2016.08.04 (Thu)
当事者は勿論、その密接な関係者でさえも。
だから、私は、当ブログで何度か記してきた。
敢えて言うなればだが、
およそ障碍者や病人という存在は、生きてるだけで、その人生まるごと、医学的研究データの提供者だ。
そのデータの蓄積は、
いまは「健常者」の範疇に おさまっている者たちが、ある日を境に、自身が障碍や疾病を負ったときの大いなる助けになっていく。
それに、
事件の場所となってしまった障碍者施設は、かなりの運営規模だけに、地元一円の雇用等にも相当の貢献度が あったと言えよう(内部の待遇問題は さて置きだが)。
ところで、
自民党の野田聖子氏の お子さんが、生まれながらに大変な状態であるということは、数年前の旧のブログ時に、ネット配信記事によって知ったのだが、
この、他人事で いられない野田聖子さんも、このたびの、重度重複障碍者襲撃事件を取りあげて、ブログで慨嘆なされたそうで、
下手人については、
「社会の どこかで誰かの話に食いついたのだ」
http://lite-ra.com/2016/08/post-2463.html
と指摘しているそうだが、
どこかの誰かの話、その「誰か」とは誰なのか、
何処を中心にして拡大されていったのか、
といったことについては、自民党内部の人であるゆえにか、決して、それ以上の分析と踏み込みは見せないようだ。
そして、
これからも、現政権を担っている与党の人間として望まれる行動を見せることは不可能なのだろうか。
私は、新聞記事で読んでいたかぎりで、
野田さんが、たしか、当時の配偶者の反対を撥ね退けてまで、かなりの無理を押し、お子さんを もうけられたことについては、あまり感心しないなと思っていた。
なぜかと問われるなら、やはり、野田さんの思いの主張に、強いエゴを感じていたからだ。
私自身の母親のことを連想するせいか、私は、こうした面で敏感過ぎるところが あるのかもしれないが。
私個人は、ごくごく数少ない「信条」めいたものの一つとして、
子どもを もうけるに あたっては、やはり、自然な気持ちで望み、自然に授かったという かたちになるのが、本来は望ましいと考えているし、
ひいては、そもそも、結婚についても、そのような流れは重要なことだと考えている、というよりも実感している。
そんな私自身、病気のために、子どもを産むことが不可能な からだとなって久しいが、そのこと自体について、ネガティヴな思いに とらわれたことは ない。
野田さんのように、先進的不妊治療を享受できること自体、非常に恵まれた環境に居るからこそ可能なことだ。
彼女自身、お子さんの深刻な問題に直面する事態が訪れなかったなら、障碍者や病者や弱者の立場に、どれだけの関心と理解を寄せることが できたやら、彼女に限らず、甚だ あやしいところだと、私は思っているが、
ともあれ、この世に出生した お子さんについては、現代の英知を結集して最善を尽くすことと、併せて、お子さん自身の安寧を願っている。
いまでも、それらの点で、思いは変わりない。
かの石原チンタロウ氏のごとき、仮にも文学者の端くれであるにも かかわらず、「ああいう人ってのは、人格が」云々と のたまった程度の精神性、
かと言って、当然のこと、科学の精神に のっとった視点を持ち得るはずもなく、
どうしようもない精神性だわと呆れていた私だが、
これで政治家が務まってきたという現実には、心底、ため息が出てしまう。
そういう為政者を許してしまう国民一般にも言いたいのは、
障碍者に関する税金がと喧しく糾弾する前に、
政治屋連中や一部の特権層の邪まな税金の使途を糾弾することのほうが、本来の喫緊事であろうはずだと。
チンタロウ爺さんや麻生ジイサンのように、
何を剥きつけて言おうが、自分自身が害される恐れは ないと踏んでいたら、言いたいほうだいになる。
相手を舐めているからだろう。
いちおう「健常者」の範疇の人ならば、普通は、面と向かって剥きつけたような発言や行為は さすがに しないものだが、
人として劣等である、という感覚を持っているのであろうことを、その視線から感じ取れた「健常者」は、私の経験上、けっして少なくないのが現実。
私は、内部障碍なので、黙っていたら、普通の人として見ていたものが、実は障碍者と知ったとたん、目つきがガラリと変わる人なんて、けっこう多い。
その眼の表情の落差。
確実に、自分よりも劣った人種が、ここにいた!と眺める眼に、好奇心も混じっている。
バレていないつもりなのか、自覚がないのだろうが、
「健常者」とは畢竟、おもてに剥き出しにせずに、まずは自己保身を如何に上手く優先できる「チエ」を持っているかどうか、
それだけなのでは あるまいか、
その「チエ」を取っ払ったら、はたして、知的や精神の障害者と、どれだけ違うんだろう?と思ったことも少なくない。
【続く】