2022.02.08 (Tue)
まずは、
先日の、電車内タバコ注意したら凶悪暴行で返されたという事件ね。
これも あとから詳しく報じていたけど、
暴行犯は女連れだったそうで、「優先座席に寝そべり」という最初の情況は、ははあ、連れの女の膝にでも頭のっけてタバコぷかぷか、なんてな光景だったのか?wと。
で、
キッパリずばり真っ向から注意した男子高校生側も、数人連れだった。
「恥かかされた!」「メンツへし折られた!」
それも「女の前で!!」みたいな、か?ww
女連れの男、特に、屈折した劣等感のカタマリみたいな若造ほど、そりゃイキりたつもんねぇw
うちの母親が、親父と抜き差しならぬ不倫関係になり、とあるアパートで「通い婚」的な生活状態だったときに、階下の一室に入居していた家族連れの男性と、私の母親が、切っ掛けや理由は、私は聞いたのに憶えてないのか忘れてしまったか、とにかく、険悪な状況になったのだそうだ。
敗戦後の余韻も まだ少しは残っている時代だったのであろう。
くだんの男性は、戦時中、うちの親父よりも、ずっと下位の軍人だったとかも言ってたかなぁ?
で、親父が、私の母親の訴えを聞いてイキリたち、
「俺の女にガタガタ言うんじゃねえ!!」
とかナントカと怒鳴り込みに行って、ソッコーで相手の男性を問答無用に屈服させたらしい。
「俺の女」だった、私の母親は、うっとり
なーんてことも あったらしい(嗤)
男女絡みは、リクツじゃないからねえw
で、次は、横井庄一氏に関する記事。
そうだった、そうだった。
30年近くも『グアム島』内で隠れ住んでいた横井氏が帰国されたときの大騒ぎは、私は まだ子どもだったが、世間も、うちの親も、もちきりの話題だっただけに、さすがに憶えているし、例の、「恥ずかしながら」というコトバが、一種のブームのようになっていた影響で、クラスメートの男子たちが、軽薄にもフザケて真似したりしていたことも あったように思う。
『これが横井庄一さんの隠れた「穴」の“断面図”~“原寸大”を前に小学生たちも息を飲む~』
2/1(火) 15:00配信 最終更新:2/1(火) 16:26CBCテレビ
https://news.yahoo.co.jp/articles/6782b34dd492dbdd9e6d85af3efd4666a968409e
この記事のなかでアップされている動画を見てみて、
あの頃の私は、やはり、戦後の子どもだったのだと再認識した。
というのは、
帰国後の記者会見の席に おいて、「恥ずかしながら」と話す、横井氏の表情の意味するところを、当時の私には、理解しきれていなかったなと気づいたから。
いま、このトシになって、やっと多少の理解が及ぶようになったのだろうか、
「恥ずかしながら、生きながらえておりましたけど」
と絞り出す、その表情は、帰国できた単純な嬉しさよりも、むしろ、
「ああー、やれやれだった」という深い深い疲労感と共に、どこか苦渋の入り混じった、なんとも複雑な表情だった。
のちに、今度は、『ルバング島』で小野田寛郎氏が発見されたわけだが、
かつての上官を、現地に呼びつけ、「情報将校」としての長い、あまりにも長い任務を、キッチリと手順を踏んで解除させてのけた、そのうえで、あくまでも「命令」に従ったのである、と言わんばかりの帰国を果たした小野田氏の表情からは(横井氏のときよりは、私の年齢も少し上がって、中学生になっていただけあってか)、
もはや、話に聞くしかなかった時代の、まさに、ほんものの兵士の、現に生きて、立っている姿に、凄まじい意地と気迫を感じさせられたものだが、
そこのあたりの差が、横井氏の、いつの時代も変わらずに共通する庶民の柔軟な雰囲気が失われず前面に出ていたこととの違いだろうか。
それでも、
お二方とも、内に抱え込んだまま、目を逸らさなければ、やってられない重苦しさ、全てを言い尽くせることは なかったであろう。
横井氏の場合は、期せずして、現地住民に見つかり、もし最悪の場合は、その場で、二度と、故郷の土を踏みしめることも叶わぬまま終わったかもしれない、その いっぽうで、小野田氏の場合は、身内や戦友たちの一団が、自分を探しに来たことを知っていながら、なおも頑なに潜んでいて、ついに捜索を打ち切られた。その翌年、
みずから攻撃的にという「装い」だったのだろうか、今度は積極的に出てきて、日本の青年と遭遇するまでの、更に その間は、それまで以上に、よりいっそうの孤独と深い葛藤、後悔にさえも苛まれた1年だったことだろうと察する。
意地を張っていた本心では、なんとしてでも、自分を見つけ出し、無理にでも連れ帰ってほしかっただろうと思う。
もし、日本から やって来た「冒険家」青年の存在が なかったら、
小野田さんは、そのままだったのだろうか。。。
お二方とも、と言うよりも、日本兵は、現地の人々からの多大な恨みを買っていたのだ。
恐らく、横井さんや小野田さんのように、出るにも出られず、あるいは、敢えて、故国に背を向け、その地で黙って死に絶えていった人たちは、私たちの想像以上に多いのでは なかろうか。
小野田氏の場合、『日本会議』と深入りしてしまっていたというのも、残念なことだった。
ちなみに、
戦時中、まだ二十歳前後という若さだった うちの親父も、小野田氏と同世代であり、軍隊での階級なども近い。
以前から思っていたが、
それぞれの入隊、士官した頃の青年時代の風貌を写真で見ると、なんだか、似ているのだ。
晩年に至ってからも、やはり、共通した感じが ある。
もっとも、小野田さんのほうが、うちの親父なんかよりも、もっとキリッとしたハンサムだけどw
ただ、
親父も、もともと細身で細面(ほそおもて)なせいか、一見は、軍人それも将校クラスのバリバリ軍人にしては そぐわない、どちらかと言えば知的・柔和な雰囲気と言うか、軟弱にさえ見えるくらいなのだが、
しかし、なかみは、外見と大いに異なっていて、意外なほど「剛毅」と言うのか、いや、それよりも、以前から指摘していたように、
アメさんじゃないけれど、ずばり、
「クレイジー!」
としか言いようのない、
独特のガチガチゴリゴリした硬直性を保っていた。
これは、私らの世代も勿論だが、いまどきの若者、いやいや、
「疎開児童」世代であり、戦後の「墨塗り教科書」に、おとなたちへの猛烈な怒りと反発心が湧き起こったと言う世代の私の母親ですらも、
親父らの世代は、ほんとに独特、逆立ちしたって、あれは真似できない、と言い切っていたものだ。
あの時代の教育ぶり、ってことかな。。。
先日のエントリーで、再び、隣家の おじさんは「シベリア帰り」の人だったという話を少し述べたけれど、
どうりで、この おじさんが、ご自宅は勿論、うちの実家の台所やら水回りを始め、物置部屋、私の部屋の内装などをも含めて、ほぼ一人で黙々と建て増しや拡張していったあとに、やがて引っ越されたため、ご自宅の分を解体しなければならないので来てもらった専門業者が、あまりにも頑丈に造り過ぎていると言って驚き、非常に難儀していた、という理由も分かった。
そう、知ってる人は知ってるね。
「シベリア抑留」経験者だったからこそなんだ。
でもね、
この おじさん、「仏の」何タラさんと呼んでも通るくらいに、およそ不機嫌な感じの表情を、ついぞ見たことが ない私らにも、ご家族に対しても、常に穏かで、いつも、ひたすら優しい人だったけれど、
あるとき、おばさんから聞いた話では、
戦後になって、やっと、日本に帰って来て、まだ年数も浅かった頃までは、お酒を飲んで、酔いが回ったかなと思ったとたん、何が気に障ったのやら、無言のまま、いきなり、出刃包丁をグサーッと畳に深く突き立て、その包丁の柄を握ったまま、一畳分まるごと高々と持ち上げ、ぶんぶん振り回すほどの怪力で暴れていたんだという。
とても信じられない話だったけど。
あの おじさんも、戦時中そして抑留中の、コトバに できないものを深く、抱え込んでいたのだろうか。
で、私の場合は、
皮肉なことに、戦時中が、人生で最も輝かしいエリート時代だった親父は勿論のこと、
「疎開児童」世代だった母親にしても、
祖父は裕福だったので、戦時につきものの苦労、衣食住の どの面でも、基本的には、酷い不自由までは なかったから、都会っ子が田舎に疎開したときの定番話で、土地の学校の同級生に ねたまれ、特に、男子にサンザンいじめられて、だから、田舎者は大嫌いになったんだ、
とかいう、せいぜい、その程度なので、
本人にとっては、いろいろ大変な思いを したと精いっぱい言いたいわけであっても、
私には、うちの両親からの話だけでは、それほどの切迫感も感じられず、さりとて、学校の授業も、「臭い物にフタ」的通り一遍。
言っとくけど、
ウヨどもの主張とはウラハラで、
われわれの学校時分も、「平和教育」と言うよりは、単に、日本にとって つごうの悪いことは全てサラーッと駆け足で流して終わってたのw
だから、
うかうかしてたら、あの時代のことについて、ほとんど無知なまま成人し、親に なってしまうかもしれなかった私には、なんとなくながら危機感が あり、ゆえに、
学校の授業や親らの話には、あまり期待できないのならと、その かわりに、原爆投下や敗戦前後の話題が特集される時期の新聞記事、テレビならドキュメンタリー番組、若い兵士が書き遺したものや、当時の子どもたちの ようすなどを、ひととおりは知っておかねば なるまいと思い、自発的に読んだり見たりに努めていたものなのです。怠惰な私でもね。
私らの世代だって、いまの若い世代と同じく、「平和な時代」しか知らない。
だが、親や体験者から直接に聞かせてもらうことは、まだ可能だった。
けれど、
同時代を生きていた人どうしでさえ、全く同じ体験を したとは限らないのも現実なのよね。
たとえば、戦地の前線へ赴いた人と、国内から出ることが なかった親父とでは、同じ軍人でも、苦労の度合が全然、異なっているし、
母親の場合、祖父のツテで、地方に疎開していて、戦争が終わってから、生まれ育った大阪市内の実家へ戻ってきたので、『大阪大空襲』の直撃を、じかには知らない。
その頃、たまたま、事情が あってか、疎開せず、大阪市内に とどまっていた同級生とバッタリ遭遇し、そこで、あの『大阪大空襲』の凄まじかったことを聞いたのだ、と。
【続く】