2016.08.18 (Thu)
「あっ、そ~ぅ」
が つとに知られていた昭和天皇の御生前、侍従の どなたかに、
自分は口下手なので、、、
という お悩みを こぼされたことが あったそうな。
だからこその、万感を込められての
「あっ、そぉ~ぅ」
だったのだろう(笑)
このエピソードを思い出すたび、
いずれ、「天皇」の地位に就くことになるのであろう立場に おられる人の苦悩を思わずに いられない。
仮に、
現皇太子家の一人娘さんである愛子内親王が、「女性天皇」あるいは「女系天皇」となられるとしよう。
これまでの各社ニュース記事等から窺える印象では、
見ず知らずの誰とでも気楽に雑談等こなすのが お得意そうなタイプでは、けっして なさそうに見受けるのだけれど、
長じるにしたがって、場慣れも あろうかとは思うけれど、
ある程度の変化は あり得るにしても、人間もともとの性質は、あまり大きく変わらないだろうし、しかし、そんなことを言って避けているわけに いくまいから、先々を想像すると、なんだか お気の毒な感じさえ するのだ。
昭和天皇までは、いかに悲惨な戦争そして敗戦という結末を招いた御代とは言えど、
最後の「帝王教育」を施されて生育したという天皇と、「現人神」なる刷り込みを施されていたシモジモ国民の時代だったのだから、
たった一言に、せいいっぱいの気遣いと万感を込め、鷹揚に頷いておられるだけで、人々は有難がって済んでいたのかもしれないが、
現代においては、すでに、そんな大らかなことでは通らなくなっている。
公務を怠けている!という俗世間でのイメージに左右されたか愚か者が、威丈高な憤りを見せて、目の前の皇太子妃に掴みかからんばかり口汚く罵りながらの無礼な ふるまいが、公衆の面前にて起きたことが あった。
いまの民衆は、情報が溢れるばかりの時代にあって、ますます、分かり易さ、かつ、自発的に そうあろうと努める存在を求めている。
だから、『日本会議系』御用学者の「八木」某あたりが言ったという、まさに、「菊のカーテン」の「奥に まします」的な やりかたでは、現代の民心は、もっと離れていき、もっと無関心になるだろう。
こういうところからして、『日本会議』系の連中は、時代錯誤が酷過ぎて、わざとじゃないのなら、何も分かってないとしか言いようがない。
それこそ、麻生さんの「ナチスに学べ」じゃないが、
民衆が気づかないうちに着実に遣り遂げられていた静かな革命、
現天皇のほうが、その辺の現実を、よく分かっていらっしゃったわけだ。
ところで、
一般人ならば、誰から敬意を以て遇されることも一切なく、ひたすら孤立無援の、しがない労働者として働かざるを得ない情況も、めずらしいことでは ないが、
そんな生活のなかで、どうにも性に合わない仕事に明け暮れているうちには、精神力が強靭でないことには、やがて、鬱にもなってしまうことだろう。それだからと言って、
仕事を休むことも ままならず、医者に通うのも躊躇い続け、
最後は、人生そのものが転落していき、最低限レベルの生活を することすら困難となる、そんな事態も、現代日本の民衆に あり得ることとなって久しい。
世界有数の金持ち国にて生育しているはずの小児たちが餓えることも、殺められ、行方知れずになることも、さほど まれな現象で なくなった。
何々の「宮」と生まれ、名付けられた、ただただ それゆえに、とびっきり高価な宝冠で飾られて当然とされる、どう見ても、普通の人にしか見えない、何の実績もない若い女性。
あまりに強烈な対比の構図には、感想のコトバも容易には出てこない。
相変わらずの「ヤフー」名物(?)醜悪コメント勢揃いコーナーのなかには、
「天皇外交」の おかげで日本は云々と、むやみに有難がっている者が いるけれど、
カン違いしては いけない。
天皇家や皇室の外交というものは、基本的に日本国として、友好関係を確立できている相手国以外へは赴かせるはずがないのだ。
したがって、すでに友好関係に あると見做されている相手国との親睦を深める意義は少しは あるにせよ、
あたかも、国家間外交を、天皇家や皇室が切り開き、揺るぎなく良好な関係を築いているかのような有難がりは、これまた、あまりに短絡的で滑稽である。
むしろ、過去の歴史を少しでも振り返れば分かるように、
各時代の権力筋が、邪まに利用するため、つごうのいい存在となる危険性のほうが圧倒的に高かったわけだ。明確に主権を有していた時代の天皇でさえもだ。
それにしても、
現天皇の、先日の発表で吐露された「全身全霊」という、それは、
いったい誰が判断するのだろうか。
最悪のケースから考慮してみれば、
もし、どう見ても、「全身全霊」とは言えない、それどころか、傍から見ていても、普通、 まとも、とすら言えないほどの事態になったとしても、
天皇ご本人が、
「いーや、自分としては全身全霊で やってますので!」
と主張するなら、それが全てでしかないわけだろうか?
あるいは逆に、
ほんとうは「全身全霊」とまで いかなくても、
傍目には、じゅうぶんに、そのように見える演技力がキモになるだろうか。
当人の心情や状態と、外から見ている他者の受け止めが乖離していることも よくあること。
だいたい、精神を守るための自然の摂理で、
人間いつもいつも「全身全霊」が持続するはずも なく、
面識もない他人の幸せを つよく願い続け、不幸事には、深く心塞ぐような状態を続けておれるとしたら、それこそ「超人」と呼ぶに ふさわしいだろうが、あり得ない。
そんな状態を長年にわたって続けていたら、
ふつうに人間ならば、遠からず、
「燃え尽き症候群」
のごとくになってしまうはず。
ならば、
「全身全霊」と言っても、
自分個人の判断で、そうだと主張しているに過ぎないのではないか。
「全身全霊で」というのは、きれいごとではないのか。
いまの天皇さんは、いわゆる国事行為よりは、被災地訪問等の直接の「お出まし」公務を最重視なさっておられるようだが、
実際は、被災現地では、天皇や皇族を迎えるための準備で、かえって、負担が増すと言っていた。
そのへんは、どのように お考えなのだろうか。
もちろん、お顔を拝めたとて、リクツ抜きで感激する人たちは少なくないのだろう。
一般に、高齢者(特に地方の)は、自民党シンパと同様、天皇・皇室崇拝者が多いと聞くし、それでなくとも、大衆というものは、
それが天皇や皇族でなかろうと、ただ、有名人を、じかに見ることだけで喜ぶものだ。
もし、自分自身が被災したからといって、天皇さんや皇族がたの見舞いを受けても、何ら助けにならんし、べつに嬉しくもない、と思う私のほうが、現時点で圧倒的に少数派なのだろうけれど。
「静かなる革命」の実行者たる現天皇は、おそらく、以前までの天皇とは異なる、「新しい天皇像」を確立すべきと、邁進してこられたのだと察している。そうしなければ ならない時代の立場でも あった。
もし、天皇さんが、私の目の前に おられたら、ぜひ質問してみたいのは、
「皇室の伝統」とは、
なかんづく、皇室神道の祭祀の位置づけのことは、いかなることだと考えておられるのか?
ということ。
おそらく、ご本人自身、明確に応答することは できないだろうし、避けられるだろうが、
もちろん、皇室祭祀は、宗教行為そのものであり、
「(国民統合の)象徴」として位置づけている憲法のイの一番に掲げられる天皇が執り行うこととしては、日本国憲法に反するはずなのだ。
ことに「大嘗祭」は、莫大な費用が かかるそうだが、
これに対して、国費・税金を充当することも大きな問題であるのは明白だ。
そのうえで、なお敢えて、皇室を存続させたいのであれば、今後の天皇と皇族には、現天皇に ひけを取らない以上の人望を獲得でき続けなければ、たちまちにして、存続は危ぶまれ、
従来から ある、「天皇・皇室、いらない」という声が高まってしまうだろう。
つくづく、後継の かたがたには酷な話だと思う。
結局、どの方角から検討してみても、皇室の存続には、無理が あり過ぎるし、解決できない大き過ぎる矛盾が横たわっているのである。
だから、いずれは潰えていく家だ、と言ったのだ。
ま、『一世一元』という、敗戦後、一度は廃され、長らく そのままになっていたものをば、例の『日本会議』の猛烈な働きかけによって、再び制度化されるに至ったという この法が、
このたびの天皇さんの、ご存命中の「退位」という趣旨の発言によって、あえなくワヤになりそうな雲行きに立ち至ったことについては、
私としては痛快至極である。
およそ天皇家発の出来事で、これほど愉快を覚えたことは、これが初めてだ。(笑)
2016.08.12 (Fri)
『天皇祭祀と男系問題』の続き。
ハッキリ言って、いまの皇室は、ほとんど芸能人並みじゃないか。
おそらく、こういう傾向は、女優さんめいた美智子さまが始まりだったと言っていいくらいなのだろうが、
やれ、その美智子皇后が、深夜のスポーツ中継番組を、天皇さんと共に夜更かしして お楽しみ中に、小腹が すいたので、インスタント ラーメン作ってちょうだい(←もちろん、「日清」製?w)と、側近スタッフに頼んだとか、
それを命じられた側近スタッフが、おもろくないと感じたとか どうだとか、
まったくもって下品な話がダダ漏れの時代。
普通の人間を、特別な存在にしておきたい、という感覚が、私には理解しにくいのだが、
その「特別な存在」とされた当人たちも また、
子々孫々そういう存在で ありたいと、つよく願っているようなので、
ほんとうに奇怪な心情だなあと思う。
敗戦して、
アメリカが日本を統治するのに、潰すよりは利用価値があるようにと考えて、
おかげで、ろくにケジメもなくズルズルきた、いかにも日本的だらしなさの始末が、こんにちの騒ぎだ。
こうなるのは、少し考えれば、目に見えていたはずのこと。
そもそも、こうした制度には、はなから無理があるのは当然のこと。
いずれは絶えるのが自然の成り行きだ。
ばかばかしいほど時代錯誤な方法を敢えて復活させてでも、
あるいは、
本来の意義であるはずの伝統を、内側から無意味にしてしまってでも、
なおも継続したい理由は何なのよ?
せめて一応の存続根拠としてきた本来の歴史的伝統(「物語」w)を損ねようが、
ただただ、「天皇」「皇室」という名前のついた器だけを存在させていければ いい、
と言う、極度の形式重視感覚は、私には理解できない。
たまたま、幸いにして、いまの天皇さんが、バランスを考慮できるだけの知性と節度を お持ちだったから、国民としても安心して見ていられたけれど、
これからも、いつも、聡明で、真面目で、「全身全霊で」公務に あたろうと努力できる能力ある人が天皇になるとは かぎらないんだよ?
強制も できやしないだろ?
歴史上を見たら明白じゃないか。
生きている人間を「象徴」だなんて、
こんな非人間的で不自然きわまる形式的制度。
廃止してしまいさえすれば、
皇族自身も、人権を完全回復できて生きるのが楽になりこそすれ、
誰も泣かなくて済むし、今後、何の不つごうも起きずに済むものを。。。
また、最近の、相模原での障碍者殺害事件。
この被害者の御遺族のかたが、
日本社会の奥底に潜んでいる「優生思想」的なものが恐ろしい、
というふうなことを述べておられたそうだが、
このことも、無謬性を要求される天皇一家や皇族の ありようからの影響が、下地として大きいことに気づくべき。
『皇族と障碍者』
いつまでも時代錯誤で、さても形式好きの宗教国家と国民である(呆)
民主主義と成熟には ほど遠い遠い。。。
2016.08.12 (Fri)
まずね、
たしかに「象徴」ならば、意志や個人としての気持ちを持つことや表明すること自体、おかしいんだよ。
そうして、
天皇の発言に、政治的な影響力が ないとは言えないと、私が指摘しておいたとおりだw
さて置き、
このたびの「お気持ち」表明を受けて、ほとんどの国民は、その御意向に沿った解決を、と思っているようなので、
現天皇さんの御年齢と御健康を配慮さしあげ、可能なかぎり すみやかに立法することが望まれる以上、現天皇の事情を第一に優先した立法と同時に、
拙速を避けて、議論を尽くしたうえでの恒久法と、
二本立てで詰めていくことが妥当だと考える。
とりあえず特別立法であっても、一度実施されれば、先例として、後々の参考にもされるだろう。
それと、
秋篠宮家の末っ子さんが、やがて天皇になるとしたら、その時代には、医学、男女産み分け技術も よりいっそう進歩していて、ますます長命、男子に事欠くということも なくなってるかもしれないしね。
それよりも、
「雅子さまバッシング」の酷さを見てたら、
「全身全霊で公務」しなくちゃいけないんだというプレッシャーで、
秋篠宮家の悠仁さんが成人してのち、もしも、彼が、女性たちにアピールできるだけの魅力に乏しいと、いま以上に、お嫁さんが見つからなくなると思うよ。
共産主義でも「左」でもない私は、
「天皇」と「皇族」という制度自体を、いずれ潰えるのが自然の摂理として、
ゆえに、いますぐ、どうこうする必要もない、くらいにしか思ってないけれども、
基本的には否定したい考えだ。その理由は、
第一に、あまりにも非人間的だと思うから。
はなはだ矛盾が深く、始末の悪い制度だから。
かと言って、
一般国民並みの人権を認めると、それも問題が大きくなる。
国民と同じ権利や待遇にしたいのなら、「象徴」は ない。
「ヤフコメ」のミギだかヒダリだか知らないが、相変わらず偏りきって、しかも本質を外しまくったコメントが並んでいるのを眺めていると、
なんで、こうもズレまくって平気で おれるんだろと、つくづくウンザリしてくるのだが、
ハンドルネームからして、天皇家の神名っぽいのを名乗る「不敬」者がw国民をして、「臣民」などと指すのだから、まったく噴飯ものだ。
この、「ミギ」から見ても「ヒダリ」から見てもエセ、
とんだヘリクツを こきまくっている者に言ってやりたいのは、
主権者なら いるけれども、
「臣民」など、こんにちの日本には、どこにも いやしないよ、
ってこと。
いったい、いま、なんの時代だと思ってるんだか(呆)
こやつね↓
『<生前退位>特別立法軸に検討 政府、制度化を避け』
毎日新聞 8月11日(木)8時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160811-00000014-mai-pol
おまえさんの言う「信頼関係」とか言うのは、昭和天皇発言からの受け売りかもしらんが、
ズバリ言うと、「信心」ということさ。
要するに、宗教だ。
そんなもの、国民全員に強制できるもんじゃない。
とにかく、こやつは詭弁が多いなあと、見かけるたびに思ってたけど。
まあ、言ってることを観察してたら、これも正体が誰だか、パターンから おおよそ推察できるわよ。毎度のことだ。
そして、
男系に拘るのは「男尊女卑!」という単純な話ではないよ、
ということ。
同時に、
男系でありさえすれば いい、という主張も またズレていて、
要は、祭祀が問題なんだ。
祭祀に関しては、
昭和天皇の時代、当時の良子皇后が、天皇不在か何かで、祭祀を執り行うのに不つごうが生じたとき、軽い口調で、「わたしが代わりに やろうか?」と おっしゃったとき、侍従官が、厳しく お諌め申し上げたということが あったそうだ。
ということは、
昔の皇后でさえも、祭祀の意味について、わりと軽く考えておられたのか、ぶっちゃけ、無知だったのかもしれないのだが、
天皇家の祭祀のなかでも、即位後すぐの儀式、大嘗祭とか言ったかな、私も、いちいち詳しくは記憶してないけど、とにかく、
祖神が女性神であるということから、その儀式を行うには、男性の子孫でないと、甚だ おかしなことになるという。
ゆえに、とりあえず女性天皇を立てた場合には、あくまでも中継ぎとしての立場でしかないから、
男系でなければならない祭祀を、男系天皇が立つまでの一定期間は、行わずに済ませていたということが あったらしい。
あげくのはては、近ごろ、「女性神ではなく、実は、アマテラスは男性なのだ」という、およそ聞き慣れぬ珍説までが徘徊し始めているしまつ。
ここらへんを、クリアできるというのならば、
もちろん、私個人は、女系で結構じゃないかと思うよ。思うけれども、
そこは、一般国民にも見え易くて理解できる普通の公務とはワケが違うし、
天皇家内の神道のなかでの意味合いが大きいのだから、そこだけは、
いまのうちに、
天皇さんに、ほんとうのところを お尋ねしないと分からん、
と言うておる。
いまの天皇さんが、自分の代から築きあげようと、精いっぱい努めてこられた「公務を全身全霊で」と、いかに力まれても、
言ってしまえば、
「摂政」を設定できる以上は、しょせん、代わりが利くものでしかない。
まさに「余人をもって代え難い」と言えるのは、祭祀に あるはずなのだ。
そして、それこそが、天皇家本来の伝統にして、「特別な人種」として、
一般国民の上に位置してこれた歴史的理由のはず。
もちろん、
天皇さん自身が、そんなこと、気にせんでいい、
とハッキリおっしゃれば、それで いい。
晴々と、女系天皇を容認すれば いい。
それら一切を、憲法として、典範として、ほかならぬ主権者である国民が納得して受容できていれば、それでいいのだとも言えよう。
それは、あくまでも、こんにちの主権者が国民であるから、という大前提のもとに、一応のリクツでは あろう。
しかし、
そうなると、「万世一系」という、すでに欺瞞が知れている戯言は勿論のことだが、
本来の伝統としての祭祀の意味合いを、天皇自身が、内側から崩していくことに ほかならず、
そうして崩していって、
ただ、代わりが利く公務を、その身を以て完璧に やり遂げることこそが、天皇たる第一条件なのだ、というふうに、今上の代から つくり変えていくのなら、
たしかに、現天皇さんは、静かなる、内側からの「革命」を起こし、確立されつつあることになる。
それこそ、側室制度を認めるとか、いったん離脱した旧皇族を復帰させるとかでも しないかぎり、祭祀のためには拘らざるを得ないはずの男系を継続するのは不可能で、
しかし、そんなことは、それこそが時代錯誤、
ではと言って、
女系天皇を認めて、皇室本来の伝統である祭祀の意味合いを根本から損ねてしまってでも継続したい「天皇制」(←すでに、広く用いられて市民権を得ているはずなのだが、一部の「ミギ」の連中は頻りと難癖つけるようなので、言い替えてやるとw)、
「皇室制度」というものを、なおも継続したい理由は何なのか。
いいかげんに、国民一人一人が、「総意」に違わぬよう、考えを深めて、明らかにしておくべきだ。
【続く】
2016.08.10 (Wed)
このテーマは、私の頭に時おり去来していたことで、
最近の、相模原での事件のあと、間もなく、天皇の存命中の退位という問題が提起され、ますます、このところの思索の中心を占めていた。
ことわっておくが、
もちろんのこと私は、「天皇の赤子」や「臣民」として生まれた覚えは ないし、そうでありたいとも思わない。そのうえ、
なんちゃらの「象徴」を支える「総意」のなかの部分を なす者として同意を示した覚えすらも ない。
ただ、
一応とは言え、民主主義国家の国民として生まれたことについてのみ、同意しているつもりだけは ある、したがって、
「陛下」というコトバは、少なくとも基本的には使わない。
新聞調で、「陛下」と呼びつつも敬語抜きのアンバランスこのうえないケッタイな文体も用いたくない。
せいぜい、関西圏で呼びならわされてきた「天皇さん」で じゅうぶんだろう。
さて、このたびの「お気持ち」発表は、やはり「玉虫色」的と言うか、様々な意味合いを含んでのことと思われた。
こうした「玉虫色」と揶揄されることもある言動は、もちろん、公の場合には当然のこととなっているが、一転、
プライベートの場面では、かなりハッキリとした意見を述べられる御性質が もともとのようで、本来は、そのような姿勢の かたであるというエピソードが、現皇太子たちが幼かった頃から交流していた一般家庭の人の話でも、ご子息たちに対する躾に厳しい態度で臨んでおられたという姿から窺えた。
民間出身である御伴侶の皇后、また、周囲の係官や識者たちとともに、みずから、戦後の憲法をもって設定し直された天皇像について、
そして また、天皇と、その一族が、これからの世も、つつがなく続いていけるためにはと、日々、考えを深め、行いのなかで確信を重ね、こんにちに至り、ご自身で おっしゃったように、「個人として」のポリシーのような方向性を固めていかれたのだろうと察する。
私には、まさに「完璧主義」的な お考えのようにも思えたが、これくらいの処し方でないと、この先が続かないであろうことの危惧を抱かれるのも理解できる。
現天皇は、民間ご出身の美智子皇后と共に、これからの天皇像と、その一家の あるべき姿について、言わば、革新あるいは革命に等しいことを幾つも実行されてきた。
今回の、ご存命中の「退位」に繋がる御心情の発表は、まさに、それらの革命・革新の総仕上げといった趣だった。
だが、
だいたいが、天皇家や皇族の生活形態と、一般国民の それとからして、大きな差異が あるのだ。
民主主義の世の民間に準じたふうに変革したいとの思いであるとしたら、それは、つまるところ、どういうことになるであろうか。
ところで、
古来、天皇家の係累としての血筋に拘り過ぎたり、特定の家系から、妃を迎え続けていた結果なのかどうか、かつては、「側室」という存在も あったわけなのだから、そのへんの内実を、私は、詳しくまで知らないのだが、
天皇を始め皇族のなかでは、何らかの先天性障碍者が生まれやすいという話は、私が子どもの頃にも、あれや これやのエピソードが、身近の者たちを通して、公然の秘密めいて語られてきているのを知っていたし、
高校生の頃、友人に譲ってもらって読んだ『和宮様御留』という文学作品にも、そのあたりの話が、作品中の核心的重みを以て描かれている。
近年、「上御一人」との思いを披露してみせられた現皇后である美智子さまも、天皇家の「濃くなり過ぎた」血を、あたかも薄めるがために、敢えて迎え入れたとされている話は、すでに多くの国民が、天皇家「裏事情」として知っていることの一つだろう。
二度目の御懐妊のときに、胎児の異常(「胞状奇胎」)が あったという、
それ以来、健康的な若々しさに満ち溢れていた美智子さまの御容貌が激変してしまうほど、げっそりと お痩せになってしまわれたという、
この事実は、あくまで表向きには伏せられていたらしいことも、私のような、市井の一家庭の子どもの耳にすら、おとなたちの心なしか潜めるようにヒソヒソと語る声によって届いていた。
思えば、
天皇家・皇族という身分においてこそ真っ先に、「健常」でない者の存在を隠蔽してきたのでは なかろうか。
これも、むかしから聞いていたことで、
「ほろびゆく途上にある家系には、最後は、なぜか、女の子ばかり生まれるようになる」とか。
どういうものか、ある意味の「新参」的な家のほうが、男子を授かり易いとか。
これは、女性性というものが、性の根本、基本であり、男性性というものは、生物の本来としては、異端的に発生した存在であろうことを考えると、それなりに科学的理由が潜んでいるのかもしれないと思える。
およそ、みずからの内に生じた障碍者を隠蔽する代表的な家系とも言える皇室を思うと、
「男系」に拘り続けてきた「天皇」なる制度を、なおさら奇妙なものだという感慨が湧いてくる。
「濃過ぎた」血は、かつて「平民」と呼ばれた女性たちの血によって、すでに数世代、ますます薄められていると言えようか。
残るは、「男系」の それであるか否かにのみ、必死で縋るしかないかのような ありさまである。
明治帝も恐れていたという、かの崇徳上皇の呪詛伝説
「皇を取って民とし 民を皇となさん」
をも連想する情況だ。
ただ、現天皇ご自身が、
「天皇」と、その一族という身分を継続していくにあたり、
彼らが固く守ってきたはずの伝統的祭祀の問題を、実は、たいした意味は ないのだと、
これからの「天皇」と、その一族の継続条件としては、内々の祭祀に必要な「男系」という条件すらも、実は、どうでもいいことなのだと、
その逆を明らかに告げられない以上は、
一国民である私としても、「男系」にせよ祭祀にせよ、これらは軽視しておいていいことなのだな、と判断せざるを得ない。
そうなると、残るは、「国事行為」としての、一般国民の目に見えやすい働きぶりをもって評価するのみだ。
しかし、
言ってしまえば、必ずしも天皇その人でなくとも務まる国事行為を、
なぜ、「象徴」の名のもとに「全身全霊で」努めなければ、天皇たり得ないのだろうか。
「靖国神社」のシステムや北朝鮮の「金王朝」あたりを見れば分かること。
人は、簡単に「神」になれる。
いや、「神」こそは人か。
現実に、この島国は、世界有数の激甚災害国だが、
それを どうすることもできやしないのだ、「現人神」とまで呼ばれようとも。
曖昧で欺瞞に満ちたファンタジーその裏側は、
権謀術数が渦巻き、近親どうしの血が流され続けた「歴史」、
つくられたものに過ぎず、しかも、徐々に変化していく「伝統」、
外見の容貌、雰囲気、
それらの不足をカバーするためには、
少なくとも、一般大衆の目に見え易い「働き者」ぶりを、見せつけねば なるまいわけだ。
それが、「これからの天皇と、その一族」が廃止されないための、唯一の方策。
ほんものの知性や思索力や洞察力に欠ける者、大衆・民衆というものは、何らかの面で、
とにかく分かり易いスター性へと、
いとも簡単に靡く。
一度は国ごと滅びる手前まで陥った最大要因である「天皇」なる存在、
この存在なくして、日本の歴史も ないのだと言うけれど、
それなら それで、また別様の歴史が展開されたであろうのみ。
「万世一系」などは、すでに欺瞞であることは知られてしまっている天皇家、その存続の意義は、ひとえに、特有の文化性にのみ残り、
これを保存・継続することが最大目的なのであれば、
なるほど、「女系」であろうが何であろうが、
表面的に過ぎなくとも、かく呼べる対象として残していければ よいのだろう。
ただし、それでは、遠からず、真に形骸化していくことは必定である。
もはや、「梨園」の伝統のほうが勝っているとも言えそうだ。
いったい、そうまでして、「象徴」なる存在は、この国の民衆にとって必要なのだろうか。
「天は人の上に人を造らず」云々。
だが、いかに、「国民統合の象徴」として「国民と共にある」と称されようが、
一般国民の上に、あたかも特別なる人種を設定していることに変わりは ない。
その「特別な人種」のなかにおいてこそ、
最も、障碍者を忌避し、隠蔽すべき「恥」の存在として処理されてきたことは、市井の子どもの耳にすら聞こえていたのだ。
この「特別な人種」にとって、障碍者は、あくまでも慈愛と施しを向ける、憐憫の対象でしかない。
彼ら自身は、決して、障碍者などを産むことと無縁であるべきで、完璧に無謬の家系だと設定されているゆえなのだろう。
先年の園遊会においてだったか、これは毎年のことなのかは知らないが、
天皇と皇族がたが登場するシーンで、庭園内の小高い丘のような所を降ってきてから、居並び待つ招待者の面前に進む、という、
誰の提案によるものだか知らないが、そのような、あざとい「演出」を見受けて、私は苦笑した。
それでいて、
数年前に起きた、「園遊会 お手紙事件」。
新人の国会議員が、招かれるにあたって、いっしょうけんめいに、生まれて初めてのことであろう、昔ながらの巻紙ふうに したためたという、直訴めいた手紙を受け取った天皇さんが、右から左へ、睨む侍従長に提出しなければ ならなかった、あの小さな お背中と対照的に、
ふんぞりかえって苦々しい顔つきの、大柄な侍従長。
じつに、三者三様の戯画的光景だった。
この 痛ましくも あさましい滑稽さが、日本の、あるいは また人類の、
いつまでたっても克服し難いサガなのだろう。
昭和天皇が亡くなられた前後も、
『読売』新聞社は張り切り、先頭に立って煽りたて、
国民のなかには、何をカン違いしたのか、戦中の日本人さながらの時代錯誤ぶりを大っぴらに見せる者も いた。
昨今は、
「ネットウヨ」を従え、チンピラどもに一斉指令を発する親玉の如く、『日本会議』その他を支えとする政権になってしまった日本。
現天皇の いよいよのときには、あの頃以上の警戒心が必要だ。
ヘタすると、現政権に、「戒厳令」めいた発令を実行されかねないからw
要領を得ない「象徴」と、障碍者など存在しない無謬性を帯びた「特別な人種」を戴いておらねばならない国民には、真の精神的自立も成熟にも、到達し得まい。
2016.08.06 (Sat)
「日本国民統合としての象徴」とかって、
いつ読んでも、なんだか要領を得ない、けったいな文面だなあと感じないことが ないのだけれど。
現天皇さんは、ご自身に課せられた、その「ウンタラの象徴」というものを、具体的には どのようなものと考えていらっしゃるのだろうか。
「天皇」とは、いかなる本質をもって存在するのか。
「象徴天皇としての あるべき姿」。。。
当初、おっしゃったこととして報道された記事内容を思うに、やはり、
「象徴」としての わが身なればこそ、その現身を、実際の各地に運んで行き、務めを完璧に果たしてこそ、「象徴」たる役目を全うしたことになるのだ、
というふうに お考えなのだろうか。
それにしたって、
なんだか要領を得ないことに変わりは ないのだけれど、
もし そうであるなら、
主権者である国民に対して、許可を得なければ ならない
ということになる。
退くにせよ譲るにせよ、
天皇である自分が考えている、そのように すべきである、という判断を、天皇みずからが表明することも、実行する権限もないのだから。
したがって、国民に伺うための、ビデオ発表、ということか。。。
「公務」なる務めを果たす、ということをして、
「天皇」または「皇族」という身分を、
イコール「天皇」ブランドの「皇族」会社、商標は「菊の花」マーク、
といったふうに、まさに、一つの企業体のように想定してみれば、
現天皇さんの おっしゃったことは、
あたかも「『象徴』ビジネス」
として お考えになっているようにも思えてくる。そうすると、
宮内庁職員の覆面座談会で、天皇さんは、
「ワーカーホリックになっておられるから」
という発言も、ああ、なるほどね、と思い当たる。
そうなると、
私みたいに、天皇や皇族と言えども、一人の普通の人間である人たち、と考え、
実権的政治的権力を持たせることも、一個の考えをハッキリと表現することも、歴史に鑑みて、甚だ危険性が大きい以上は、それらを認めることは断じて許容できないと同時に、
その家系に生まれたからという、ただ その理由だけで、
特別の地位・待遇と背中合わせに、基本的人権を大きく損ねることになってしまっているという、この制度の、甚だしい矛盾に、思考を及ぼさぬわけには いかないのだ。
ちなみに、
私が十代の頃だったかに、
うちの身内が、テレビで、天皇さんたちの姿を眺めつつ、皇族がたのプライベートに関わる話を思い出して、噂していたのを憶えているのだが、
ある殿下などは、愛人を お持ちになっていることは、知っている人は知っていることなのだとか。
うちの身内も、当時の『社会党』支持者だった兄以外は、どちらかと言えば、天皇家や皇族に対して、親近感やミーハー的関心を持っているほうだった。
しかしながら、
私のような考えかたを する一般国民も、こんにちでは多いはずとは思うのだけれど、
この時代になっても、いまだに、天皇や皇族を、普通の人間以上であり、「神秘的な何か」を備えているに違いないと、ろくな知識も根拠もなく信じ込んでいる、素朴と言うか原始的と言おうか、宗教的感覚の人々も少なくは ないようだと思われる。
けれど、どうだろう。
いわゆるネットウヨ、
その正体の大部分は、例の『日本会議』あたりが大いに含まれるのだろうが、あの連中に顕著なバッシング行為の一つと見受ける、
「雅子さま叩き」
の凄まじさを見ていると、
まあ、雅子さま御自身は、美智子さまと同様、そもそもは民間の御出身なので、生まれながらの皇室の一員では ないわけだけれど、だからと言って、
現天皇さんが、また、次期天皇になられるはずの現皇太子、あるいは、他の皇族がたであっても、
「公務」というものを、報道によって知ることのみで左右される一般国民の機嫌を損ねる程度にしか果たせないでいる事態、となると、
やはり、「雅子さまバッシング」のようなことは起きるのでは あるまいか。
その恐れは、すでに、
現皇太子までもが、皇太子妃と一緒にバッシング対象にされてしまっているという、ある種の連中の動きによって現れている。
「天皇」「天皇家」「皇族」という奇妙な矛盾のカタマリ的存在を信奉する連中ならでは、かくのごとくの分裂ぶり、
グロテスクなまでのキテレツぶり。。。
現天皇さんが、あたかも、一つの企業のブランドを体現しているかのような感覚で、「公務」というビジネスを、スムーズに、完璧に こなせないのならば、そうなった自分は退くべきなのだ、という思考なりポリシーなりを お持ちであるのなら、それは、とりもなおさず、
いまだ、宗教的な感覚でもって仰ぎ見るような人たちの求める思いとは、大いに、根本的に乖離しているはずでは ないのか。
いったい、この人たちは、業務を遂行するビジネスマンとしての「天皇」を求めているのだろうか?
天皇さん御自身、そのような ありかたを求められているに違いないのだ、と判断されてのことなのだろうか。
私個人としては、
普通の人間とは異なるかのような、原始的な宗教めいた感覚でもって、「象徴」という、要領を得ないものを体現できうる存在として支持している人々よりは、
現天皇の お考えや姿勢のほうに、より現代的でスッキリした分かりやすさを感じるところでは あるのだが。しかし。
再び問いたい。
「天皇」とは、いかなる本質をもって存在するのか。
ビジネスとしての「天皇」なのか。
そうでは なく、
まったく別の次元に居て、公務に全く動かなくても「超越的」存在なのか。
天皇、天皇家という、
現代において、民主主義と人権の時代において、これほど奇妙な存在もないのは明白なこと。
天皇家の存在意義の根本とは、どのへんに あると、
言ってしまえば、「国事行為」は まだしものことで、
特有の祭祀の意味、
少なくとも、
天皇の祭祀だけは、天皇その人が務めるほか ないほどの意味が あるはずでは ないのだろうか、
その実際的重要性を、どのように考えていらっしゃるのか。
というわけで、私は、
ただただ形式的維持のための「女性天皇」「女系天皇」の可否を論じる前に、
当の天皇その人に問い質して、忌憚のないところを伺うべきではないのか?
と、旧のブログから言ってきた。
どのような結論に落ち着こうとも、考察と議論は、そのあとのことだろう。
祭祀の ありかたの深奥と意義に関してだけは、主権者と言えども、国民の われわれには知りようが ない。
一般国民と、膝つき合わせ、ぶっちゃけた おしゃべりでも できれば いいのかもしれないが、
そんなにも くだけてしまうと、今度は、
「菊のカーテン」の奥に まします、といった神秘的イメージが台無しになってしまうので、そうも いかないのだろうか(笑)
誰かが言っていた。
天皇家は、『靖国神社』宮司を代々世襲でやるのみ、という身分にする かたちで残せば いい、と。
なんとなく笑ってしまった私も、正直なところ、そのほうが、殆どの方面で、まるく おさまるのじゃないかと言う気もする。
まずは、『靖国神社』関係者、支持者、遺族会等の人たちの切なる願いである、天皇直々による祀りが叶うわけだし。
ことわっておくが、私個人は、その祭祀についてさえも、
これが ないと、その先の日本が国家として立ち行かなくなる現実などは あるはずがない、という考えだ。
周知のとおり、ご病気のあとでもあり、まぎれもない高齢となられているのだから、天皇さん御自身に直接、お尋ねできる時間は、もう それほど残されていないだろう。