2018.02.25 (Sun)
ザギトワ勝利の含み笑い、だってさ(苦笑)
まあ、それは見てないんだけども、
「恥じらいを込めて笑う、、、こっ、これは、、、できない」
(↑大島弓子『毎日が日曜日』参照)
ってとこじゃない?
なんてったって、15歳の女の子だよ?
さて、
私、好きが嵩じて、ほんのちょっとだけ やってたクラシック バレエの影響もあるんだろうと思うが、
いま話題の、弱冠15歳で金メダルのザギトワ選手について。
まあ、全部は見てないんだけど、この選手の演技を見ていて、「雑だ」と批判していた人たちの感想も、正直、まあ理解できるわなと思った。
「雑」と言うか、
これから後半に集中して跳ばなきゃならないジャンプのことに、全意識が行ってるのか、そこに全てを賭けているから、こまかい表現のことなんか構っておれるかぃ、二の次、三の次よ!みたいな。
と言うよりも、
私の眼には、やっぱり、15歳の、身軽い少女、という感じが した。
体操の世界で喩えるなら、
さしづめ、私もリアル タイムで見てた、あのコマネチ選手と、どこか共通するものを感じた。
でもね、
ロシアには、アンナ・パヴロヴァっていう、往年のバレリーナが いて、
バレエに疎くても、その名を耳にしたことが ある人は少なくないであろうけど、
むかし、私が実家に居た頃、テレビ番組で、彼女が踊ってる場面の短い記録映像を見たところ、そのとき一緒に見ていた母親が、
「大らかなと言うか、意外に大雑把やねえ」
と驚いてた。
私も全く同感だった。
プリセツカヤのほうが、よっぽど繊細で凝った踊りかただったが、
とも思う。
まあ、パヴロヴァの、そのシーンは、いつも そんな感じだったと限らないのかもしれない。
私は、オリンピックに関して、動画を見るということも、従来、殆ど しないほうなんだけど、あんまり「ザギトワ」「ザギトワ」言ってるもんだから、
ほう、どんだけスゴいのよ?と、こればかりは、まず見ないことには、なんとも、、、と、軽い気持ちで見てみたうちの一つが、メドベージェワ選手も引き受けているという女性コーチから、容赦ない徹底的ダメ出しされてた練習場面。
いや、私はね、全くの門外漢、どシロウトですよ。だけど、あのコーチがダメ出しして言ってたこと、すんなり理解できた。
特に、「退屈だわよ」とまで言われちゃってたとこ。
たしかに、いまのザギトワ選手から、その恵まれた容姿と、お得意のジャンプを奪ったら、何が残るの?
そりゃもう、かなり退屈ですわ。
見てたら、とにかく「あたしに対して御所望のジャンプを、言われたとおり上手に跳べたら、それでいいんでしょ?」ってな感じ。
だから、コーチさんたちも、あたま捻って考えた作戦なんでしょう。
いまの、この子の一番の得手を最大限に生かすには、、、前半は、エネルギーを温存しておいて、、、とかさ。
「勝たなきゃ、意味ない」んだもん?
だいたいは、この年齢に、「こまやか」とか「円熟味」みたいなものを要求するほうが無理なんだろうし、
今回、
得点とメダルを分け合った、同じロシアの女子選手であるメドベージェワ選手と比べたら、こういう分野の女子の場合は特に、ほんの1歳2歳差が、とても大きな違いを醸し出すようになるんだなあということも、あらためて思った。
たかだか2歳前後の年齢差でも、メドベージェワ選手のほうが「お姉さん」的雰囲気で、ザギトワには まだ欠けてる落ち着き、安定感を備えている。
メドベージェワ選手のほうは、容貌が、一見、ロシア人というよりも、アメリカの女の子みたいな明るいキュートさが あるね。
ザギトワ選手のほうが、むしろ、「クラシック美」な容貌で、白人女性には、そういう人が多いみたいだけど、素顔を見れば、まあ年齢相応なのに比べ、お化粧すると、とたんに、とても大人びて見えるのね。
…そうねえ、
今回、ジャンプ技術に偏っていたとも言えようザギトワ選手の場合、これに、こまやかな表現力とか円熟味さえも伴う安定感が付いてきたなら、ほんとうの「完璧」を手に入れたということになるんだろうな。
ただし、4年後、あの世界では、最も ほど良い年齢になるわけなのだろうが、なにしろ、「アシが早い」という表現が、本来の、時間に関わる意味であるとおり、年齢の問題を思うとき、どうなんだろなあ、順調に生き残ってるかしら、、、という気も、ちょっと する。
基礎訓練の一環として、表現力を養うために、新体操あたりでも、やっぱりバレエ レッスンを取り入れるらしいけど、
彼女のは、ジャンプ、結局それを中心に据えたプログラムと同じく、要求されたとおりしていることで、ザギトワ選手が、まだ15歳とは思えない「お色気~!」と騒ぐ向きに、ちょっと講釈たれておこう。
大昔のバレエは、たとえば、ドガの絵を見たりしても、それを窺わせるシーンが あるけど、貧しい、若い娘が、パトロンになってくれる裕福な男性を得る場でも あったらしいのね。
それに、
15歳ともなれば、ザギトワ選手の素顔を見たら、むしろ、まだまだ幼い しぐさ、雰囲気だよ。
アジア人そして日本女性である私なんか、この年齢当時には、すでに、おとなの女性と間違われてたもんだ。
ただ、学年でも常に1、2を争う高身長だったから、相応に、出るとこはリッパに出てただけじゃなくて、手指・腕・足は長く、全体にスラリとした体型だった。
ところで、
バレエはねえ、
実際、私が教えてもらってた先生とか見てたら、舞台での華やかさ優雅さは想像できないくらいに、アッケラカンと、かつ、「体育会系」な雰囲気ですよ。
これは、似た世界で言うと、社交ダンスでも そうだと聞くし(これ習ってた知人は、先生が、とにかく厳しくて、まさに「スパルタ」式の世界よ、人間性の面までズカズカ踏み込んで批判してくるし、と言ってた)、
これも個人的に、ちょっとだけ知ってるファッション モデルの世界についても言えそうなんだけど、私の知ってるモデルさんたちも、学生時代に、バレエじゃなくてー、バレーボールやってたんだ、とか言ってて、
あるいは、
ふつうに飲み食い、喋って、ぎゃっはギャッハ笑ってるの見て、
「おいおい、そのへんの女の子のほうが、よっぽど色っぽくて女らしいじゃんかよ」
と言いたくなるほど、まあー、はっきり言って、ガサツですわw
私なんか、シンプルなターンでさえ、呑み込み遅くて、みんなと逆の方向に回ったりして、指導の先生に叱られるというより、呆れられたもんね。
バレエはバレエで、固くてグラつくカラダを支えてもらおうとするあまり、強く握り過ぎで、一列に並べてあったバーが、私の所だけズレていってるしまつ。。。
やっぱりさ、
何によらず、カラダ張って競う世界の人って、外見の要素だけじゃなく、機敏さなんかも要求されるからね、
なかみは男っぽい、スポーツマン タイプの人が多いのかなという印象でした。
うむ、
バレエは、おのずからスポーツの要素も含んでくるが、やっぱり、表現・芸術。
フィギュアも、表現・芸術の要素を大きく含むが、基本的にスポーツ。
そういうことなんだろう。
重なり合うところが あるから、せめぎ合いというか、微妙さは、どうしても出てくるよね。
皆さん御存じのとおり、ロシアは、バレエ王国でもある。
「異次元」という称えかた、いまでも、彼に捧げたいとすら思う、
「天才」「完璧」「キング」という呼称は、まさしく、彼のためにあると、
どシロウトにさえ実感させたのが、かのプルシェンコ元選手。
どんなに素晴らしい選手でも、「帝王」プルシェンコの横に立ったら、まだ子ども、という感じが してしまうだろうなと思う。
余裕しゃくしゃく、ユーモラスでさえある、プルシェンコ氏の悠々たる演技のなかに、バレエの、あれは、ニジンスキーだね、『牧神の午後』を彷彿させるポーズが挿入されてた。
Blanche(1861-1942)Vaslav Nijinsky in Danse Orientale(1910)
(付け足し)
ぬいぐるみのことなんだけど。
きょう知ったには、かつて、ザギトワ選手が、坂本選手の『スヌーピー』を欲しがって欲しがって、根負けして譲ったことが あったって話だったが、ある意味、象徴的な話かも(笑)
で、体操のコマネチ元選手も、プライベートの姿を紹介したドキュメンタリー番組で、ヌイグルミた~くさん持ってたのを憶えてる。やっぱりファンからのプレゼントが殆どだったかもしれないけど。
羽生クンも、「プー」のヌイグルミ好きなのは有名だね。
男のくせに、みたいなコメント見かけたことあるけど、あんがい、若いうちは、男性でも、ぬいぐるみ好きが多いのかな?と思ったのは、うちの兄が大学生の頃、私のヌイグルミが、幾つも行方不明になったことが あってさ。
後日、真相が判明したんだが、全部、兄の下宿先の部屋へ、拉致されてた。。。
なかの一つは、なぜか、「火の神さま」とて崇拝の対象に選び出され、
おりおり、ひれ伏して拝んでいたようだ。
兄とは言え、理解できん(困惑)
ザギトワ選手は、12歳で、親元から出て、訓練の日々に入ったそうだけど、子どものうちから、ああいう過酷な世界に入れられるわけなんだから、それで、柔らかい感触のヌイグルミや何かに、癒されるみたいなことでもあるのかもな。ましてや、女の子なんだし。
まだ未読でも、この物語の結末を知ってしまっても いいと思われるかたは、どうぞ。
http://www.hagiomoto.net/works/122.html
『青い鳥』。
いやあ、久しぶりに思い出したわ。
萩尾望都さんも、大島弓子さん同様、小学校時分から始まって、若い頃の私が夢中になった漫画家さんたちの一人なんだけど、上記の作品も、バレエ ファンであるという萩尾さんのバレエ シリーズのなかの一つだったと記憶していた。
これも萩尾作品らしく、鬼気迫るほどのリアル感ながら、
美しく、ほんとに せつない、せつない物語でしたよ。
2018.02.19 (Mon)
受け流すのか どうするか、瞬時に判断しなきゃならないよね。
とにもかくにも、いったんは「受け止め」てからでないと、なんぼ素早くと言えど、判断の段階に移ることは不可能。
でも、そそくさと「受け流す」ことに決めたなら、その理由は、さて、何だろうか。
ましてや、最初から、まともに受け止めることを一切せずに、即、流すと決めてあるなら、それは、どういうことなのか。
軽侮。
恐れ。
この二つは、背中合わせのセットに なりがち。
もっとも、
守らなくてはならない自分の分際、その不利さ、劣等感、等々というものを、どこかしらで自覚しているということは言えるのかもしれない。そこが、無防備な あかんぼうとは違い、それだけの知性が大いに育っているから、冷静に、周到に、計算する。
「攻撃は最大の防御」なんていうコトバも あるわね。
冷静なる計算も、そのための武器を的確に使えるようにするためなんだから、おさおさ怠らない。
ここで、けっして、選手の誰を言うのじゃないが、
「表に出さない」タイプというのは、これは、一つの理由でとは限らない。が、
やたらに負けん気の強いタイプというのは、往々にして、自分を守ろうとする あまりであることの証左じゃないだろうか。
これも むやみやたらと「自分を試したがる」ようなことも、根底には不安が あるからこそ、それを払拭し、揺るぎない自信を得たい、という内心の目的は あるだろう。
ただ、オリンピック選手ともなると、なにも、もともと弱いからというのじゃなく、
目標を、より高度なレベルに設定したとたん、
たちまちにして困難な戦いのなかへ置かれ、今にも ひきずり降ろされてしまいそうな自分、
という「弱い」立場になるのだから、とにかく高いとこ高いとこへと目指して登りたくも なろう。
あとから登ってくる者たちを見おろせたら、上から攻撃しやすいし。
一番テッペンに登ったら、ゆっくりと、あたりを見渡してみたい。
それが最も安全、安心。
今度は、いつまで、頂上の座を、自分が占め続けることが できるか。
この頂上に居るのは、自分ひとりだけ。
間もなくして降りていかなければ ならない日は来るとしても、
一度は頂上を極め、そこからの眺めを知ったのだという満足と安らかな気持ちで、誇りを抱きつつ降りて行けるだろう、きっと。。。
それが、本当に目指している「最高のメダル」。
いまは まだ、その途上。
喜び浮かれるのは、もうちょっと先。
「楽園まで あと もうちょっと」
(んっ?どこかで聞いたような?w。。。BL。。。辿り着くのは、やっぱり、そこでした)
2018.02.09 (Fri)
すごいな、全世界に報道された、純愛男ナイジェルの恋。
これは もう、映画になるんちゃうか。
『鳥の形をしたコンクリに愛を捧げて死んだ鳥』
ギズモード・ジャパン 2/8(木) 12:32配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180208-00010005-giz-sci
~
涙なしには語れない悲恋羽。~
べんべん。
摂津大掾に語らせようぞ。
なんだか、アンデルセンの童話とか、ギリシャ神話に出てくる話みたい。。。
もっとも、あのギリシャ神話は、自分で拵えた塑像が、ある日、メキメキ本物の女性になって、ハッピーエンドだったけどね。
「コンクリートから人へ」ならぬ、コンクリートから鳥へ、かぃ。
しかし、鳥も やっぱり、「形から入る」のか。
よっぽど好きやったんやねえ、
そのゴチゴチの、およそ弾力性の一切ない、冷たいコンクリ女を。(エッ!?あたしのことかぃ?w)
けど、
いくらなんでも、これはカタい!カタ(硬・堅・固)過ぎや!!
とは思わなかったんかね。。。
はたして、ナイジェルは、分かってたのか、分かってなかったのか。
それが問題だ。
鳥でも、自分の願望に つごうよく見做したりするのだろうか。
「くく~っ。どうやったら、この無関心で無表情のまま、微動だにしない、つれない可愛コちゃんを、その気にさせることが できるんやぁ?しかし、待てよ、まじで厭ならば、さっさと飛び去ってしまうはずだが、逃げもせずに、こうして毎日、ここで待ってくれてるし。。。自分は、試されているのかも しれん。ここはオトコの意地にかけても、チャレンジ!チャレンジ!!ボクは負けましぇ~~~ん!!!」
と、日々、新たな闘志を掻き立てていたのだろうか。
いま、『ナイジェル』に、ヒトのコトバが話せたら、はたして、何と語っただろうか。
案外、
「いやいや、わしとしては、いい夢見させてもろうて、けっこう幸せだったわ」
と言ってくれるだろうか?
それとも、
「時間と労力のムダさせられたやんけ!!」
と怒るだろうか。
あっ、そう言えば、
いわゆる「ダメ男に貢ぐ女の心理」ってやつだったかな、
それは要するに、労力を費やし、時間を費やしたからこそ、それが長い期間にわたるほど反比例して、全然報われてない現実とは逆の方向に逃避する考えかたに陥ってしまうのだとか何とか、そういう、専門家筋による説を、どこかの記事で読んだことが あるぞ。
あとから渡って来た本物のカツオドリたちからは、
「あいつ、へんなやつ~」
近づかんとこ、と思われてたんだろうか。
まあ、冷静な観点では、動物たちにとっては、まずは天敵や外敵の脅威が なくて、食べ物さえ確保できれば、ひとりで平気だそうな。
ナイジェルも、もと居た仲間たちとの生活は、あまり居心地よくなかったのかなあ?
そう言われてみれば、人間だって、特に、「ヒキコモリ」と呼ばれる人たちにもズバリ当てはまってるのだろう。
ただし、その状態が最後まで保証されていれば、の条件は付くだろうけど。
その保証が おいそれと望めないことは、人間の知能では察せるから、常に不安が付き纏う、したがって、傍から見てる分には「安楽なこって」と、つい、ねたみたくもなろうが、当人の内心は悶々してたりするわけだ。
いずれにしても、
「騙されたほうが悪い!やーい、やーい」
という、人間界お馴染みの、意地の悪い ひらきなおりと軽侮のパターンは、さすがの「ヤフゴ民」にも、ほとんど見受けられないようだw
「地球と自然界にとって、『悪性新生物』」たる人間てのは、仮に良かれと思っての行為であっても、かえって、他者の足を引っ張る結果になりがちだからなあ、
私も、そのハシクレでは あるものの、ほんとに、救いようのない、この世で最も愚かな生物でしょうよと思う。知性(あるいはエゴ)が突出しているだけにね、皮肉なことだ。
旧約聖書『創世記』に説くところのアダムとイヴ、
私は かねがね、そんなアホなと、せせら嗤ってきた『楽園追放』の理由も、分からんでは ないような気もしてくるわ。
2017.11.20 (Mon)
ふと、思い出したよ。
私が若い頃に少々御縁が あった詩人の小野十三郎氏の作品を。
さて、
宗教一般あるいは、いまどき流行りなんだろうか、「スピリチュアル」とかいうものにハマってる人には、
「目に見えないもの」
をこそ重視するべきという考えであるらしく、「目に見えないもの」をこそ むやみと有難がってるとか崇拝してるふうな人が圧倒的に多いように、はたから見ていて感じるんだけど、
こういう人たちには、しごく残念だろうけれど、、、
あの世も この世も ないのでな。
どーこまで行っても、「物質」世界なのよ、
この、われわれが居る世界というものはね。
「目に見えない」と思えているようでも、そこも含めての、「物質」世界なのだ。
ちょい考えてごらん。
「目に見えない」でいる物質なんてものは、そこらじゅう、日常的に存在してるでしょ。自分自身の肉体ですら。
むしろ、
どこかにある「目に見えない世界」というものを有難がる人ほど、
現実に「自分自身の目に見えてるもの」しか豪も見えてないんじゃないの?と常々思えますわ。
『11光年先、地球に似た惑星=太陽系に接近中―生命存在か・国際チーム』11/15(水) 20:11配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171115-00000128-jij-sctch
『うつ病、PTSD…「不眠」を引き起こす怖い病気』11/18(土) 20:45配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171118-00007018-nallabout-hlth
死のうが何だろうが、
どこまでいっても、われわれは、
「この世の(なかから出られない)者」
なのだ。
様々な喜怒哀楽も、肉あるがゆえ。
「生まれぬが幸せ」
と喝破した、いにしえの人のコトバを噛みしめよ。
そ、
生まれてしまったら負け!www
それでも残る、最終の疑問。
そこは、言うまでもなくハッキリしてるよね。
生まれてしまった以上は、そこを追究したいのが、人間たるもの。
ああ、わたしゃ、せめて天文学者になりたかった。。。
2017.08.20 (Sun)
拙宅にも、かなり古いLPレコード等が、そこそこの枚数、残っている。
そのうち、自分で買ったものは、当時まだ学校時分だったので、乏しい お小遣いを貯めてから、といった苦労もあったし、当時の私にとっては、なかなか高価な買い物では あったから、よっぽど好きなバンドのものとか、自分でもリスペクトを感じる世界的定評を得ている大御所アーティストのものとか、必然的に選りすぐられた対象に限られているゆえ、これらの枚数は多くはない。
むしろ、若い頃の叔母が買い集めていた、クラシックから映画音楽、その他あらゆる音楽ジャンルのレコードで、私が子どもの頃、うちには、まだ、ステレオもなかったのに、貰い受けてあったものののほうが、ダントツで多い。
この私に言わせてさえ、叔母は、ほんとうに、学問や教養といった方面に甚だ疎い人で、一族郎党から、おばかちゃん扱いされていて、いまどきの時代なら、まさに「ドキュン」呼ばわりされてたかも、、、と思えるタイプだった。(しかし、そんな叔母に、「おばかちゃん」扱いされてた私。。。w)
ただ、持って生まれた容姿と、ほぼ生来的な美的センスだけが、唯一の救いみたいな人だったけれど、
そんな彼女から貰い受けていたレコード群は、なぜか、
(私自身も、こんにちでは、多少の知識等を得ているので、客観的に判断できるのだが)
専門筋の人がチェックしたとしても、ある程度以上の評価を得られるで あろうほどに、その選択眼は悪くないものだったと思われる。
子ども心に、それらのレコードを聴いてみたい好奇心もあって、
買ってもらったのか、誰かに貰い受けたかの記憶は曖昧だが、いま思い出すと、子どもの玩具に毛が生えたなみのチャチなポータブル プレイヤーを入手後、叔母から譲られていたレコードを一枚ずつ試し聴きしていくうちに出会ったのが、あの『アニマルズ』だったこと、
これも過去エントリーで取り上げた話題だけど、
たちまちにして、ボーカルのエリック・・ヴィクター・バードンにベタ惚れ、
おとなになったら、彼のとこへ お嫁に行くと決意するほど夢中になり、
これが、その後も ずっと、私自身の音楽的指向性(R&B)の基礎の一つを かたちづくることになったこととか、縷々述べておいた。
さて、アナログ レコードというと
やっぱり、あの埃取りで苦労したことが真っ先に思い出されるのは、他の人たちにとっても同様らしい。
『<レコード>「生産枚数8倍」ブームを支える若者たち』
8/19(土) 9:30配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170819-00000015-mai-bus_all
多数のレコードと一緒に、手入れ用スプレイやビロード等も貰ってあったので、その使いかたを口うるさくアドバイスしてきたのは、当時、大学生だった兄である。
これは旧のブログで、思い出して述べたことが あったと思うが、
大学近辺の下宿先から帰って来ると、真っ先に、この兄が やること。
かつては兄らが使っていた部屋を、その頃は、私の自室にしてあったのだが、そこへ遠慮会釈なくズカズカと入り込み、レコード収納キャビネットのもとへ直行し、当然と言わんばかり、おごそかに扉を開き、
そうして、私が、小遣いで購入したレコードを一枚一枚、手に取って丹念に吟味、調べ上げてから、論評ならびに説教を開始するのだ。
おのれが気に入っているアーティストのものなら、大いに褒めてくれるのだが、そうでない場合は、徹底的に厳しくコキおろす。
ほんとに、煩かった。
でも、レコードの扱いかたについても、こと細かく教えてくれていて、私は忠実に守っていた。そんな中学生の頃。
ある日の音楽の授業中、音楽教室に据えられてある大型ステレオで、ガーシュイン作品か何かのレコードを聴かされた。
音楽担当の先生の、レコードの扱いかたを、それとなく観察していた私は、そのときも下宿から帰宅していた兄に、さっそく報告した。
「おにいちゃんさぁ、レコード取り出すときは、ぜったいに、溝のある面に触っちゃいかんとか言ってたやん。せやけど、きょう、音楽の授業のときに、レコード聴かされてんけど、先生、思いっきり、溝のあるとこベッタリ触って持ってたでぇ」
と伝えると、
兄は言下に断定した。
「そりゃあ、しょせん自分のレコードちゃうからや!」
身も蓋も ない。
…
のちに、教師となった この兄は、私の無二の宝物だったアニマルズの、すでに貴重盤になっていたレコードを貸すのを嫌がって渋るのも構わず、無理やりに、自分の下宿へと持っていき(ちなみに、ヌイグルミなんかは、黙って勝手に持って行ってた)、
やっとこさ返してくれたかと思ったら、
なんと、大きなヒビを入れてやがった。
いまでも、思い出すだに、腹が立つ