2016.10.23 (Sun)
『北斎の肉筆画と判明 「作者不明」西欧の水彩画風の6枚』
西日本新聞 10月22日(土)10時10分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161022-00010003-nishinp-soci
こちらのほうでは、絵のサイズを幾分か大きく見られます↓
『オランダの博物館所蔵:北斎の西洋画だった 作者不明6枚』
毎日新聞10月22日(土)
楽しいですねえ、こういう話題は。
間違いないのであれば、北斎自身も、まったく新しい手法に、胸を躍らせながらのチャレンジだったことだろう。
旧ブログで、「根付」か何か、日本の伝統工芸のことを取りあげたとき、北斎のことも話題にしたことが あるんだけど、そのおり、あらためて確認の検索してみた感想は、やっぱり、特筆して先端的な面白い絵師だったということ。
でも、考えてみたら、江戸時代も後期の頃の人なんだから、こんにちから遡っても、それほどの大昔の人では ない。
もしかしたら、シーボルトが持っていた、西洋の画家たちによる参考作品サンプルのなかに、フェルメールのも含まれていたかも。
シーボルト先生は、日本に滞在していたあいだに、なんかアヤシイことも含めてwいろんなこと なさってたらしいし。子どもも つくってったしね(笑)その娘、通称「阿蘭陀おイネ」さんも、日常の一コマふう写真に、肩の力が抜けたクール美人なところを残してる。シーボルトが若い頃の肖像画の面影に似ているのが、またオモシロい。
上掲記事へ投稿されたコメントのなかに、かのフェルメールの名を挙げてる人が やっぱり いたけど、私も、今回判明したという絵の画像を一見して、フェルメールの『デルフト』の空気感を少し感じた。
その「空気感」というものは、やはり、大きくは構図から来るものなんだろうけど。
ちなみに、この絵も、(現実と幻想と両方が混ぜ合わされたような)独特の空気感を持っている。
Elinga(Dutch1623-ca.1682)Woman Reading
ここからは余談ながら、
この『読書する女性』は、私にとって、特別な感慨を もよおす絵なのです。と言うのも、
以前のエントリーで、ちょっとだけ触れたように、私は、時たま、いわゆる予知夢を見ることが あって。特に、どういうものか、病気で長らく苦しかった時期には、わりと頻繁に見ていて。
そのなかでも、絵に関する予知夢の場合は、独特のパターンだった。
夢で見て概ねは翌日から数日後、たとえば新聞の日曜特別版で恒例の、国内外の様々な絵画を中心に紹介する特集記事にて、特大サイズの画像が掲載される、そのなかに、
その日まで、名も知らずにいたエリンガの作品が、夢で見た光景のままに再現されているのを見た瞬間、あっと息を呑んだ。そのときのことは、かれこれ数十年たっている今でも、まざまざと思い出す。この類の経験を した人は、私以外にも いるらしい。
これと同じような現象が起きた絵画や写真などは他にも幾つか あるんだけど、
ただし、いずれも、「絵」そのものとして見たのでなく、
夢のなかでは、あくまで現実としての その風景や光景のなかに、普通の日常的肉体を持つ自分自身が居て、そのときの周囲を眺めているという かたちで見ている。
くだんのエリンガ『読書する女性』の場合も、
かの地に特有なのであろう窓の造り、その外側の人通りの気配、少し埃っぽい窓越しに入ってくる柔らかい光が照らし出す室内に浮遊している細かい塵の きらめきとか、隅に置かれている大きな衣装箱(チェスト)や椅子に打ち付けてある鋲飾りとかを、間近に明瞭に、自分の目で眺めながら、べつだん奇異にも疑問も思わず、落ち着いた気分で、ほの温い空気を吸いつつ、木の床の上を、ゆっくり歩き回っている自分の足音が、室内にコツコツと響いていた。
その臨場感は、じつに生々しいものだった。
ただ、少し不思議なのは、
絵のなかの腰掛けて読書している女性だけは、その夢のなかの室内で見ていないと言うか見当たらなかったのね。これと似た現象なのだろうか、他の画家(日本人)の作品で同様の経験したときは、その作品のなかでヒロイン的に描かれている若い女性が、自分自身だったということが あった。
そういう夢を見たあとだから、「あっ、あの夢のなかの光景」と、まっすぐ、ピン!と来る。疑う余地なく。これは、経験した人でないと、理解できない感覚だろうと思う。
通常の現実における体験じゃないのに、すでに、わが身を以て体験したような世界なのだから、なんとも言いようのない感じ。一種の懐かしさが こみあげてくると言うか。。。
たしかに、
時代も国も全く異なる、あの、とある室内の空気を吸っていた。
白い大型帆船が高々と帆を膨らませ、遠い国から訪れた女王の誇りに満ちた足どりのように、厳かに滑らかに進み行くのを、青い波の まにまに揺られながら、傍で見上げていた。
日本の何処か、見知らぬはずの街で、夕暮れと夜の境に燈った月明かりに照らされ、静かな通りを歩いていた。
「未知の記憶」。