2022.02.11 (Fri)
『【続】昔の「ヤング ケアラー」と、現代の母親たち』の」続き。
義祖母が やって来る前の事情なのだが、
長女である母親は、小学低学年の年齢で、実母(私の実祖母)を亡くしているので、幼い弟妹たちを、自分自身も まだ幼いうちからメンドウみていた。
間もなく、日本は、『太平洋戦争(第二次世界大戦)』開戦、
経済的には裕福な家庭だったと言えど、見たこともない田舎へと、弟妹たちを連れて移住し、祖父が借りあげた一軒家で疎開生活を始めたものの、妻を亡くした祖父とて、大阪での仕事が あるから、なるべく定期的に訪れるのが精いっぱい。
そのたびに、まとまった生活費も、長女に一任して託し、次に来るまで、それで やっていくんだぞ、と言い置いて帰っていくが、私の母親だって、まだ小学生だ。
お米などは、祖父が、近辺の農家と契約していて、あの当時でも、母親らは、基本的に白米を食べていられた。
けれど、米だけで生くるに あらずで、
まだ聞き分けのない弟妹に ねだられたり、ぐずられたりして、どうしても、生活費の割り振り予算をオーバーしてしまう。
そこで、小学生だった母親は、近所の商店に頼み込んで、掃除や洗い物、井戸水汲みなどのアルバイトに雇ってもらい、下校後や休みの日に、僅かな日銭を稼いでは、足りない食料品や日用品を買い足しつつ、父親(私の祖父)が訪れるのを待ち焦がれていたそうな。
生まれつき病気がちで、子ども時分は痩せっぽちだったという母親が、
うんしょ、うんしょと、井戸水を汲み、洗い物に掃除と、いっしょうけんめい働いているあいだ、
おなかを すかせた下の叔母が やって来て、めそめそ泣きながら、
「ねえちゃ~ん、ねえちゃ~ん」
と、まとわりついてくるのを、店の人に見つかるとマズイ、家に戻れ!と叱って追い返すのが辛かったと、
この話を、私に聞かせるときの母親は、いつも涙ぐんでいた。
いま盛んに言われている「ヤング ケアラー」そのものだったわけよね。
私自身も、ある種の「ヤング ケアラー」に該当していたのだろうと思う。
両親とも、それぞれに、手間の かかる親だったからねw
母親を庇って、酒乱の親父を なだめ、どつかれ、
家のことも、近所の人たちが感心するくらい、よく手伝っていたはずだけど、それでも、母親にとっては、大いに不満足だったようで、
きょうは、どれだけの手伝いを したのかと詰問し、
もっと手伝いなさいと怒り、
溜まりに溜まっていた洗い物や掃除を やっといたよ、と告げると、
「それくらい やっても、バチは当たらん!」と返してくる。
そんな母親が、めずらしく、私について褒めていたのは、皮肉なことに、
私は、素直に喜ぶ気性で、素直に、お礼を言える性格だ、ということ。
プライドが高い母親には、それが できにくい傾向が あったからだろうか。
それ以外は、常に、
「おまえは、皆から嫌われる」と、
私に向かって呪文のように唱えていたけどね。
あと、
「おまえは、負けてクヤシイとか、他の人に できることを、自分は できないことが悔しくないのか!?」
と、小学生時分に、よく責めてきたものだが、
おっと、おっかさん、
くやしくても、努力で できるようになるわけじゃないからね。
不治の障碍を背負っている身で、他の人たちがアタリマエに できることを、自分が できないと、自分で自分が許せないのなら、もう、自殺でも するっきゃないわ。
「悔しくないのか??」
と問い詰められた私が、
「…べつに」
と、困惑して、力なく答えると、
母親は、心底、フシギで ならなかったようだ(爆)
長じるに従い、諦めたのか、だんだん、それだけは言わなくなったw
たぶん、
他の人たちに できることが できなくても、
私に できることが、
母親も含めた、他の人たちには できないことも ある、
それが、なんとなく、私の余裕になっていた部分は あると思う。
まあ、でも、私だって、何度か自殺を はかったけど。
で、
私がマメに家事を手伝うのは、母親が病気の多い人だからと、子どもの頃から心配して思ってたからだが、
加えて、
いずれは親父と離婚する基礎づくりのためだったらしいが、東京の叔母の所で、まとまった おカネを貯めるために、長期間、家を出ていたので、少なくとも、自分のことは自分で殆ど やらなければ ならなくなった当時、私は小学低学年だった。
その後、大阪へ戻ってきた母親は、親父と、どういう結論を出したのやら、いちばんの理由は、私が、転校することを嫌がったからだと言ってたが、ほどなくして、割烹店を始め、数年後に交通事故で長期入院。
この間に、私は、年齢が大きく離れている腹違いの姉らのイヤミやイジメに晒されながら
(特に、義姉は、私を殴るように仕向けるため、親父に告げ口して唆す等、かつては義兄も同様の目に遭っていたらしいが、今度は私を餌食にしようとした)、
いよいよ、自分で自分の身の回り全般を始末するのは勿論、
家事にも親しまざるを得なかった。
もっとも、このトシになって、ほんとうに手抜きばかりのズボラと化してるけどw
正直に言うと、
病気の親というものは、特に母親が そうだと、いつも、なんとなく、気分が重苦しく、鬱陶しいものだ。
特に精神面の問題を抱えている親は、ほんとうに、子どもは災難だろう。言って悪いけどね。
…
昔から、日本の庶民は、たくさん生まれた順繰りに、上の子が下の子を負ぶい、めんどうを みるのがアタリマエの習慣だったという。
母親も、農家だったり家内工業だったりで、夫と共働きがアタリマエ。
出産翌日には、野良仕事に出ていたという。
いまの時代なら幼稚園児に相当するくらいの子でも、あかんぼを背負わされ、あかんぼが今にも背中からズリ落ちそうになりながらも負ぶい続けていた、それは、現代では、「ヤング ケアラー」と名付けられ、虐待のうちと見做されるようになった。
常に、あかんぼをアタリマエに負ぶっていた、昔の、幼い子どもから見れば、現代の中学生や高校生ともなると、ほとんどオトナに等しいだろう。
オトナのように見えるであろう中学生や高校生は、幼い弟妹を負ぶわされたら、早々に殺してしまうかもしれない。
そんなことを懸念しなくては ならないようになった。
それどころか、実の母親ですら、産んだ端から、持て余して、殺す。
そんな時代に、どこが どうして、こうなったのか。
いやいや、
大昔から、母親は、わが子を間引いていたのだ。
「母親だからといって、母性を期待するほうが おかしい」
ナルホドよね。
……
〽おどんが うっ死(ち)んだちゅうて
誰(だぃ)が泣いて(にゃあて)くりょか
裏の松山 蝉が鳴く