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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2016.08.10 (Wed)

 

このテーマは、私の頭に時おり去来していたことで、
最近の、相模原での事件のあと、間もなく、天皇の存命中の退位という問題が提起され、ますます、このところの思索の中心を占めていた。

 

ビジネスライク?な天皇さん。

【続・続】誰も言わない「障碍者の価値、その生存の価値」

 

ことわっておくが、

もちろんのこと私は、「天皇の赤子」や「臣民」として生まれた覚えは ないし、そうでありたいとも思わない。そのうえ、

なんちゃらの「象徴」を支える「総意」のなかの部分を なす者として同意を示した覚えすらも ない。

ただ、
一応とは言え、民主主義国家の国民として生まれたことについてのみ、同意しているつもりだけは ある、したがって、
「陛下」というコトバは、少なくとも基本的には使わない。
新聞調で、「陛下」と呼びつつも敬語抜きのアンバランスこのうえないケッタイな文体も用いたくない。

せいぜい、関西圏で呼びならわされてきた「天皇さん」で じゅうぶんだろう。

 

 

さて、このたびの「お気持ち」発表は、やはり「玉虫色」的と言うか、様々な意味合いを含んでのことと思われた。

こうした「玉虫色」と揶揄されることもある言動は、もちろん、公の場合には当然のこととなっているが、一転、
プライベートの場面では、かなりハッキリとした意見を述べられる御性質が もともとのようで、本来は、そのような姿勢の かたであるというエピソードが、現皇太子たちが幼かった頃から交流していた一般家庭の人の話でも、ご子息たちに対する躾に厳しい態度で臨んでおられたという姿から窺えた。

 

民間出身である御伴侶の皇后、また、周囲の係官や識者たちとともに、みずから、戦後の憲法をもって設定し直された天皇像について、

そして また、天皇と、その一族が、これからの世も、つつがなく続いていけるためにはと、日々、考えを深め、行いのなかで確信を重ね、こんにちに至り、ご自身で おっしゃったように、「個人として」のポリシーのような方向性を固めていかれたのだろうと察する。

 

私には、まさに「完璧主義」的な お考えのようにも思えたが、これくらいの処し方でないと、この先が続かないであろうことの危惧を抱かれるのも理解できる。

 

現天皇は、民間ご出身の美智子皇后と共に、これからの天皇像と、その一家の あるべき姿について、言わば、革新あるいは革命に等しいことを幾つも実行されてきた。

今回の、ご存命中の「退位」に繋がる御心情の発表は、まさに、それらの革命・革新の総仕上げといった趣だった。

 

だが、

だいたいが、天皇家や皇族の生活形態と、一般国民の それとからして、大きな差異が あるのだ。

民主主義の世の民間に準じたふうに変革したいとの思いであるとしたら、それは、つまるところ、どういうことになるであろうか。

 

 

ところで、

古来、天皇家の係累としての血筋に拘り過ぎたり、特定の家系から、妃を迎え続けていた結果なのかどうか、かつては、「側室」という存在も あったわけなのだから、そのへんの内実を、私は、詳しくまで知らないのだが、

天皇を始め皇族のなかでは、何らかの先天性障碍者が生まれやすいという話は、私が子どもの頃にも、あれや これやのエピソードが、身近の者たちを通して、公然の秘密めいて語られてきているのを知っていたし、

高校生の頃、友人に譲ってもらって読んだ『和宮様御留』という文学作品にも、そのあたりの話が、作品中の核心的重みを以て描かれている。

 

近年、「上御一人」との思いを披露してみせられた現皇后である美智子さまも、天皇家の「濃くなり過ぎた」血を、あたかも薄めるがために、敢えて迎え入れたとされている話は、すでに多くの国民が、天皇家「裏事情」として知っていることの一つだろう。

 

二度目の御懐妊のときに、胎児の異常(「胞状奇胎」)が あったという、
それ以来、健康的な若々しさに満ち溢れていた美智子さまの御容貌が激変してしまうほど、げっそりと お痩せになってしまわれたという、
この事実は、あくまで表向きには伏せられていたらしいことも、私のような、市井の一家庭の子どもの耳にすら、おとなたちの心なしか潜めるようにヒソヒソと語る声によって届いていた。

 

思えば、
天皇家・皇族という身分においてこそ真っ先に、「健常」でない者の存在を隠蔽してきたのでは なかろうか。

 

 

これも、むかしから聞いていたことで、

「ほろびゆく途上にある家系には、最後は、なぜか、女の子ばかり生まれるようになる」とか。

どういうものか、ある意味の「新参」的な家のほうが、男子を授かり易いとか。

これは、女性性というものが、性の根本、基本であり、男性性というものは、生物の本来としては、異端的に発生した存在であろうことを考えると、それなりに科学的理由が潜んでいるのかもしれないと思える。

 

およそ、みずからの内に生じた障碍者を隠蔽する代表的な家系とも言える皇室を思うと、
「男系」に拘り続けてきた「天皇」なる制度を、なおさら奇妙なものだという感慨が湧いてくる。

 

「濃過ぎた」血は、かつて「平民」と呼ばれた女性たちの血によって、すでに数世代、ますます薄められていると言えようか。
残るは、「男系」の それであるか否かにのみ、必死で縋るしかないかのような ありさまである。

明治帝も恐れていたという、かの崇徳上皇の呪詛伝説
皇を取って民とし 民を皇となさん
をも連想する情況だ。

 

ただ、現天皇ご自身が、

「天皇」と、その一族という身分を継続していくにあたり、
彼らが固く守ってきたはずの伝統的祭祀の問題を、実は、たいした意味は ないのだと、

これからの「天皇」と、その一族の継続条件としては、内々の祭祀に必要な「男系」という条件すらも、実は、どうでもいいことなのだと、
その逆を明らかに告げられない以上は、

一国民である私としても、「男系」にせよ祭祀にせよ、これらは軽視しておいていいことなのだな、と判断せざるを得ない。

 

そうなると、残るは、「国事行為」としての、一般国民の目に見えやすい働きぶりをもって評価するのみだ。

 

しかし、

言ってしまえば、必ずしも天皇その人でなくとも務まる国事行為を、
なぜ、「象徴」の名のもとに「全身全霊で」努めなければ、天皇たり得ないのだろうか。

 

 

「靖国神社」のシステムや北朝鮮の「金王朝」あたりを見れば分かること。

人は、簡単に「神」になれる。

いや、「神」こそは人か。

 

現実に、この島国は、世界有数の激甚災害国だが、

それを どうすることもできやしないのだ、「現人神」とまで呼ばれようとも。

 

曖昧で欺瞞に満ちたファンタジーその裏側は、
権謀術数が渦巻き、近親どうしの血が流され続けた「歴史」、

つくられたものに過ぎず、しかも、徐々に変化していく「伝統」、

外見の容貌、雰囲気、

それらの不足をカバーするためには、

少なくとも、一般大衆の目に見え易い「働き者」ぶりを、見せつけねば なるまいわけだ。

それが、「これからの天皇と、その一族」が廃止されないための、唯一の方策。

 

ほんものの知性や思索力や洞察力に欠ける者、大衆・民衆というものは、何らかの面で、
とにかく分かり易いスター性へと、
いとも簡単に靡く。

 

一度は国ごと滅びる手前まで陥った最大要因である「天皇」なる存在、

この存在なくして、日本の歴史も ないのだと言うけれど、

それなら それで、また別様の歴史が展開されたであろうのみ。

 

「万世一系」などは、すでに欺瞞であることは知られてしまっている天皇家、その存続の意義は、ひとえに、特有の文化性にのみ残り、
これを保存・継続することが最大目的なのであれば、
なるほど、「女系」であろうが何であろうが、
表面的に過ぎなくとも、かく呼べる対象として残していければ よいのだろう。

ただし、それでは、遠からず、真に形骸化していくことは必定である。
もはや、「梨園」の伝統のほうが勝っているとも言えそうだ。

 

いったい、そうまでして、「象徴」なる存在は、この国の民衆にとって必要なのだろうか。

 

 

天は人の上に人を造らず」云々。

 

だが、いかに、「国民統合の象徴」として「国民と共にある」と称されようが、

一般国民の上に、あたかも特別なる人種を設定していることに変わりは ない。

 

その「特別な人種」のなかにおいてこそ、

最も、障碍者を忌避し、隠蔽すべき「恥」の存在として処理されてきたことは、市井の子どもの耳にすら聞こえていたのだ。

 

この「特別な人種」にとって、障碍者は、あくまでも慈愛と施しを向ける、憐憫の対象でしかない。

彼ら自身は、決して、障碍者などを産むことと無縁であるべきで、完璧に無謬の家系だと設定されているゆえなのだろう。

 

 

先年の園遊会においてだったか、これは毎年のことなのかは知らないが、

天皇と皇族がたが登場するシーンで、庭園内の小高い丘のような所を降ってきてから、居並び待つ招待者の面前に進む、という、

誰の提案によるものだか知らないが、そのような、あざとい「演出」を見受けて、私は苦笑した。

 

それでいて、

数年前に起きた、「園遊会 お手紙事件」。

新人の国会議員が、招かれるにあたって、いっしょうけんめいに、生まれて初めてのことであろう、昔ながらの巻紙ふうに したためたという、直訴めいた手紙を受け取った天皇さんが、右から左へ、睨む侍従長に提出しなければ ならなかった、あの小さな お背中と対照的に、
ふんぞりかえって苦々しい顔つきの、大柄な侍従長。

じつに、三者三様の戯画的光景だった。

 

この 痛ましくも あさましい滑稽さが、日本の、あるいは また人類の、
いつまでたっても克服し難いサガなのだろう。

 

 

昭和天皇が亡くなられた前後も、
『読売』新聞社は張り切り、先頭に立って煽りたて、
国民のなかには、何をカン違いしたのか、戦中の日本人さながらの時代錯誤ぶりを大っぴらに見せる者も いた。

 

昨今は、
「ネットウヨ」を従え、チンピラどもに一斉指令を発する親玉の如く、『
日本会議』その他を支えとする政権になってしまった日本。

 

現天皇の いよいよのときには、あの頃以上の警戒心が必要だ。

ヘタすると、現政権に、「戒厳令」めいた発令を実行されかねないからw

 

 

要領を得ない「象徴」と、障碍者など存在しない無謬性を帯びた「特別な人種」を戴いておらねばならない国民には、真の精神的自立も成熟にも、到達し得まい。

 

 

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