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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2021.11.23 (Tue)

【再度】『聖』と『俗』。演出と犠牲。の続き。

 

それと、

私は全くと言っていいほど知らない人で、そうとう高齢の女性のようだが、若い頃はアナウンサーだったとかいう、、、ああ、そう、下重暁子さんと おっしゃる、すでに文筆業に専念しておられて久しいのだろうか、例の眞子さんの結婚に伴った騒動について何度か繰り返し主張されていたみたいで、

要は、
「眞子さんたちだけに『家制度』を押しつけるのは愚か!彼女の自由で良いのだから、黙ってなさい!」という論調に終始していたようだ。

私は、この女性のコラムも、見出しだけじゃなあ?と思い、
試しに一度だけ、本文を読んでみたのだが、あ、やっぱり、もうエエわ、という感想しか持てなかった。

だってね、

天皇制』『皇室』制度、それ自体が、もろに「家制度」そのものを全肯定してるじゃないの。

そして、家制度」こそが、この国の「連綿たる」「伝統」なんでしょ?

 

われわれが「押しつけ」?

だ・か・ら、

私は、押しつけてませんよ、ってw

 

「家制度」そのものを体現している『天皇制』や『皇室』制度を無自覚にか?支持しながら、同時に、
一般へ向けては、「家制度を押しつけるな!」ww

 

やっぱ、話にならないじゃん(_)

 

けれども、

「一般人と全く同じくらい自由にしたら よい」とは、とうてい、思えませんな。

 

「なかの人、おかわいそう」?

だったら、
特別扱いするための、ケッタイな制度は、やめるしかないわなあ、
それだけのことだ。

 

 

さて、先日も取りあげた内田 樹氏の、「アンタにとって、『天皇制』『皇室』制度を なくすリスク以上に、これらの制度が存在するデメリットを言ってみろ?」という主張については、そのエントリー内で述べたとおり。
とにかく汚い『自民党』はダッピッピw(誹謗中傷?ww)

要は、一人当たり換算で、たったの1円だろうと10円だろうと、召し上げられるものは召し上げられたうえに、なぜに、「つらい、苦しい、悲しい、籠の鳥」などと、逆恨みめいて嘆かれなきゃならんの?ってこと。

私の疑問と見解に近いらしい、法学の専門家さんも、

「かわいそうと思うのなら、廃止するしかない」

と、ズバリ指摘していたようだが、要するに、そういうことに帰結するほかは ないと思う。

 

ダブスタや甚だしく無理な矛盾を常に抱えさせられていると、気がヘンになってくる。しまいにゃ、感情鈍麻だよ。

 

ただ、
本質は商売人であるマスコミ、メディア界が、大衆を大いに煽り、ノセまくって儲ける話題づくりのために、殊更『皇族』の人たちを、尽きせぬ芸能ネタ扱いするのは、すぐに止め、必要で妥当な報道に徹するよう、各社、自戒してもらわなくては ならない。

滾滾と湧き続けるかのように見える「ネタの泉」も、寄ってたかって汲み尽くせば、早晩、涸れる日を招く。

 

われわれ一般大衆に向かって、「やめなさい!」「黙れ!!」と、
ヒステリックに説教する前に、最もマスコミやメディアに近い言論人たちも、まず、先に言うべき相手が あるだろに、と思う。

 

その矩を超えるところから、
「ミギ」にとっても「ヒダリ」にとっても、なぜか同様に忌まわしく思えてならないらしい、「『天皇制』『皇室』廃止」という主張や動きが起き始めるのだから。

 

 

で、内田氏ご自身は、
「『天皇制』『皇室』制度を廃止するリスク」
とは、どのように重大なことを想定しておられるのかが不明なのだけれど、

ただ、「リスク」面と言うなら、私も以前から言っているように、『天皇』や『皇族』を、民間へ「野放し」にするリスクは あるだろうなと考える。要するに、「悪い虫」「ヘンな虫」が寄りつきやすいというリスクねw

だからこそ、敗戦後の憲法のイの一番で縛ってあるのだろうと思うし。

 

ああいう、特別扱いと慇懃無礼、崇拝と軽侮が常に同時並行で向けられるような存在の人たちは、意外にも、けっこう鬱屈しているのを隠しつつ、気を遣い過ぎたり、媚びたりも する、その分も、プライドや自尊心とか自負心に縋るあまり、逆に、尊大な、心底ではウヌボレていて、見下す態度がチラチラ見え隠れしていることに自覚が薄い。そうやって、どうにかシャンとして折れるまい!とガンバっているゆえに、かえって脆い。
その意外な脆弱さに つけ込まれ易い。

と、まあ、そんな感じが していた。

 

 

ヨーロッパあたりの先進各国では、とうの昔に、「王室」や「帝室」を廃し、共和制に移行した あとになってから、かつての君主と一族が巻き返しを望み、これを担ぎ上げる郎党や王党派みたいな集団が走り回り暴れまくり、というような話はトンと聞かないのだし、

『教皇』なる宗教的地位の世界最高権威も、中世の頃の腐敗と反道徳性は凄まじきに至り、そのことを、やりたかほうだい謳歌する『教皇』本人・一族・係累・関係者一同、いっこうに恥じも せず、気にもしなかったらしいが、
こんにちでは、それでは通らなくなっており、いちおうは、いかにも道徳的な『教皇』のイメージが定着している。

 

さて、わが国の『天皇』も、多分に宗教がかっているが、いくら何でも、戦前・戦中の頃のような「現人神」の「絶対君主」時代に戻ろうなどと欲する国民は、さすがの日本に おいても、こんにち、ごく限られた方面の、狂気じみた連中くらいだろうと思うが、しかし、それだけに、現代では、『日本会議』を筆頭とした極右的主張の組織構成員が、狡猾さをフルに発揮して、陰に陽に、正体をボヤかしつつ、平凡・凡庸な民衆に喰い込もうとて画策し続けている。

 

「特権階級」と一般民衆。

どこか心底からウヌボレている人々と、ぼんやりノホホンとしている人々とは深く共通性が あって、どちらも、担がれたり、踊らされるのが好きだw

 

だから、
何を「国民投票」に かけるとしても、先に、この国の上から下まで、全体の知性レベルを上げていって おかないとならない、そう言ってきた。

 

ただに自由を、一般の国民、大衆なみに与えたら、「聖性」を備えているゆえに、誤謬や誘惑などに倒されはしないのか、特別な人たちであるのか否かは、すぐにバレるだろう。

 

 

「違法なことは、何も ないじゃないか」「証拠は あるのか」と、頻りに擁護する者たちへ。

そのセリフを、アベシなどの政治屋に ついても言うのか?()

 

法律なんて、凡俗の世界の最低限でしかないのだ。

ほとんどの国民大衆が、おのれを棚上げして、『天皇』と『皇室』に対し、飽きもせず要請し続けているのは、

単なる法律の基準クリア、などでは ないでしょ?

 

「聖性」とは、政治屋どものように、「法的には問題ないので」という苦しい言い訳が効くステージじゃないよ。

あなたがたは、まさか、「」ってコトバを知らないかな?

 

もちろん、私は、そんな難しい要請は しないけどw

 

 

(旧)『民主党』政権時に、「ハマグリ」という仇名で呼ばれていた議員が、国会開設の記念式典だったかで、『天皇』ご登場を待っていたとき、
居並ぶ議員たちとともに待機しておられた『秋篠宮』が、じっと立たれたまま お待ちになっているのを尻目に、詳細は曖昧ながら、たしか、なぜ立っているんだ、とか、さっさと座ろうぜ、みたいなことを言い放ち、問題視されたことが あったようなと憶えている。

それと、

『れいわ新選組』の山本太郎氏の、例の「『園遊会』おてまみ事件」ね。

当時、旧ブログでのエントリーに、この話題を取りあげ、いくつかの角度から、批判的見解を述べた私は、特に、あのときの侍従長だか『宮内庁』長官だかの態度を非難した。

仰々しくもwわざわざのオリジナル巻き手紙をば、山本議員から差し出された『天皇』さんが、驚きを あらわにも されず、いつもどおりの落ち着きある ごようすのまま、山本氏と少々の遣り取りを かわされつつ、ちょっとだけ開いてみるような しぐさも されたあと、すみやかに、侍従長だか『宮内庁』長官(風岡氏だったかな)のほうに向きなおられ、ほとんど「うやうやしい」ほどの しぐさで、今しがた受け取った巻き手紙を手渡された。

そこで、ニュース映像撮影のカメラが、まともに映し出した場面によって、それまでの一部始終を、さっきから仁王立ちの ていで睨んでいたと思しき侍従長だか『宮内庁』長官が、思いっきし、むくれ顔して、この事態への怒りを憚ることなく大っぴらに表現していたのが見えた。

そして、小柄な『天皇』さんが、ご自身よりも大柄な侍従長だか『宮内庁』長官に預けるべく差し出した手紙を、「当然だ!!」と言わんばかりに、山本氏のほうを終始、睨めつけながら片手で受け取って即、自分の羽織の袂に捻じ込むように突っ込んだのを見た私は、

「どっちが『天皇』で『侍従』なんだか!」

と、嘲笑しつつ非難したので あった。

 

そういう場面の記憶とか、怪訝に思うことも いろいろ あって、近頃では、どうも、一般の国民よりも、じつは、国会議員や『宮内庁』の関係者など、『皇族』がたに近い人たちのほうが、よっぽど、『皇室』『皇族』に対する軽視や見下しみたいな風潮が進んでいるのかな?と思うようになった。

まあ、案外と、大昔から、こんな傾向は多少あったのかもしれないけど。なにしろ、現代の政治屋と大差なく、互いに利用し合う世界だから。

 

 


虚ろな空間に、何かが あるように思って、ただ幻影を見詰め、

根本や本質からは、眼を逸らす癖が抜けない。

それでいて、細かいところはネチネチと気にする()

 

「哲学」というコトバも概念も持ち得なかった この国は、いまでも、他国からの借り受け暮らし、
真似事で表面だけ撫でて、わかったつもりになって、もっともらしく演じているのみ。

権力層もメディアも民衆も。

「上級」だろうが「シモジモ」だろうが、極端から極端へ持ち上げてみたり落としたりトコトン叩きまくったり。

いつ、餓えたケダモノみたいに牙を剥こうか剥かれるか、
虎視眈々と、怯え。

 

 

それにしても、『令和』という元号が発表されたとき、『昭和』も そうだったし、『平成』も特に そうだったと、「名前負け」を危惧した私。

また当たったみたいだなぁ(;^ ^

 

 

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