2022.11.25 (Fri)
最近、
ついに、汀 夏子さんの画像を幾つか漁りまくったなかから、パソコンの壁紙に据えちゃいました(笑)
立ち上げるとき、閉じるとき、それを見ては、ついついデレデレ
してしまいますぅ
とうとう、こんなになってしまった。。。(苦笑)
さて、
近頃ハマっている『ユーチューブ』動画のなかでも、先日のエントリーで紹介した『山田五郎 オトナの教養講座』シリーズ。
ルソーの巻で大笑いしたあと(いまだに、思い出しただけで笑えてくるw)、また いろいろ視聴していって、今度はヨハネス・フェルメール『窓辺で手紙を読む女』についての解説中、当該作品のなかの背景になっている壁の部分に、本来は、『キューピッド』の絵が描き込まれていた、ということが判明後、近年の修復作業によって、画家本人が描いていたとおりに復元という話、私もチラッと聞いていたのだけれど、
くだんのサイトで解説者を つとめておられる山田氏は、いたく御立腹の ていで、ここは復元せずに おいとくべきだったのだ!との御主張なのだが、
いやいや、むしろ、レプリカとして残せば良いのは、復元前のものでしょうね。
いっそ、両方を並べて展示するのも、また興味深い。
現に、おおかたの日本人が「みなまで言うな」を好み、「陰翳礼賛!」の われわれにとって、「余白の美」というものは、最も しっくり来る美意識では あるし、お気持ちは重々理解できるのだが、
やはり、日本人と西洋人の感覚の違いは多かれ少なかれ あるだろうし(とは言え、かの『ロココ』にウンザリして、シンプル・素朴な農家暮らしに憧れた王妃も いたわけだw)、
時代によって違う感覚も あるはずだし、
なによりも、学術・研究としての復元である以上は、もとの姿に戻すのが当然だとされても しかたないですよ。
学問・研究というものは、ただに美意識や感覚で左右されては いかんでしょ。
その美意識・感覚からしてが、なんぼでも揺らぐ余地が あるわけですからね。
それよりも、
フェルメールが亡くなった以降に塗りつぶされた形跡が あるとかいう、そっちの方が興味深い。誰かしらね?塗りつぶした動機とか、気になるなあ。。。
で、概ねの日本人が好む西洋絵画というのも、幾つかの傾向が見受けられるそうなのだけれど、
私も勿論、特に好きな画家の一人であるフェルメールは、『デルフトの眺望』などでも感じられるように、空間と時が止まったかのような、ある種の非現実的な、夢のなかの場面のような静謐感が あり、
そこに、真っ先に目を奪われるわけなんだけれど、
この、独特の静謐さに釘づけになる感覚は、ルソーの場合にも感じられる。
ところが、フェルメールの修復論争で指摘されるところの、ごちゃごちゃ「ビズィ」でないから好もしい、この余白やピンボケぐあいが良いんだよ、という主張とは反対に、
ルソーのほうはと言うと、かなりゴチャゴチャしつつ、見るからにクッキリみっちり、だよね?なのに、妙な静謐感が ある。
ちなみに、
私は、田中一村の絵を見ると、いつも、ルソーをも連想してしまうのだけれど、
もちろん、田中画伯とルソーとでは、国やジャンルの違いを考慮しても、根本的、土台の技術レベルからして比べものにならないのだが、
この両者の唯一と言っていい共通性は、やはり、独特な静謐感だと思う。ある種の、悪夢のような不気味さが漂っているほどの。
かつて、横尾忠則氏が、ルソー作品のパロディを提示したように。
しかし、同じ静謐感が あると言っても、フェルメールの作品からは、そういう不気味さまでは感じない。
もっとも、この時代のオランダ絵画、あるいはフランドル絵画からは、総じて、独特の印象を受けるのだけれども、
同時代、同じオランダの画家で、ヤンセンス・エリンガ(エーリンハ)という、それこそ、いまだに埋もれたままと言っても過言でないほどの画家が いたのだが、この画家の作品の一つに、『読書する婦人』という絵が ある。
この絵にも、フェルメール、また、彼と似たテーマや作風の、たとえば、デ・ホーホといった画家たちの作品から感じ取れる、おだやかな、やわらかい温かみよりは、一種の不安感や不気味さを、私は感じるのだ。
描いた画家本人に、そんな意図は微塵も なかったであろうけれど(ルソーも そうであったように)。
そこに描かれている唯一の人物である女性は、その場面のなかで最も目立つ鮮やかな色の上着を着ていながら、ほとんど背中を見せて腰掛け、その横顔は、白い被り物の陰に隠れていて、どのような表情を しているのか、まったく窺い知れない。
タイトルとは裏腹に、この絵の主人公は、読書中の女性とは違うので ないか?
と、瞬時に感じさせる。
そう、本当の主人公は、夢のなかで私が歩きまわった「室内空間」そのものなのだ。
と言うのも、
このエリンガ(エーリンハ)の『読書する婦人』という絵には、私にとって、なんとも言いようのない感慨を もよおさせる個人的事情が ある。
それは、過去エントリー
にて述べてあるとおりで、
どうしても、特別な感覚を もよおさせる1枚なのである。
大多数の日本人が好むらしい、静けさを感じさせる作品。
空間と時が停止したような場面に伴う静謐感。そこまでは共通していても、やわらかさ、温かみでは なく、ある種の不気味さを感じさせる作品がチラホラ存在する。
日本人が好む静謐感とは、どちらなのだろうか。
ただ、私が推測するに、
もしかしたら、多くの日本人は、ルソーあるいはエリンガの作品が漂わせているような、静謐さ以上の「不気味」に通じる要素までは、あまり、感じ取っていないのかもしれない。
たしかに、私のような感覚は、けっして、日本人の多数派のものでは なさそうだ。
たとえば、10代の頃に、モネの『(アルジャントュイユの)雛罌粟』という作品を初めて見たとき、なんとなく、「もの哀しさ」の感覚を覚えたのだが、そのことを言うと、聞いた人の全員から、いったい どこが?なぜ?と訝られたものだ。
この「もの哀しさ」の感覚は、何によって もたらされているのか、一見は、平和な、おだやかな、美しい光景であるばかりなのにと、私自身、説明しにくいなあとは思っていた。
ところが、だいぶ後年になって、とある冊子を読んだときに、その疑問が解けた。
それは、美術解説の方面では、知らない人が ないほど著名な専門家による解説だったのだが、
いわく、くだんの『雛罌粟』で、同時に、丘の上と降った所にいる、二組の母子連れは、じつは、同じ人物たちなのだと。
つまり、丘の上と下で、「時の流れ」を表現しているのである、と。
時の流れ。
それは、とどめようもなく、否応なく流れていく。
夢のように美しく、平和な、おだやかな時も、刻々と流れて、過ぎ去ってゆく。
私は、自分が、この絵から感じる「もの哀しさ」の理由を、やっと理解したのだった。
ちなみに、ニナ・リッチの『レール デュ タン』は、私が初めて自分の稼ぎで購入した香水です(笑)
それにしても、
山田五郎氏の美術解説チャンネルを視聴していると、まさに、美術世界と言えども、「孤高」どころか、俗な世相や価値観の変遷といった、人間の生々しい歴史と密接に関わり合っているのだなあと納得する。
私の学校時分も、たしかに、「実技」ばかりで、「美術史」といったことの授業を受けた記憶は皆無に等しい。
そういう分野は、それこそ、大学段階で選択して、専門として学ぶものなのだろうと思っていた。
私の中学時代の美術担当教師などは、外見以上に、性格がヘン、というのが、私ら生徒のあいだでも、もっぱらの評価だったものだがw
この教師は、美術史や作品解説どころか、自作の絵について、これは、ある夜なかに、激烈なるインスピレーションが湧いて、イッキに描きあげた、などと、わけワカメな抽象画を自慢したものだから、
それを聞いたとたん、つい、フッと嗤ってしまった私を目敏く とらえ、
以後、根に持たれて執拗に攻撃された、苦い思い出が ある(苦笑)
そのあげく、美術の成績をアカラサマに酷く落とされたもんだから、うちの母親も驚いて、担任の先生に、どういうことですか?と問いただしたことが あった。
そのとき、担任の先生は、
「ああー、はいはい、美術の□※センセイですか」
やっぱり、という口調だったそうで、
あとで私も、母親から聞いた話では、あの美術教師は、職員室のなかでも、激しく浮いている存在だったらしいとw
だって、ほんとにワケわかめな、描きなぐった感じの、ばっちい抽象画だったんだもんw
真面目は真面目な性格なんだろうけど、めっちゃプライド高かったのよね、あの先生ww
まあ、他人の作品自慢を聞いて、つい、プッと笑った私も悪いしw
見たまんまのとおりに、ただようゴミまで描き込んで、親父に罵倒された私が言えるクチでは ないかww(先日のエントリー内の参照エントリーを参照くださいませw)
これは、私の高校時代、いたく感じ入ったことなのだが、
社会科とか歴史とかの授業で、ここでも やはり、ひたすら暗記を要請され、つまんない科目の代表格のように、私も思っていたのだが、高校も、やっと3年生になってからだったか、担当が替わった世界史の女性教師が、『第1次世界大戦』あたりからの各国の事情や国際的な動きを中心に解説してくれたことにより、それまで感じることのなかった、イキイキとした「人間の歴史」というもの、それは、われわれ現代人が生きている こんにちの世界の様相にまでシッカリと繋がっているのだということを理解できる講義だったので、生まれて初めて、
歴史ってオモシロい!
と感じたものだった。
その先生が担当するようになって、初めてと言っていいくらい、世界史の成績がグンと上がった。
じきに受験シーズンに突入してしまったのが残念だったなあと、いまでも思う。