2016.10.23 (Sun)
もともとから、今般の この表現に対しての批判は少なくなかったようなのだが、
たしかに、「生前」というコトバには、動かし難い「死」のイメージが伴ってくるゆえ、特に、家族や身内の者が見聞きしたときは、りくつ抜きでギョッとしてしまうのは、一般的にも共感できるところである。
『「生前退位」は「歴史の書物にない表現」 皇后さま、違和感表明 NHKの反応は…』楊井人文2016年10月22日 7時8分配信
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20161022-00063507/
めったに読まない『ヤフー』コラムの、とりわけ、めったに読まないでいた筆者さんなので(もちろん、全く読む気さえ起きない書き手のほうが圧倒的に多いw)、忘れてたが、このかた、『産経』ご出身でしたなあ。
なるほどね、という感じです(笑)
さて、揚井さんの提議しておられる、この問題については、ほぼ一言で指摘できますやろ。
要するに、現「天皇制」が、終身天皇制であるということの影響が最大にして根幹。
つまり、現天皇が亡くなったとき即で次の天皇が位に つくという仕組みでしょ。
なので、現に生きている人が「生きているうちの」という断り書きを縮小して、わざわざ、不自然さすら漂う「生前」と言うことになったのかと。
まあ、ことばの吟味が足りなさ過ぎな感は否めないね。
やっぱり無神経でもあるし、
ことばで商売してるわりには、ちとナサケナイかもw
私は、天皇さんの御意向表明のことが報じられた当初の頃のエントリーで、まだしも「存命」というコトバを用いるほうが よかったのでは なかろうかというふうに述べておいたけど。
要は、現天皇さんは、「終身天皇制」に対して、異議を述べておられたのだと思うが、
また、「全身全霊をもって」と おっしゃったことについても、
これも、私の過去エントリーで述べておいたことだけれど、
少なくとも、はたの者の眼に、まさしく「全身全霊をもって」取り組んでいるかどうかなんて、あきらかには分かりっこない。
ましてや、遠くから、何らかの画面越しに眺めるしかない大多数の一般国民にとってはね。
つまるところは、
失敗せず、滞りなく、まあ完璧に近いレベルで やりおおせたなら、「全身全霊をもって」というコトバの裏付けには できようか。
極端なことを言えば、
客観的に見て、どんなに お粗末なるデキであったとしても、ご本人が、「全身全霊をもって やっとります、やりました」と宣言すれば、そうなのだろうとしか言えないでは ないかと。
そう言えば、
かつて、美智子皇后が、紀宮内親王の降嫁にあたっての御述懐だったと記憶するが、
公務の場で、何かミスを してしまい、気分が落ち込んでしまったとき(もちろん、美智子さまのことだから、些細なレベルに過ぎないことだったろう)、「ドンマーイン!」と言って慰めてくれました、というふうに、幼い頃の内親王との思い出を語っていらした。私は微笑ましく拝読したけれども。
ちと意地の悪い言いかたかもしれないが、
皇室のかたがた、ことに最高位とされる天皇ともなると、さぞやプライド、自尊心、自負心も並外れて高く強くて いらっしゃるだろうから、おおぜいの人々の面前での、些細な間違いや小さな失敗をも、まず、当の御本人自身が、許せないのだろうかなと思う。
私みたいなチャランポランは、自他ともに対して、そういうの、あまり気にならないどころか、
「天皇さんだって人間だもの」
くらいにしか思わないので、かえって、親しみを感じるだろうにと思うのだが(笑)
完璧に近く こなせる能力に欠けている者が、かりにも天皇という地位についていることは許されない、という基準や定義も、現天皇さんに、それを決める権限は あるのだろうか。
とは言え、たしかに、あまりにも失敗が看過できないほど大きくなり増加し、おつむや精神の働きに、加齢ゆえの尋常でない傾向が出てきているのを目撃するのは、誰にとっても、いたたまれないこととは思う。
「天皇陛下の『ご意向』を表すときは『譲位』」云々と、この揚井さんは おっしゃってるけど、
そもそも、天皇自身の意向を表明して許される場合、許されない場合の区分けも、一般国民には殆ど分からないのが現状だろう。
ただ、
より古くからの伝統に近い対処法であり、「譲位」というコトバを使うべきだと、天皇さんから望んでおられるというのなら、それも また、主権者としての一国民である私なんかは、複雑な感覚が起きてくる。
新しい天皇とは、という模索?
古代に近い天皇の姿に戻る?
だって、早い話が、役所あたりの人事異動みたいなものなんでしょ?
でも、
「譲る」というコトバには、主権者国民が、ではなく、天皇個人の主体性的感覚が伴うでしょ。
天皇が、みずからの意向でもって、
皇太子なりの次代を指し、それへ「譲る」(与える)という表明は、本当には許されてないことなのでは なかったろうかと、幾ばくかの疑問が生じてくるからだ。
と なると、
せいぜい「退位」まで、それ以上の積極性を孕む表現を押し留めておかなくては ならなくなる。
ついでに、
近頃、それこそ酷く遅ればせながら、ネットウヨのなかにも、天皇の基本的人権が ない、と云々する者を見かけるようになったけれど、
たしかに、天皇と皇族の人権は、一般国民と同様では ない。
同様で ないけれど、しかし、それがダメならば、どだい、いわゆる天皇制もダメ、ということになるよ。
この「経済大国」「先進国」を標榜する国の一般国民において、
こともあろうに餓死だの過労死する者たちすら次々に出ているというのに、
彼ら天皇と皇族の人権は、ひとえに世襲によって縛られているせいで、ある面は厳しく制限されて いるものの、基本的人権が認められていないわけでは ない。
そういった点では、むろんのこと、一般国民の何倍も保証され、厚遇されている。そこは履き違えては ならない。
また言っとくが、
わたしゃ「臣民」wになるため生まれてきた覚えなんざサラサラ持たないし、
もしも、今後は「臣民」でいなければ ならないと強制されるなら、日本人を やめることに躊躇もない。
「不敬」だの「不敬罪」だの言い出す、時代錯誤にして思想性低劣なウヨ連中は、レイシズム大好物の分際が、と冷笑する対象でしかない。
俗物連中の心性は、空気で できた「虎の威」を借るナントヤラが本当のところだ。
劣等感のカタマリである自分を高みに置いて、他者を見下ろせる よすがとしての道具にしているだけ、という自覚が ない。
それだから、ひとたび何かあると、天皇だろうが皇族だろうが、たちまち呼び捨てにして、攻撃的干渉、口汚く罵り始めるでは ないか。
基本的人権思想など理解不能で眼中にもないからこそ、そういう下劣・下品な言動が できる。
いったい、何を尊崇している臣民だというのだろうか。ばかげた話だ。
かねがね、ウヨらの尊敬やまぬらしい福沢諭吉が書き遺した
「天は人の上に人を造らず」
云々と、対して、
この現代になっても、むやみに有難がっている天皇・皇族なる存在との折り合いを、どう つけているのやら つけてないのやら、
たぶん、ああいうテの連中は、そんなリクツや努力やなんかはハナから端折っておいて、豪も悩むことなく済ませているんだろうなとは察してるけどw
ずばり、「天皇制」や天皇という身分存在が なくなったとしても、これまでと異なる感覚の面で戸惑う向きは まま あっても、現実的に困るという人は、少なくとも一般国民のなかには全く いないか、ごくごく限られるだろうし、
現天皇さん お望みどおりに、「終身天皇」でなくなったところで、何ら全く困らない。
なので、私には、
はるか昔からタテマエでありながら、本来とされてきた意味内容がゴロッと消失しようとも、たとえ、もとよりファンタジーでしかないのが「伝統」の真相であっても、その根本から まるっと入れ替えてでも、
あとは いよいよ「天皇」「皇族」なる名称だけが残るのみでも かまわない、形骸に次ぐ形骸の そのまた形骸を残すべきだと、必死になっている者たちの感覚には、あまり共感できないでいる。
ましてや、「象徴」として「全身全霊をもって」完璧な手本の姿を強制され、洗脳され、一人の人間としての人生が犠牲になることもありうるのに、そんなこと、誰に対しても強いることは できない。私はね。