2018.02.13 (Tue)
例の「森友問題」に関する、『朝日新聞』の記事について、当該新聞社にしては珍しい(?w)訂正ならびに詫びの掲示を出したそうなのだが、これに対しても、なお、腹が収まらないと見えて、
「裏付けがー」が「恨めしやー」とさえ聞こえてくる、安倍ちんのイヤミ攻撃w
しかしだね、
あーた自身も、公の場で、公人の立場でありながら、
何度、えげつないデマを ぶっこきましたか?
裁判所は、いやしくも一国の首長の地位に就いている この者の毎度な下品・下劣きわまる行為をも、およそ公人や為政者、権力者への批判の場合には、いかなる かたちのものであれ、たとえデマであっても、受容すべきといった内容の おふれを出して、安倍チンに つごうのいい判決を示していたようだが、
とにかく、
他者を攻撃する前に一度くらいは、公人たる自分自身の胸に手を当て、内省してみるということを、少しは身につけなはれ。
ええトシこいた、仮にも首相の座に就いてるもんが。
なーにが「裏付け」だ。
例の「従軍慰安婦」に関わる誤報にしても、もちろん、『朝日新聞』自身のマズさは大いに あったと思われるが、今回の「『森友』問題」にしても、「従軍慰安婦」関連にしても、これらについて、『朝日新聞』は、まるっきりの虚偽報道を やらかしたわけじゃない。
それを言いたいなら、まずは、あーたの広報紙を自任して憚らない『産経』シンブン社に対して言いなさい。
裏付けナシ記事だけでは飽き足らず、これに加え、一個の私企業を対象に、不当な侮辱と糾弾を繰り広げたんだからさ。
ちなみに、
当ブログの前の旧ブログは、
『産経新聞』というやつを読んだこともなかったゆえ、このシンブン社が、どのような方針とか特色でもって経営してるところなのかを全く知らないまま、軽い気持ちで、『産経』系サイトにて やってたことは、何度か書いてるけど、
その当時、
同じサイトで一般枠ブロガーやってた、福島県人だという、古株・常連のオッサンが居てね。
この、さすがに田舎のネトウヨらしくも、ネチネチいやらし~い根性を剥き出しなオッサンは、『産経』の記者と、個人的にも親しくしているらしくて、何かにつけては『産経』の記者から、電話だけでの「取材」を受けてきたのだそうで、
こんなネトウヨまる出し『産経』シンパのオッサンでも、「電話だけというのは、、、」と、批判めいたこともポロッと言ってたの、見かけたこと あるぞw
私には、人間性としては勿論のこと、一個の男性のタイプとしても、
「カネくれても、ふるふるマッピラやわ」
と、最も軽蔑を もよおさせられる「自分棚上げ」方式をば、一国の首長がモロ出しという ありさま。
若い者への教育上の悪影響も懸念されるわい。
はよ辞めれや
結局、「第一次」のときに違わず、
いまに至るまで、口先とは裏腹に、なんの結果もロクに出せてや しないんだから。
なにやってもダメなんだね。
呆れるほど、全方位にわたって、だめ。
毎度、先見の明に欠けてる日本政界らしく、小沢さんらが中心になって推進した?とかいうことらしいのだけれど、選挙制も しかり、「一強体制」とやらを敷いてもらった、その おかげで、
『日本会議』や「ネトウヨ」からの「右パンチ」ドランカーあべちんは、ダメなのを認められないまま、最後までゴリ押しし続けて、遠からず、
彼の憎悪の対象であるシモジモ国民、とりわけ貧乏人、弱者を真っ先の道連れとすべく、崩壊しようが何だろうが、なりふりも かまわず、
「この道しか ないー!!」
と、集団自殺に導く腹なんだろうて。
ここで ついでに、前々から指摘したかったことを言っておくけど、
やい、
「従軍慰安婦」は存在しなかったんだー!!と喚き回ってる「ウヨ」やら「ネトウヨ」やら知らんが。
だったら、
あの元シュショウとか「たぬき大勲位」だとか呼ばれる、中曽根爺さんの、堂々と著書まで出してる内容のことは、どのように考えてるんだよ?え??(嗤)
まあ、正直、私とて、そもそも韓国側の主張に対しても、
「おたくらだって、たいがい、ご都合主義の ええかげんなことだね!」
と文句言いたくなるところは あるんだけども。
重ねて言っとくが、
「関係ない」はずの、現代日本国民が、「関係ない」はずなのに、なぜ、「恥を かかされ続けてる」と、えらい被害者ぶって叫ぶのかも不可解だけどな、
古今東西、世界広しと言えど、国家管理売春てな前代未聞級の小賢しくも醜悪、劣悪な犯罪を、先鞭つけてやらかしちまった国家なんて、日本くらいなもんだというんだから、ああ、恥ずかし。。。恥ずかし。。。
「恥を かかされてる」としたらだな、
それは、さきの戦中に、われわれ現代日本国民の以前の世代ら、
すなわち「中曽根の世代」らが仕出かして、後世の子孫である われわれ日本国民に、いまもって恥かかし続けているというこっちゃ!
恨むなら、先に、そっちを恨め。
何度目になるのか、またも こみあげてきた呟き。
なぜ、こんなのが、よりによって、わが国の首相で いられるのか。
しょせん、
「ふわっとした」(?w)民衆レベルの反映が、政治の世界だから、しかたないのか。
まあ、ずっと以前にも指摘したように、
民衆は、カシコよりは愚か者の割合がダンゼンに高いのは、古今東西を問わないのだろう。
きっと、日本だけの問題では ないのだ。。。
と、われと わが身を慰めてみる。(←『産経』のアビラビラ氏のパクりと ちゃうでw)
2018.02.09 (Fri)
このエントリーも、さっきアップしたエントリーよりも先に書きあげてあったものです。
これも また、関連性のある記事が出ているのを見かけて、部分加筆し、ここにアップします。
さて、
先日の大寒波の日、
自宅を出発して間もなく、通りかかった路上にて、ひときわ猛烈な冷風が吹きつけてきた。
すると、
そこに、この季節になると、よく見かける「鶺鴒」らしき小鳥が、今しも私が自転車で近づいているにも かかわらず、一ヵ所に留まったまま身動きもせず、まさにフリーズ状態になっておった。
ふつうは、警戒心の つよい小鳥ともなると、人が近寄る前に、バタバタ飛びすさるはずのところだが、
「ははあ、この冷たい一陣の強風で、私の自転車ごと横倒しに なりかねないほどだもの、セキレイちゃんも、羽を広げることも叶わず、小さな嘴を固く閉じたまま、吹き飛ばされていってしまわないよう、思わず、か細い脚を、うんと踏ん張っているんだね」
と察して、
「あら~、だいじょうぶ?」と、見おろし、小さな からだに、こちらの車輪を ぶつけないように注意しながら、くだんの、かたまったままの鶺鴒のギリギリ横を通り抜けた。
そこから少し離れた所にも、もう一羽の鶺鴒が居て、これは、私を避けるように、ちょいとだけ後ずさっていたけれど、
それでも、心配そうに小首を傾げながら、さっきの鶺鴒のほうを見つめていたのを見るに、この2羽はツガイなのかなあと思いつつ、
「自分の何倍何十倍もの大きなヒトが自転車で迫って来て、すぐ横を通り過ぎるとき、さぞ怖かったろう」
と思いつつ、ペダルを漕ぎ続けた。
この日は、やけに、鳥たちが集まっているのを見かけて、
鳩の一団のなかに一羽だけ混じった鶺鴒も居た。
「きょうは また、えらい風やんか」
「ご飯が飛んで行ってしまうわ~」
と、
びびりながら会話しているような風情だった(笑)
『雨と小鳥』
ちなみに(?)
うちの母親の腕には、生まれつき、蝙蝠の羽を思わせる形の小さなアザが あってねw
本人、それに愛着を感じていたのか、あたかも、自分のシンボルのように思ってたらしくて、
ある日、どこやらの店で見つけたわ、と言って、
蝙蝠の姿を形どった、その羽の上に、真珠を一粒あしらってある、銀の小ぶりなピン ブローチを購入してきて。
そのブローチは、母親の形見の一つとして、私の自宅で眠っている。
なぜか、「堕天使」のほうが美しく描かれてる。。。
「神」のほうが俗物そのものな容貌、醜いほどの冷たさを感じさせるのは、どうしたことか。
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』に描かれた、墜落する美しいルシファー。【ウィキペディア】
2018.02.09 (Fri)
すごいな、全世界に報道された、純愛男ナイジェルの恋。
これは もう、映画になるんちゃうか。
『鳥の形をしたコンクリに愛を捧げて死んだ鳥』
ギズモード・ジャパン 2/8(木) 12:32配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180208-00010005-giz-sci
~
涙なしには語れない悲恋羽。~
べんべん。
摂津大掾に語らせようぞ。
なんだか、アンデルセンの童話とか、ギリシャ神話に出てくる話みたい。。。
もっとも、あのギリシャ神話は、自分で拵えた塑像が、ある日、メキメキ本物の女性になって、ハッピーエンドだったけどね。
「コンクリートから人へ」ならぬ、コンクリートから鳥へ、かぃ。
しかし、鳥も やっぱり、「形から入る」のか。
よっぽど好きやったんやねえ、
そのゴチゴチの、およそ弾力性の一切ない、冷たいコンクリ女を。(エッ!?あたしのことかぃ?w)
けど、
いくらなんでも、これはカタい!カタ(硬・堅・固)過ぎや!!
とは思わなかったんかね。。。
はたして、ナイジェルは、分かってたのか、分かってなかったのか。
それが問題だ。
鳥でも、自分の願望に つごうよく見做したりするのだろうか。
「くく~っ。どうやったら、この無関心で無表情のまま、微動だにしない、つれない可愛コちゃんを、その気にさせることが できるんやぁ?しかし、待てよ、まじで厭ならば、さっさと飛び去ってしまうはずだが、逃げもせずに、こうして毎日、ここで待ってくれてるし。。。自分は、試されているのかも しれん。ここはオトコの意地にかけても、チャレンジ!チャレンジ!!ボクは負けましぇ~~~ん!!!」
と、日々、新たな闘志を掻き立てていたのだろうか。
いま、『ナイジェル』に、ヒトのコトバが話せたら、はたして、何と語っただろうか。
案外、
「いやいや、わしとしては、いい夢見させてもろうて、けっこう幸せだったわ」
と言ってくれるだろうか?
それとも、
「時間と労力のムダさせられたやんけ!!」
と怒るだろうか。
あっ、そう言えば、
いわゆる「ダメ男に貢ぐ女の心理」ってやつだったかな、
それは要するに、労力を費やし、時間を費やしたからこそ、それが長い期間にわたるほど反比例して、全然報われてない現実とは逆の方向に逃避する考えかたに陥ってしまうのだとか何とか、そういう、専門家筋による説を、どこかの記事で読んだことが あるぞ。
あとから渡って来た本物のカツオドリたちからは、
「あいつ、へんなやつ~」
近づかんとこ、と思われてたんだろうか。
まあ、冷静な観点では、動物たちにとっては、まずは天敵や外敵の脅威が なくて、食べ物さえ確保できれば、ひとりで平気だそうな。
ナイジェルも、もと居た仲間たちとの生活は、あまり居心地よくなかったのかなあ?
そう言われてみれば、人間だって、特に、「ヒキコモリ」と呼ばれる人たちにもズバリ当てはまってるのだろう。
ただし、その状態が最後まで保証されていれば、の条件は付くだろうけど。
その保証が おいそれと望めないことは、人間の知能では察せるから、常に不安が付き纏う、したがって、傍から見てる分には「安楽なこって」と、つい、ねたみたくもなろうが、当人の内心は悶々してたりするわけだ。
いずれにしても、
「騙されたほうが悪い!やーい、やーい」
という、人間界お馴染みの、意地の悪い ひらきなおりと軽侮のパターンは、さすがの「ヤフゴ民」にも、ほとんど見受けられないようだw
「地球と自然界にとって、『悪性新生物』」たる人間てのは、仮に良かれと思っての行為であっても、かえって、他者の足を引っ張る結果になりがちだからなあ、
私も、そのハシクレでは あるものの、ほんとに、救いようのない、この世で最も愚かな生物でしょうよと思う。知性(あるいはエゴ)が突出しているだけにね、皮肉なことだ。
旧約聖書『創世記』に説くところのアダムとイヴ、
私は かねがね、そんなアホなと、せせら嗤ってきた『楽園追放』の理由も、分からんでは ないような気もしてくるわ。
2018.02.03 (Sat)
考えてもみて。
ほとんどの人は、早晩、痛い苦しい思いを経験する日が必ず来るし、
そして、苦痛を味わいつつ、やがて死んでいくことから逃れられない。
そのことを重々承知のうえで、当人から頼まれもせんのに産み落とすんだから。
やっぱり、子どもを産む行為は、本能的欲求を発端としつつ、人間ならではのエゴに ほかならないだろう。
だから、私に言わせりゃ、子ども産むやつぁ無責任で もともと、脳天気でアタリマエだ、っつうの。
ま、自分だけは別、少なくとも、最悪からは守られるであろう、っていう、無根拠な万能感や楽観性は、ほとんど誰しもな面は あるのだし、
あるいは、
何らかの劣等感が つよい人ほど、とりあえず「人並み」であることに拘り過ぎて、それが、「親」になることをもって「一人前である自分」を手っ取り早く達成できる方法、みたいに思ってる人も多いようだ。
ゆえに、
実際、親というものになってみたら、こんなにも大変な思いを するなんて、、、
とヒイヒイ言いながら、負うた子に教わり、成長するが よろし。(←高みの見物的突き放し発言w)
実は、このエントリー、直前にアップしたエントリーよりも、もっと はやく、年末か年初あたりには、ほぼ書きあげてあった。
たまたま、当該エントリーの内容に関連するような記事が出ているのを見かけて、そこで新たに書き始め、アップしたのが、直前のエントリー。
なので、順序は前後してるんだけども。
…しかし、ま、子を なすことって、「儲ける」と表現するんだよねー。
「儲ける」
だよ(爆)
なるほど、どうりで、うちの母親が、私を儲けたのは、
「利用するためだった」
とバラシたわけだw
もっとも、「おとうさんが、だよ」と念押しして、
おのれの亭主のほうに、ハナッから罪なすりつけてたんだけどww
で、その亭主である親父は親父で、
「おかあさんはな、俺を利用したんだよ」
だとwww
でもね、
とにかく、この私を産まないことには、さすがの あの母親も、亭主を利用できる次の段階に進出することは不可能だった。
まずは、
ゴリ押しキメ手ツールとして利用できる、私という子の存在を確保して、それから、だった。
そのわりには、私が胎児のうちから、さんざメチャクチャして、重度仮死状態にしてくれたがw
それに、親父は親父で、「利用された」以上のトクしてるからなw
むしろ感謝するべき。
もちろん、子である私に対してこそだぞ!ww
最近、ふと振り返って、あらためて気づいたんだけど、
私は、ものごころつくか否かの幼いうちから、家族・身内のみならず、ときには他人からさえも、うちの母親の悪口やイヤミを聞かされるハメになることが多かった。
それだけ、人間関係が複雑だった。
で、当の母親は母親で、
子どもが、自分のせいで、不当な目に遭い続けてることを知ってか知らずか、
いや、知ってたうえで、おのれの亭主や、その連れ子らへの強烈な不満を、やっぱり、幼い私に向かって ぶちまけ続けていた。
そのたびに、
自分自身は何も してないどころか、
生まれてきたという、ほとんど その一事のみをもって、親を筆頭に、周囲の役に立っている存在の私ひとり、ひたすら申しわけない気持ちにさせられて恐縮しまくってた。
ああ、本当に、「子の心、親知らず」とは、このことよ。
よりによって、この私に向かって、出来損ないと罵り続けたバカ親よ。
「恩知らず」とは、誰のことか。
「親」と名の付く、アンタらのことだろうが。
気づいて認めることすら かなわぬほどの暗愚な腰抜け夫婦だったから、首尾良く死ぬことでトンズラこきおおせたがね。
親父なんぞ、先立った女房のところへ、もう少しでも早く逝ってくれていれば、その分、私も、ちょっとはラクだった。
どーしようもねかったわ、あのダブル不倫バカップル。
さて、
人間ならではの発想では あろうけれど、同時に、思考停止的「親の恩を」と、ほとんど恫喝めいて主張することしか思いつかない、それが親側としての主張であるなら、じつに、あつかましい!の一言のみ。
犬や猫の親だって、そんな恩着せセリフは言うまいよ。
これが、子の側の発言であるなら、哀れなほどの素直、おめでたさというのみ。
お人よしが過ぎまっせw
では、「親の責任」とは何か。
むろんのことで、何らかの障碍ゆえのトラブルや苦難の重荷を、一人で直に背負っていくのは、あくまでも当の本人であり、
いかに身を粉にして養育している親ですらも、本人の代わりには、断じて なれない。
その意味に限っては、たしかに、「親は関係ない」、
と言うよりも、
究極は、どうしてやることも できない、無力でいるしかないのが現実、ということ。
ま、往々、重度の病・障碍を背負っている本人以上に、その親のほうが苦労するという現象も現実には あり得るわけだけれど、
そこへ来ると、中等度ないし比較的軽度の障碍者の親は、これが最悪なタチの者だった場合、知らんぷりを決め込むどころか、平気で、子の障碍をも利用すべく画策するというケースも あるのだ。
それは、おのれの支配から、子が逃げられぬよう。
自分が踏みつけて、その分、自分を高く見せる道具にするために。
こんな親も いるのさ。
うちの親みたく、小賢しさ満点に外面を飾り、その本質は愚か者が殊勝ぶって言うところの、
「まず食べさせることが、親業の基本」
というのは、初歩も初歩レベルの話であって、
そんなことは、幼い子でも理解している、
野生動物だって、恩に着せることなく行なっている。
端的に言うと、
子の成長と将来を見越して、それに必要な手立てを尽くすこと。
これは、野生動物の世界でさえも、ある程度は行われることのようで、
たとえば、狩りのやりかたを教えるとか、子育ての手伝いを させるとか、けっこう見聞きする例で ある。
私が飼っていた犬や猫でも、飼い主にとって可愛げある、扱い易い性質か否かといった面とは全く別に、
ある程度には「スパン」というものを予測・認識しているからこそ、それに沿うよう考えて行動できる賢さは、やはり、メスのほうが大いに上回っていた。これは、やはり、出産と育児の役割を担う性だからと思しい。
それに比べて、
私の足を引っ張るのを楽しんでた、それと同時に、自分のヘマや強欲を隠蔽するのに汲々としていた、あの母親。
犬・猫以下か、あんたは。。。
ましてや人たる者、
おのれの儲けた子に、防ぐ努力も届かなかった結果として、何らか弱点や障碍が判明したら、そのことを視野の中心に据え、その子なりの人生が立ちゆく算段と努力(他人の懐に託す選択をも含む)を遂行しなければ ならないし、
そうせずには いられなかろうのが、およそ親と呼ばれる者の一般であるはず。
そういうことを尽くしたうえで、
「成人した以上は、もう、親は関係ない」
というセリフも許されるのだ。
ばかな親みずから言う資格は ない。
2018.02.03 (Sat)
『「親の責任」は あるのか ないのか』の続き。
人間たるもの、それ以外の動物たちとは違い、いろいろ考え併せるはずなんだから、
産んで、なんとか人並みに育てることは できたにせよ、少なくとも現代においてさえも、最後には、病気になるか、不慮の事故か災害で、大なり小なり痛い、苦しい思いの果てに、こときれる。
それが殆どの人の迎える行く末でしょ。
それが分かってて産むんだからなあ、、、
よりによって、これだけ知性が発達している人間がよ。
その理由は一つでないこと等々も、私は、とうに察しを つけているが、
それらの詳細は、今は置いておく。
だからこそ、
先日のエントリーでも述べておいたように、
われわれの出発点が、そもそも、手厚い保護を必要とする あかんぼうで あったことを思い起こし、
社会の改善策を怠ることなく営々と積み上げていく、これは、子を なした人間こそが常に念頭に置いておくべき、最大の責務なんだ。
ま、実際には、野生動物にすら劣るような人間どもほど、次から次へと、子を産み散らしているけどね。
うちの犬や猫を観察していても、
はなからオスをアテにしてないメスが、もっぱら自分だけで子育てを担うせいか、あの狭い額でも、ある程度の「スパン」というものを理解しているらしく、それを見越して、子育てしとったわ。
つまり、メスのほうが、幾分か賢いようだった。
昨今、ヒト科の♀なんざ、犬や猫にすらも劣ってるみたいな事例が、目につくもんなあ。
私はねー、ものごころも つくか つかないかの幼い頃から、
母親には、「おとうさんソックリ!おまえなんか産むんじゃなかった」
腹違いの、ずっと年上の きょうだいたちには、「おばちゃん(←私の母親のこと)ソックリ!」
父親には、「この、できそこないが!!」
と、家族全員から罵られ続けたけど、
そんな私が、親らにとって、最も役に立った子でね。ほんとだよ。
親は、もし、生きていて、ものが言えるなら、いまでも頑として、そのことを認めようとは しないだろうが。。。どだい、分かってない。自分自身のことを。
分かると辛いということでもあろうが、逃避してることに無自覚だった。
私に対しては、やれ、努力が足りない、要領が悪い、と、徹底的に批判するんだけど、自分のことは棚上げ。
また、夫婦間でも、「あんたは」「おまえは」と、激しい応酬。
ひたすらエゴと欲と防御と攻撃のカタマリ。それこそは、この世の「正義」とでも思っているようだった。
こんなんでも、世間では、それなりに、立派な人で通ってたんだからね、いやはや。。。
案の定と言うのか、
やっぱり、うちの親と似た価値観や共通性のある他人ほど、あの親らの肩を持つ側に回っていた。
ほんとに一人だけ、
うちの母親に、面と向かって、でも、やんわりと、
○○ちゃん(←私)が可哀そうよ、
と忠告してくれた、幼なじみの男子のとこの、優しい おばさんが いたんだけど、
この人のことは、本当に、頭の良い人だと、うちの母親も認めていた、
と同時に、つよく警戒していた。
見透かされそうだと怖れていたのか、
自分を上回る頭脳の持ち主だと、ねたんでいたのか。。。
たぶん、近々のエントリーでも、再び書くつもりだけど、
私は、
「利用するために、産まされた」子、
なのだと、
母親から聞かされたことが あったわけ。
誰が、私を利用しようとしたかって?
親父が、
だそうな。
いーやいや、いまの私は、ほぼ全て、お見通し。
私を利用するために産んだのは、むしろ、
それを言ってのけた、当の母親だったのさ。
実際、私は、むちゃな母親の腹のなかで、ほとんど死にかけていたのだけれど、
もし、私が産まれて生き続けることなく、
あるいは、脳性麻痺で産まれていてもフシギは なかった情況だったし、
その後、ほとほと、親らにイヤ気が差したあげく、
十代の頃に何度も図った自殺を遂げおおせていたら、
そして、私が存在しなくなったら、
少なくとも、あの親らの平穏な老後なんぞ、ありゃしない。
さんざん、私一人を犠牲にしたあげく、ヘルパーや近所の人たちにまで、悪口を言いふらしていた親父。
おのれの後妻が死んだ後は、私を、その代わりの「女中」扱いにしようと目論んでた親父。
「女中」なら女中で、見合うだけの給料くらい払え。甘ったれんじゃねえよ。
てめえらの怠慢のせいで、こちとら ずっと苦労してきたんだからよ。
そもそも、暴力親父のツラ見るのもストレスなんだよ。
あんな愚物夫婦、
幼い頃から、私に心配ばかりさせていた母親のほうは、私しか頼る子が いないのだから、最後まで、見捨てることは よう しなかったが、
親父のほうは、他の子どもらも いるのだし、
いずれも、私よりは ずっとずっと良い生活(←私の母親のガンバリで)できていたのだから、
なぜ、少しは、そっちに頼まないのだろうかと、恨めしく思った。
こっちは、幼少時からの障碍かかえてても、仕事してるんだからさ。
とは言え、腹違いの兄も、両方とも教職の共働き、その夫婦関係は すでに破綻していたらしいし、
これも腹違いの長姉のほうはというと、
カネの計算と口だけ達者の、役立たず。
結婚後、ほどなくして、何十年このかたを、精神科通い。
いまでこそ「面前DV」の、子への悪影響が指摘されているが、当時は、そんな概念なかったしなあ。
持病の問屋の母親を庇って、私が身代わりに殴られてたもん。
無学・無教養な うちの親は、自覚なきウヌボレやで、
私に与えている悪影響のことなんか、てんで無頓着。
自分らの抱えてる被害意識やメンツにばかり拘ってた。
というわけで、
おおかたの「親」の本性なんぞ、エゴの塊り、もしくは、何も考えてないノーテンキ、もともとからして無責任なもんなのである。
でなきゃ産めないって。
まさに、「負うた子に教わり」つつ、親らしいフリしとるだけ。
ちと、政治家なんかと似てるね。
共通してるのは、
結局、責任とるのが、シモジモ国民や一般大衆に他ならないってこと。
「民主主義」では、いちおう、国民が選ぶカタチには なってるものの、はっきり言って、主義は関係ないわな。
親も責任とれない。
結局、背負っていくのは、産み落とされた子である本人。
それだけ。
「親の責任」って、一生、無関係では あり得ないよ。それは真実だ。
ただ、どうやっても、ほんとうには、とれないんだ、責任というものをね。
それだけのこと。