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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2022.11.07 (Mon)

【続】秋の深みに寄せての続き。

 

うちの母親のほうは、と言うと、これも また変わっていて、

書く、描く、両方とも苦手なんだと、プライドの権化みたいな性格のわりには、めずらしく、自分で認めていた。

親父と同様、母親も、学校の優等生で、どの科目も よく できたそうだが、なかでも、音楽の才能は、専門の教師から太鼓判を押されていたという。

ところが、絵を描くことと、書道だけは、うまく できなかったと。

 

しかしながら、母親の書く字は、娘の私から見ても、ちょっと驚くくらい、荒々しい、男っぽい筆跡だったのだが、書道の場合は、そこが良いのだ、力強さが際立っていて良いと、そのように褒められるのだが、書くのも描くのもダメだと、自分で認めざるを得なかった その理由と言うのは、いずれも、

紙から大きくハミ出してしまうから、

ということだった。

 

あるていどの年齢になれば、ふつうは、書くにせよ描くにせよ、取りかかる前に、それなりの構図を考えるでしょ、目の前の紙のサイズを考慮しつつ。

うちの母親はね、ひとたび、筆を手にすると、

このままでは、もはや、この紙のサイズを超えてしまう~
と気づいていても、

ああ、また やってしまった、、、
と、紙の外にハミ出すまで、やめられない止まらないと。

 

ただ、色彩感覚は非常に優れていると褒められても いたそうな。

 

一言、申し添えておくと、

母親は、脳に、ある種の異常が ある人でした。

本人は、毎度のように、こういうことについてはハッキリと言わずに誤魔化してたけど、

いまの私の知識から察するに、恐らく、母の姉妹の遺伝的要素も鑑みて、たぶん、『癲癇』の傾向を持っていたのだと思う。振り返ると、思い当たる発作も、時々起こしていた。

もちろん、母自身は、関係ないことを述べ立てて、もっともらしく言い訳にしていたので、私も、なかなか、そこまでは気づかなかった。

本人としては、隠しておきたい、コンプレックスだったんだろうな。

 

親父は、自覚なき「アル中」だったわけだし、ふだんの睡眠中の寝言や動きも異常に激しいことが たびたび あった。こういうのも、脳の異常に関係しているらしい。

 

私は、両親の これらの傾向を、幸いにも、全くと言っていいほどフシギと受け継いでいないのだが、

しかし、
両人とも、脳に異常が あったということなら、実の娘である私自身も、、、かな?(苦笑)

 

 

美術から、次は文学の話題を少々。

幼い子どもの頃や学校時分に読んで、いまでも、時おり思い出すほど、つよく深く印象に残った童話や小説たち。

旧ブログか過去エントリーで述べたことも一部混じってるかもだが。

 

ワイルド『大男の庭』『若い王様』

なんとも言えない、ふしぎな、神秘的な感覚に打たれたのを憶えている。まだ、小学校1、2年生くらいだったと思う。もちろん、ワイルドの名すらも知らなかった。

 

 

アンデルセン『人魚姫』は、何も言えないまま、ただ「水の泡」になって消えてしまうなんて、あんまりだー!と、幼な心に、たいへんな悲劇性を感じ、ショックを受けた。

 

うちの母親は、『マッチ売りの少女』で泣けた泣けたと言っていたのだが、動物好きの私にとっては、むしろ、ウィーダ(ラメー)『フランダースの犬』のほうで、人間に つきあったがために、ひどい空腹のまま道連れになり、ついには凍死したパトラッシュのほうが、あまりにも かわいそうと思ったw

 

いずれも、現代に おける先進国のような、子どもを守るべきだの権利だのの概念が なかった時代。

幼い子どもに対してであろうとも、情け容赦が なかった。

 

 

これまたオスカー・ワイルドでww『幸福の王子』。

耽美派ワイルドのことなんて、全然、知らなかったんだけどねw

ここでも やっぱり、
つきあわされた燕のほうが かわいそうじゃんかと思っていたww

でも、最後に、ゴミ捨て場のなかに放置された王子の心臓と、燕の骸を指して、

「最も尊いものが二つ、あそこに ある。あれを持ってきなさい」

と、雲の上で、神さまが天使に命じたコトバに、胸うたれました。

 

 

ひるがえって、日本の『ごんぎつね』(新美南吉)

いまでも、滂沱の涙なくしては読めません。

あほな「ごん」が いじらしくて、いじらし過ぎて。

兵十の辛さ、切なさが分かり過ぎて。

 

浜田廣介『泣いた赤鬼』も。

この作品には、必ず一緒に思い出す、ちょっとした個人的な出来事が あった。

 

私が入園した幼稚園は、私らが初代の園児だったらしいのだが、その創立に あたって、いろいろな準備活動に協力した うちの母親は、娘の私が小学生になっても引き続き、学校関係の活動全般に熱心だったのだが、

幼稚園が始まる少し前の ある日のこと、うちの家の玄関先に、大量の童話の全集が運び込まれた。

見れば、それらの絵本の、美麗な装丁、色彩も鮮やかなカラー刷り。
表紙を見ただけで、幼い頃から、本を読むことも好きだった私は、胸を わくわくさせ、これらは、てっきり、自分のためのものなんだと思い込んだ。

ところが、よくよく聞けば、私が入園予定の幼稚園に納入されるものであり、何やらの つごうが あって、とりあえず、うちで預かるために運び込まれただけ、というのだ。

それを聞いて、心底がっかりした私を見かねてか、母親は、

「あしたには、あんたの行く幼稚園に運んでいってしまうから、どれか、読みたいのが あるんなら、今晩のうちに、一冊だけでも、おかあさんが読んであげよう」

と、好きなものを選ぶようにと言ってくれたのだが、

ぬか喜びした ていの私は、とにかく残念で残念で、拗ねてしまい、意地を張って、いらない!と言ったように思う。

それでも、未練がましく、たぶん、やっぱり これ読んで~と、最後には ねだったのだろうか、

くだんの『泣いた赤鬼』を、そのときに、母親に読んでもらったらしいことを、うっすら憶えているせいか、いつも、つられて思い出すのである。
あのときの、美しい絵本たちが、自分のものにならない、がっかりした気分とともに。

 

 

『安寿と厨子王』。

よく知られている森 鴎外の『山椒大夫』では なくて、ここでは、子ども時分の私が読んだ、あくまでも小児(小学校低学年頃)向けの本が前提なのだが、これの執筆者名は分からない。

安寿が身投げした沼の前に、小さな ぞうりが揃えてあった、という描写に、それが何を意味するのかを初めて知り、なんとも言いようのない、つよいショックを受けたのを、いまだに、まざまざと思い出せる。

 

長い長い苦難の旅の すえ、やっと見つけ出した、目が見えなくなっている母親と遭遇、すでに出世していた厨子王が、海原を渡る大きく立派な船に、生き残った母を連れて乗り込み、いまは亡き姉と乳母を偲び、

二人の名を、声に出さず、そっと、口のなかで呼んだ。

このような表現に、子ども心にも深く感じ入ったものだ。

 

 

かくも平易にして、かくも香り高い気品。

「黙礼」というコトバも、初めて知ったのが、小川未明の『野ばら』。

やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。~

 

小川未明には、『赤い蝋燭と人魚』という作品も あり、小学生の頃の私は、作中の人魚の真似をして、自宅の仏壇の引出しに しまわれていた大きめの蝋燭を取り出し、学校の図画で使う水彩絵の具でもって、絵を描こうとしたものだから、兄たちに笑われたことを憶えている。

(窓のガラスに直接、大きな絵を描いて、母親が、外の道路からも見えるから恥ずかしいと、嫌がったことも あったw)

そして私も結局は、うまく描くことが できなくて、なげやりに、全体を赤く塗りたくった蝋燭が、その後も ずっと、仏壇の引き出しのなかに転がされたままだったことを思い出した。

 

 

そのほか、

芥川龍之介の一連の中国伝奇シリーズ。

『杜子春』。

物語の始めから、どこか茫漠とした不安感が漂っている。
それは、やはり、日本の風土には ない茫漠さだ。

春である。
春の夕陽に照らされる街角で、ぼけ~っと佇む主人公「子春」青年の、いかにも たよりないイメージだけが、最初に読んだ小学生の時分から こんにちまで、ずっと残っていた。

そうして、ふと思い出すたび、なんとなく、あの不安のイメージを、わが身のことのように感じてしまう、一種の心地悪さ。

なので、長いこと、読み返す気にもなれないでいたのだが、それにしても、あの結末って、どうなるんだったっけ?と、最近になって確かめてみたら、

意外にも、幾分の爽快さをもって締めくくられていて、ああ、そうだった そうだったと頷いた。

 

ほかにも、

先日のエントリーでも触れた、『奉教人の死』。

痛ましくも、ある種の甘美でさえ ある、あっと驚く意外な結末。

 

 

幼稚園から小学生ごろまでに読んだのは、ザッとザッと、こんなところで、中学生になってからは、ロシア文学やフランス文学を中心に、翻訳もの小説が多くなっていった。

もちろん、洋の東西を問わず、ジャンルも問わず、まーだまだ、たくさん あるのだが、制限字数が尽きそうなので割愛。

 

いずれも、死ぬ前までには、いつか読み返したいと思っている、主として、幼稚園から小学生の頃に かけて読んだ絵本や物語。

胸が いっぱいになって、苦しくなってしまうかもしれないけれど。

 

 

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