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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2022.02.08 (Tue)

近頃の所感いくつか。の続き。

 

ちょうど、
その頃から、『法善寺』の『水かけ不動尊』が、あのように苔に まみれていったのは何故、という話題が出た先日、
それは、くだんの『不動尊』「脇侍仏」の石像が、「器物損壊」だとかいうので、警察沙汰になりかけたというニュースが あったからだが、

聞けば、『コンガラ』『セイタカ』両像とも、頭部の苔が剥がされており、

いつ、誰が、というので、防犯カメラの記録映像を確認してみたら、とある老年の男性が、たぶん、あそこの備え付けの柄杓を使ってだろう、「脇侍仏」の頭をゴーリゴリやってるところが映っていたという。

 

一報を目にしたとき、私が真っ先に思ったのは、

「なに?!怪しからんなあ。しかし、このジイサン、よそ者なのか?」

ということ。

なぜなら、あの『不動尊』は、苔に覆われていてアタリマエという感覚が、大阪人なら、幼い子どもにすら共通しているであろうからだ。

 

私自身、あの苔を剥がそうなんて、ついぞ思ったことが ない。

あそこの近場で生まれ育った母親に連れられ、祖父宅へ訪問した帰途などに、お参りしたことが何度も あるが、
初めて、あの『不動尊』像を見たときは、たしかに、少々ギョッとした感覚は あったかと思う。

でも、それが、ここの『お不動さん』の姿なんだと、すんなり納得していた。苔だらけになっているのは何故かと、親に尋ねることもなかった。

 

だって、見たら分かる。毎日毎日、みんなで寄ってたかって、水を かけるんだからさ。

「お頼()申します」と祈りを込めて かけ続け、
それが積もり積もって、あのモコモコの緑の衣装だ。

 

地元の人だろうか、一人だけ、

「寄せられる信仰の厚さが、そのまま、あの苔の厚さなのだ」

というふうに、『ヤフー』コメント欄に投稿していたが、要するに、そういうことだろうよ。

 

んで、

「脇侍仏」は、おつむのテッペンからスムーズに水を かけやすいけれど、真ん中の『お不動さん』自体には、うまく水かけするのが、けっこう難しいのよ。おとなでも、見上げるくらいの大きさだから、私なんか、子ども時分から、『お不動さん』のおつむに水を、なんとかして かけようとチャレンジしたものだけれどw(この意味、わかるね?ww)

なかなか、うまく いかず、せっかく かけた水が、こっちへ跳ね返ってくる。なので、
むき出しの石像にパシャッと かけるよりは、水を吸う苔に、みっちり覆われているほうがイイくらいなのね。

 

やっちゃったジイサンは、きれいにしてあげたいと思ってのことだったそうだが、たしかに、一週間後くらいに、またぞろ訪れて、手には、ペーパータオルみたいなものを、「脇侍仏」のオツムを拭くために持って来ていたらしいから、ま、悪気で やったわけじゃないのだろう。

お寺側も、穏便に済ませたそうだから、それで良いだろう。

 

ただし。

信心の表現も いろいろだ。

ふつうなら、こんなはずは ないのに、ということが まかり通ってきているということは、何らかの理由なり事情の積み重ねが あろうかと察し、それでも疑問や問題に思うのなら、この場合、まずは、そばに ある寺務所に尋ねれば いいんだよ。

それも せずに、勝手に、いきなりだからね。

おとなの やることや ないよ。

『法善寺』ならぬ、まさに独り善がり。

しかし、このテの独善的な性格の者って、なぜか、老人それも爺さんに多いような印象は あるなぁ。

なんでやろ?

 

それと、

「ヤフゴミ捨て場」のヤフゴミんのなかには、

言わば「お不動さんの意思で、そうさせた」かも、

みたいな、わかったようなオカルトこじつけ言ってる者が いたが、

だったら、この世の全ての災厄、それは、あくまで人間にとってのだが、それら災厄の類の全てをも、「(神仏の)思し召し」として、素直に受容できるのか?

 

なべて「神仏」、それへの信仰というものは、人間の恐れ、苦しみ、不安、納得いかなさ、それこそを母胎に生まれたものだろう。

 

ともあれ、

子ども時分から、私は、『法善寺の水かけ不動』さんへ お参りするたび、なんとなく、「わが家に帰って来た」ような安らぎを感じていた。

あの お寺さんは、いまだ「戦後の復興」途中であるとは知らなんだが、
言われてみれば、子ども心にも、どこか変わった雰囲気の つくりでは あった。

 

『不動明王』が「本尊」に当たるという、うちの母親が亡くなってから、ほぼ全く、訪れることも なくなったので、なんとも言えず懐かしい。
いつか、機会が あれば、また お参りしたいと思った。

 

そして、母親は、私に言ったのだった。

「疎開から帰って来たら、難波から梅田まで、すかーっと見渡せるんや。ほんまに焼野原。おまえ、想像できるか?」と。

 

思えば、その、一面の焼け野原のなかで、くだんの『不動尊』だけが、轟々たる石の炎を背負ったまま、立ちつくしていたというわけだ。
どんな光景だったやら。

 

「あんたたち、想像できるか?」

以前にも紹介したとおり、これは、『広島』で「二次被爆」したという恩師のコトバ。

道端に、腕やら足やらゴロンと転がってる。誰も驚かんし、見も せん。
いまやったら、指一本でも大騒ぎで警察を呼ぶやろ?と。

 

おとなでさえ、大事な話と分かっていても、同じような内容を何度も聞いたりしているうちには、緊張感も薄れてくるし、ましてや子ども世代なら、なおさらだろう。

 

戦後となってからは、『平和教育』として、生々しい体験談を直に聞くことは、あの時代を生きたことが ない、体験できない者にとって、たいへんに得難いことだ。

けれど、
いつしか、もう だいぶ前から、『広島』や『沖縄』などで、重い体験を話してくださる人への礼儀を欠いた態度や、無関心さを あらわにする子どもが目立ち始めているという問題が報じられるようになり、
私も、どうしたものかしらと思っていた。

 

さて、先述の記事で、

横井氏が長年、『グアム島』で隠れ住んでいた地中の穴の空間を、実物大の断面図で、シンプルかつ的確に表現したパネル ボードを作製・設置し、子どもたちに体感してもらったという。

なるほど、「体感」!

とても良い発想、着眼点だと思う。

 

これまでにも、ちょっとした追体験的なイベントなどは、各所で時おり実施していたことと思うが、

たとえば、「すいとん」を作って試食してみたとか。

で、意外に美味しいと、子どもらが喜んだとw

 

ま、いかに美味しくても、年がら年中じゃ苦痛になるというところまで味わわないと、ほんとうの追体験には ならないんだろうな(苦笑)

 

話を聞いたり、見たりだけでなく、自分の身をもって、「自分事」体感してみる くふう。

「体感」。

今後の平和教育に大きなヒントと できうるのでは ないだろうか。

 

 

 

現在の『ミャンマー』などに おける、「民主主義の危機」的騒動を報じる記事を読んでいたら、なぜか、どうしても、自国のことを連想させるものが あり、

しかも、この日本のほうが、水面下でジワジワ進行しているのでないかという特徴的な危惧は、年々、確かさを増しているように思われる昨今。

 

「権力は腐敗する」。

長期権力は強固になった分、なおさら厄介だ。

こんなことくらい、世のなかの多くの凡人も指摘しているし、「ヤフゴミん」ですら、それくらいのコメントは しておる。

 

ただ、辛うじて選挙だけは やってるからと、「民主主義国家」として機能している、とは言えまい。

 

悪しき権力は、いずこに おいても、長く続けば続くほど、装いも巧妙に、手が込んでくる。

 

『民主主義』のはずの選挙も、あっけなく、機能しなくなるものなのだ。

 

装いの下が、どうなっていることか。。。

 

それを見分け、見抜いて、どう判断するのかは、有権者の知性しだいだ。

 

装いを凝らす必要すらも なくなったら。。。

とんだ「先祖返り」だわな。

 

文字、読むこと、書くことは、大昔は特権者のものだった。

悪しき権力者は、民衆の知性を、最も恐れるもの。

 

しかも、

辛うじて「間引き」せずに残した子どもには、さっさと働いてもらいたい、嫁入って口減らししてもらいたい、

うちのセガレや娘どもに、読み書きソロバン、学問なんぞ不要!

小難しいこと言うやつぁ目障り!

「お上」に間違いは あるはずない!すべて おまかせいたしやす!

と、

自分から言ってしまうのが、愚かなシモジモ庶民。

 

現代の日本人なんか、

「お上の間違いは、良い間違い」

てなことまで言いかねない。

なっ?『自民ダッピ党』支持者や、その周辺()

 

民衆の あさはかさを、悪しき権力者は、最も悦ぶ。

手間いらずだからねw

 

 

民衆の知性が、良く はたらくのなら、

独裁権力でさえ、良く はたらかざるを得ないだろう。

 

結局のところ、『民主主義』も、独裁の道具たりうる。

 

『民主主義』自体で自動機能するわけでは ないから。

 

 

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