2025.03.28 (Fri)
まずは、日本の映画から。
谷崎潤一郎の『細雪』という小説を映画化した作品は、これまでに幾つか あるようなのだが、今回、私が鑑賞したのは、ヒロイン『雪子』を、若き日の山本富士子さんが演じていたもの。
私自身、谷崎の小説も好きなほうでは あったが、小説の方面に関しては、どちらかと言えば、もちろん翻訳だけれども、主として欧米の作家の作品を読むことが、意図せず多かったので、とりわけの好みと言うほどでない場合には、日本の作家のものは、多少、谷崎の作品も含めて、疎いままで きている。芥川とか太宰などは、小学生時分から読み耽った時期が あったし、いまでも引き込まれるほど好きな作家たちでは あるが。
ただし、江戸川乱歩は、だんぜん別格w
先日の過去エントリーでも ちょっとだけ触れたように、
母親なんかは、泉 鏡花が好みだと言っていたのが意外に思えたこととか、まだ元気だった頃、娘の私自身も、ごく若かった時分に、『細雪』が、新しく映画化されたというので、父方の実祖父は、伝え聞くところに よれば、運輸官僚の職を辞したあと、まだ若いうちに海運関係の企業を興して経営していて、それこそ『船場』界隈に豪壮な屋敷を構えて、いたり、
うちの母親のほうも『大阪』の生まれ育ちで、「いとさん、こいさん」の世界には親近感が あるせいか、いろいろな和服が登場するのも楽しみに、『細雪』を観に行きたいということを言っていたのが思い出され、そこで、毎度の『ユーチューブ』(苦笑)。
オススメ一覧に出てきたもんだから、ちょうど、またぞろの体調の悪さを、ひたすら、許容範囲のヒマと睡眠で癒やしつつ、他は、できるだけ、室内にての気分転換でもって紛らわせたいとの思いから、ほんの、気まぐれで、これ観てみようかと。部分的ではなく、全体を通しで観られるということなので、さっそくクリックして見始めた。
最初の場面から、『夙川』駅だっけか、あの周辺の、当時の ようすが鮮やかに映し出されて、まだ私は生まれてもいない時代の違いを大いに感じながら、いやぁ、こんなに風光明媚な所だったんだな、とか、幼い子どもが遊んでいる すぐ横の深い崖下には大きな川が流れているのだが、ガードレールらしきものは一切、見当たらないようなので、その大らかさというか、無防備さに驚いたりも しつつ、
なんと言っても、四姉妹を演じた女優陣の、いま見れば、多少は古風ながら、美人なること揃って気品にも満ち、出演の俳優さんたち全員、力づよい演技も印象的で、
「いまどき、こんな女優さん男優さんたち、おらんわなあ」
と、ひとしきり、感動。二回くりかえして鑑賞させてもらいました。
ごく たまにしか観ることが なかった日本映画の良さを楽しんだ余韻で、またオススメ一覧から、今度は、『愛すればこそ』という題名の、実際には、三つの作品から構成された、オムニバス形式の映画を選んでみた。それぞれの作品名もストーリーも、担当した監督も配役も異なっており、いずれも、私らの世代では疎い監督さんの お名前ばかり並んでいたが、タイトル ロールを ぼんやり眺めていたら、新藤兼人氏の お名前は知っていたので、ここでは脚本担当として表示されていたのを見て、あら、すごく若かった頃のかな?と思っていたら、予想どおりに?若き音羽信子さんが登場していて、ああ、やっぱり?みたいにも思った(苦笑??)もっとも、音羽信子さんにしても、私の記憶では、すでに中年以降のベテラン演技派としての姿だったのだが、若い頃の爽やかな可愛さ、それだけに とどまらず、なんとなくサッパリした、どこか『大阪』育ちらしさも滲み出てるような、気取りのない、独特のメリハリが感じられる演技が、すでに表れていた。
「わ~可愛い!きれい~、さすが、『宝塚』の娘役を されてたというだけ あるなあ」と、うっとり。
同時に、
この作品の時代背景としては、いまだ混乱が残る貧しさ、そんななかに あっても、矜持や品位を失うまいとする「花売り」少女の健気な ようすにも感心したけれど、やはり、非常に厳しいには違いないが、大らかな側面も あったのかなと思えた。だって、現代では、小学生くらいの子どもに、夜も更けるまで、繁華街の酒場あたりで、酔客相手に、ものを売って歩かせるなど、いかなる事情が あっても、あらゆる面で許されないわけだが、それよりも、どだい、そんなことを していたものなら、ほどなくして、邪悪な男に連れ去られたりする危険が大きい現代、どんな怖ろしく酷い目に遭うことやら、むしろ、いまの時代のほうが、ある意味、もっと危ない情況となっているのかもしれない。
私の子ども時分を思い起こしても、結局のところ、子どもを餌食に利用しようとする男を中心に、油断の ならない、邪まな おとなたちの存在が あることは変わらないにせよ、子どもは子どもである、という基本的な視線は、おとなと子ども双方ともに、どこか揺らいでいる危うさも漂っているように感じられなくは ない昨今。
さて、そこはかとなくオモシロかったのは、三話のうちの真ん中に出てくる『飛び込んだ花嫁』。
観終わったあとも、
「結局は、お芋で意気投合するなんてね」
と、クスッと笑えたほどユーモラスで、こういうのも良いなあと思えた。
でも、やっぱり、厳しい時代背景もシッカリ伝わってきた。
写真だけで、「嫁を送る」なんて、「人権蹂躙」というセリフも あったけど、
さすがに戦後は、「人権」という概念も、普及していたんだなと思いつつ、よく考えたら、うちの母親ってさ、最初の結婚は、継母からの圧が激しくて、まだ十代のうちに、写真どころか、顔も全く知らない人と結婚させられたという話だった。
で、
その後、うちの親父と出会って、と言うか、親父の執拗な誘惑に根負け、みたいに言ってたけどw最後は「ダブル不倫」の「デキちゃった」再婚だわな。私が生まれ落ちた原因なんだけど、いまでも信じ難いわよ。せいぜい『明治』や『大正』時代までやろ?それも、ど田舎のwって思いたいけど、『昭和』も戦後に なってたのに、顔も知らない相手と結婚させられ、っつうのがねえ。
うちの母親も、不必要に勝気なくせして、ほんとうに肝心なところで、なんでやねん?!って言いたくなるような、不可解な行動に走るタイプだったけど、脳が異常だったせいなのか、冷酷な継母と、あっさり宗旨替えして手の平を返す実父を めぐる、複雑な心理やら、世代が違うほど年齢差のある親父と ひっついたこととか、まあ、いろいろ奇怪な話が多々あるわけだけども、私が、これは間違いないと断定できるのは、愛憎こもごもの、「ファザコン」だったんだな、ってこと。
その愛憎こもごもは、最終的に、自分の娘に対して集中的に向けられた。
母親にも親父にも言えることは、自分たち それぞれの鬱憤と暴力を、筋違いにも、家族のなかで最も抵抗力のない、幼い娘に向かって吐き続けたってこと。そして、依存し続けた。
…
『飛び込んだ花嫁』でも同様に、出演している俳優さんたちの、ずっと後年になってからの姿しか知らなかったので、まだ すごく若かっただろうにと、しっかりした演技力に感心。
どうも、この時代の俳優さんたちって、総じて、どこか清新な、どんなに若々しくっても、生真面目な雰囲気を醸し出していて、おそらくは、仕事と関係ない私生活からしてが、こういう雰囲気なんだろうかと思わせられてしまう。
いまでは、やっぱり、どこ探しても おらんような気が する。
最後に、
『愛すればこそ』という、ラストの作品は、あるコメントによれば、いわゆる「左翼」系の思想を持つ監督さんだったらしいのだが、たしかにモロ出しだなあとは思った(苦笑)そういう、良い時代だったのかw
また、登場人物の全員が、それぞれの立場なりに、生真面目というのか、とても情熱的でもあり、とにかく、私なんかの世代からしても、どうしても、時代の差異を感じないでは いられなかった。それこそ、
「こんな日本が あったんだ!こんな日本人たちが いたんだ!」
「どこ行っちゃったのかしら」
と、思えるほどに。
で、
「いまどき、こんな女優や男優、いや、実際、私らの世代も含めて、女性だろうが男性だろうが、太鼓たたいて探したって、見つかりゃせんやろな」
と、老若男女の別なく、またまた感心させられたが、
極めつけは、かの山田五十鈴さんだ。
ここでも同じく、
「いまどき、こんな母親、おらへんわな」
と、
うちの母親の姿を思い浮かべると、なお いっそう、それは、「幻想の母親像」という感を もよおさせるのだが、
にも かかわらず、
しかし、なんだか、たまらなく懐かしいのである。
たまらなく、いぢらしいのである。
現実には見たこともない、ましてや、自分の母親とは、似ても似つかないのに。。。www
「こんな母親、、、おるかあ?」
と、思いつつも、ついつい、おかあさんっ、かわいそね、、、と、ホロリと くるのである。
さすがの大女優で あった。
一言で締めましょう。
山田五十鈴さん演じる母親像は、とことんまで美しかった。
でもさ、
幸田 文さん原作の『流れる』という映画だけは、若い頃に、テレビで放映されていたのを、なんとなくで観た記憶も残ってるけど、やっぱり、まったく違うイメージだわ。女優なんだから、それでアタリマエだろうけど、むしろ、田中絹代さんの名演技のほうが、もっとクッキリと記憶に残っている。
山田五十鈴さんも、私の記憶のなかでは、とっくに老年、往年の、という存在だったし、インタビュー番組で見かける姿も、私生活の面でも、あの母親像とは、イメージが全然、異なるのよね。
なので、よけい驚いた。
しかも、当時の彼女は、現代なら、まだまだ若いと言っていい年齢だったのでは ないだろうか。
長女が20歳代後半、息子が大学生という設定なのだから、やっと50歳代に なるか まだ なってないか?って あたりか。
それと、付け加えたいのは、彼女の和服姿。これも、いまどき、どこを探したって見ること かなわないであろうような、独特の美が あった。
たとえば、ちょっと古い切手なんかに、黒い羽織姿の、ほっそりした、昔の女性が、スッと佇んでいる光景を描いた、有名な日本画を題材にしたものとか あるでしょう。あんな感じよ。
いまどきの成人式なんかの、あの、取って付けたような、仮装大会、仮装行列の如きゴテゴテごっちゃり和服姿の、ズケッと言っちゃって悪いかしらんけど、品のなさよ。。。
どんなに、日本の伝統美を受け継ぎ!と、力んで言ってたって、たぶん、現代の和服そのものの仕上がり具合から着こなしぶりに至るまで、全てが変わってしまっているように思える。
あと、男優さんでは、私個人的に、このかたも、すでに中高年以降の姿でしか なかったし、どちらかと言えば、腹黒い政治家とかwテレビ ドラマの悪役のほうのイメージだったのだけど、山村 聡さん。
くだんの映画を見て、ビックリしました。
すごい端正で、ダンディで、見るからに、アタマ良さそ~って、見惚れたわ(笑)
こちらも、いまどき、こんな男の人、おらんやろなあ、、という感じでした。
結局、3回くりかえして観たw
最後に、もう一つ、
これは『アメリカ』の映画だったのかな、監督は、かのフリッツ・ラングなので、ちょっと面白そうじゃんと思って見始めたけど、やっぱり、面白かったよ。コメント投稿のなかには、たしか『レベッカ』とかいう、ヒッチコック監督の、だっけ?それを連想したという感想を見かけて、むかし、私も、茶の間のテレビで、親らと一緒に観たことは憶えているので、ああ、なるほどねと思ったけど、今回の映画、特にオモシロいなと思ったのは、「部屋の収集」という設定。
ふつう、「収集」する対象に、部屋、というのは、聞いたことが なかったので、これは珍しい視点だなあと。
で、
必要に応じて、正確な復元を施した、「収集された部屋」には、それぞれに、収集理由が あったのよね。禍々しい、陰惨な理由が。
そこには、「マザコン」とか、女性蔑視つまりは女性恐怖といった、心理的な要因が絡んでいたと、そういった、科学的風味付けと相俟って、勇気と愛あるヒロインが追い詰められていく場面にも手に汗握る、なかなか興味深い仕上がり、さすがのフリッツ・ラング監督でした。
これ以上、述べてしまったら、これから初めて観ようとしている人の楽しみを大きく損ねてしまうので、ここまで。
ごく搔い摘んだ、ごく雑な感想でした。