだろうにと思うがな。

でも、『自民ダッピ党』や麻生支持者らの擁護の洪水は、凄まじい勢いだったわな())

 

 

菅 元首相も、自党の政権を手離す結果となって以降、いまだに挽回できず、世間一般での評価が甚だ良くないままである、ゆえに、政権交代が遠ざかったまま足踏みしか できないどころか後退すら続いている局面は確かであると、ご本人自身、知っているはずだろうに、

しかも、いま現在、『立憲民主党』は、看板の顔を泉 健太氏に変えてみても(しかも、泉氏の風貌って、なんとなく『維新』っぽいよねw)、いよいよ坂を下ってく感じの現状なのだから、外野か どっかから指摘されたらしい「脅威に思うゆえ」の心理から出た発言だろうが何だろうが、
いかに、それが真実、本当のことであろうとも、ここは敢えて、悪口的な発信では なく、まさに、「建設的な」提言を、政治家としての矜持を以て発信することで、暗夜に足を踏み入れたかのような自党のための灯とすべきだった。

 

でも、正直なところ、ろくなアイディアも ないんでしょうね。

そこは、「敵方」だって同じなんだがね。

あーあ、与野党とも、なさけないね。

 

ほんとうに相変わらずで、

「ゆ党」と言うのか、『自民だっぴ党』の分身・子分たる稚新もとい『維新』のほうは大ハリキリ、自・公政権は ほくそ笑む、という構図。

このパターンを何度も再現してきた旧『民主党』系も、政権に就いていた当時から「ありゃ第二自民党だ」と、自身が言われてきたし、
野田 元首相に至っては、『自民党』への献身ぶりの、あまりな素晴らしさ見事さゆえに、『自民党』支持者のなかにすら、褒めそやす連中が少なくないようすだから、じつはスパイなんだろ?とまで思わせられたくらいだwいや、かなりマジで。

そこへ今度は、これも『立憲民主党』の特別顧問に おさまっているらしい菅 元首相による『ツイッター』か何かによる発信。

敵に塩とか燃料を差し入れしてるようなもんだ。

 

これといって、アイディアも ないから、政治家らしい指針や提言よりも、言い古されて退屈な悪口みたいなことしか言えない。
そして、
ワル極まって、大して何も言われないほどの高み()にまで登った『自民ダッピ』と、その腰巾着衆に、それこそ、ヘタの「揚げ足を取られる」だけ。だったら、黙ってるほうがマシ。

 

政治家としてのアイディアを高々と掲げ、同時に、そこに ついて来れやしない相手を、「おい、どうした?オマエんとこは、そこまでか?」と挑発し、徹底的に嘲ってみせるくらいなら、もう ちょっとは愉快なんだけどなw

 

ま、こうなった以上、菅さんも、とことん、反論、反撃したら いいさ。できるのならね。

ここでハンパな応酬しか できないでは、自分とこの党の歴代メンバーが繰り返してきたのと同じ、仲間の足を引っ張って終わることにしか ならないよ。

 

 

これぞ、終わった騒ぎだけど、

しょうもない不倫騒ぎなんぞで、まさに、自党の仲間らの足を引っ張って終わった、気鋭の(?)女性議員も いたよね。あれはガッカリなんてもんじゃなかった。いろいろ発覚して、せっかくの期待は粉々。

こういうことになる大もとの原因は、「不倫ケシカラン」の以前で、まず、本人の「エリート意識」と、子どもっぽいウヌボレが招いていることだ。

こんなにもタカ括ってイイ気になっていた者が、われわれ一般国民・庶民のための賢明な政治戦略を持って貫けるのだろうか、
また、世界の「海千山千」相手に、「手の内を見せず」渡り合えるのか、はなはだ怪しいぞと思わせられた。

 

 

でもさ。

たしかに、私も思ったよ。

「自民ダッピや稚新どもが、なにをエラソーに、鬼の首を取ったみたいに」

「自分に甘々、他人に厳しい姿勢と言うなら、テメエらの自分棚上げぶりのほうが、もっと強固で、年季が入ってて悪質だろうがよ」

「ほんもののワルには毎度のパターンだから、誰も驚かないだけw」

で、

「そこまでワルじゃない分、かわりにマ・ヌ・ケだから、ワキが甘くって、敵に叩かせる材料を、みずから提供しちゃってるだけw」と。

 

 

さて、「最近、ウンザリしている」ことの本題に入ろう。

まさしく、それは、実の親に虐待されて、殺された あかちゃんや子どもの記事には必ずと言っていいほど付くコメントのパターン。

「来世は」「次に生まれてくるときは」幸せに云々ってやつだ。

 

で、これも必ずのように、

「うちの子も同じくらいの年齢なので」胸が痛いだの、うちの子だったら、と続いてくる。

 

これから産みますとか近年に産みましたという世代なら、もしか、「ネット ゲーム」どっぷりのハシリ世代なんだろうか?

と思ってしまうくらい、命に対する感覚が軽薄なのかなあと疑わしく思えるのだが、

なぜなら、それは、まさに、

リセットできる

という感覚が まる出しになってるからだ。

 

まあ、そういうわけじゃなくて、せめてもの願望としてのセリフなのであろうか、「切なる思い」ゆえの表現なのかなと、軽薄にして陳腐なコトバの羅列でも、寛容に受けとめることも できようけれど、

こないだも、相変わらずのパターンで、あかんぼを殺してしまった母親の事件を報じる記事に付いた「ヤフゴミ捨て場」のコメントの ほぼ全てに!

「今度生まれてきたときは」

云々の定番セリフが、見事なほどズラ~リ並んでいたので、

さすがに、
「何かの宗教の仲間どうしが、一斉に投稿したのか?」
と、呆れてしまったよ。

 

あまりにも怪訝に思えたので、この典型的パターンのコメントを並べ立てる投稿者らの思考傾向を調べてみようかと思い、過去の投稿履歴を少々覗いてみたんだけど、

そこでは、「虹の橋」云々というセリフを述べているコメントも、目についた。

 

なるほど、近頃、ペット関係の記事には、「私も、うちの子(犬とか猫など)を亡くしたばかりで、悲しくって」と自己紹介する投稿者が、ペットの死を指して、「虹の橋を渡りました」てなセリフを、これまた判で押したみたいに一斉に並べる現象にも気づいていたのだが、これ、誰が言い始めたんだろうね、「虹の橋」ってのは。どうやら漠然としているらしいが。

まあ、いかにも定番という感じの、単純な慰めのためのオハナシに過ぎないようでは あるし、これ自体は、どうってことも ないと思うけれども。

 

しかし、

われわれ人間の子殺しの報道記事に必ずのように付く、「来世は」「今度生まれてきたら」という、このテのコメントには、大概、もう一つの共通したパターンも あって、それは、

「擁護するつもりは ないけれど」と前置きしつつも、
やっぱり、幼い子を殺した母親の肩を持ち、殺された子どもよりも、だんぜん、母親のほうに大いに同情する内容になっていることだ。

同時に、

夫であるか否かに かかわらず、子の父親への非難が伴っていることも多い。

かつ、

出産と育児が、どれほど大変であるかを力説し、

母親である自分たちを自己憐憫し、被害意識さらけ出しに及び、

最後は結局、

母親であることを、いかにヒロイックな、尊い犠牲的精神の発露ゆえかと自画自賛、

母親どうし絶賛し合って締めくくる()

 

おまけに、『帝王切開』で、おなか切った人は、子どものために切ったんだから、病気で切った人よりも偉いだとさ()

 

なんなの?w

そのケッタイなマウンティングは()

それにさ、

あれかい、

「おまえのために、おかあさんは、おなか切ったんだ」

と、自分の子どもに言えるわけ?

 

ま、うちの母親も、概ね、こんな感じだったが。

 

キモチわるいわぁ。。。

悲劇のヒロイン ママ、

責任転嫁のナルシストかあちゃんw

 

【続く】