2025.03.03 (Mon)
最近フきだした名セリフ。
(「なぜ、スーツを着てこないのか」という、それこそ無礼な記者の質問に対し)
「この戦争が終わったら着ます。おそらく、あなたのスーツと同じか、もっと良いものを」
ムッとせずに、すかさず切り返し、上手いですね~
これくらいの皮肉やイヤミだったら許せるわね、けっして下品に陥ってないから。
私なんか、
「おたく、なんで いきなり そんなこと言うの?!」
と、単純にプンスカしちゃうかもだから(苦笑)
もう一つは、
ヴァンス副大統領が、『バーモント州』で、家族との休暇を取っていた際、『ロシア』とゼレンスキー大統領に対するトランプ政権の態度に怒り心頭の国民たちがデモを行い、そのおりに掲げられていたプラカードの文句。
「スキーはロシアで しろ!!」
ぎゃはははは。
上手い上手いw
さて、
最近、特に疑いを抱きつつあるのは、
「児ジイちゃま」トランプって、もしかすると、あたま悪いんでねえか?ってこと。
どうも、あの顔つきからしてが、バ、いや、皆まで言うまいw
ゼレンスキー大統領は、終始、機転かつ真摯な論理性を失うことなく応答していたと見たが、
ヴァンスのバンバン太鼓も、少なからず、ボスに対する助太刀的な役割を果たさんものと仕向けたのだろうし、ま、いいようにズラシてたわよね。
そのうえ、肝心のトランプのフッカケときたら、、、
まさに、ガキのようだった。
要は、プーチンが、今後、二度と再び、『ウクライナ』を攻撃してくることの ないように、確約が必要だが、しかし、、、ってことでしょうが。
国際法を遵守しない国家の存在なんて、世界各国にとっても、困る存在のはず。
先日も言ったように、プーチン側だって、おとなしくしていれば、『NATO』が攻め込むなんてことは ないはず。
ところで、
城山三郎氏の これらの著作は、私は読んだことが ないままなので、ここでは無関係なのだが、
最近、よく思い浮かぶコトバを もう一つ。
「租にして野だが卑では ない」。
トランプたちの場合は、まさに、租にして野にして、卑でもある。
それにしたって、
どう見ても、
トランプの繰り出してくる ほぼ ことごとくが、あきらかに、
プーチンを喜ばせるであろうこと、または、プーチンにとっては都合の良いことばかり やってるもんな。
たしかに、トランプのような「マッチョイズム」「ブロマンス」大好きなタイプにとって、プーチンのようなタイプは最上の お手本であり、リスペクトの対象であるには違いないのだろう。
ぶっちゃけ、ほとんどの男性には、少なくとも潜在的には、こういう好みの向きが多いと見受けているのだが、
女性は、意外と、あまり好きでないというか、私なんか、大きらいなタイプだけどね。かといって、なよなよ軟弱な感じの男性が好みなわけでも ないけどさw
まあ、いちばん手っ取り早く、膠着打破できるには、
先日のエントリーでも指摘したように、
かつて、プーチンとトランプの あいだに、何が あったのか。
それをスッパ抜くとか暴露することが できたなら、イッキに事態は急展開できるのだろうけどねえ。
『フランス』の極右党首と同じく、プーチンに、お金を借りてるんじゃないの?とか、それとも、よほどのマズイことを掴まれちゃってるとかさ。
なんせ、相手は、もと『カーゲーベー』だもんね。お茶の子さいさいでしょ。
「決裂に終わった」というトランプ・ゼレンスキー会談だったが、
やること なすこと断絶を招来するトランプ側が言い放った、
「感謝せよ」
という要求。
これも、「自己愛性人格障害」の特徴だわな。
ここで また、思い出したセリフ。
「あんたのためというコトバは、いつ如何なるときも、醜い」。
うちの母親がね、とりわけ私に対しては、異常なくらいに過干渉で、感謝を強要するような圧を込めたセリフを しょっちゅう吐く人だったんだけども、
「だいたい、おまえは、感謝が足りない」
とか。
そのくせ、自分から感謝することは稀。
「それくらい やって(くれて)も、バチは当たらん!」
とか。
でもね、
実際のところ、感謝に足るどころか、むしろ、損害や危険を味わうハメになりかねないようなことを、
「この道しか、ない!!」
これしか認めないぞ!!
と、強圧的に押し付けられても、こっちだって、ヘタすりゃ人生の死活問題だからね、どだい、感謝できるようなシロモノじゃないんだから、無理!というものだよ。
それと、
私の障碍の問題でも そう。
原因は、当の母親たる自分自身の軽率が招いたことなのに、
「親に迷惑かけて!謝れ!!感謝しなさい!!」
と、平気で言い放つんだよ。
近ごろ、「作話」が多いタチの人について、ちょっと考察してみたのだが、
だいぶ前の過去エントリーでも、
知的障碍を抱えている子どもさんが、やたらと噓を つく癖が あって、とても困っていたという話を聞いたことが あったのを述べたことが あるけど、
いっぽう、これは、うちの母親の場合。
やっぱり、嘘が多かった。
そのくせ、本人は、うちの親父、つまり、おのれの亭主が、ものすごい嘘つきだということを年がら年じゅう怒っていて、まさに「ゴミ箱」扱いの私に向かって、しょっちゅう、そのことを、憤懣を込めて訴えていたものだけれど、
やはり、亡くなってからだなあ、
鈍いこと甚だしい、ポケーっとした性分の私が、やっとかめで、少しずつ、「あれ?おかしいな」と、気づき始めたのは。
特に驚いたのは、昔の、とある有名な小説家の作品の あらすじを知った時に、
「あれれ?これって、うちの母親が、若いころに体験したという話の流れ そのままじゃん」
と、奇怪の感を覚えたこと。
そういえば、その小説家の作品が特に好きだと言っていたことも あったのだった。
私は、当該の小説を未読の頃に聞かされた話だったので、ちっとも気づかずのままでいた。
他にも、母親が、365日、私に向かって説いていた、いろんな話というか、ほとんどは愚痴や怒りの八つ当たりなんだけども、
かなりの多くが、むしろ、事実とは全く逆の「ストーリー」だったのだ。
なにしろ、自分が生まれる前の事情や幼い頃の出来事を知らない子どもが、親を疑ってかかるのは、難しいものだからね。
要するに、虚偽であり、つくり話だった。
それ以外は、どこかから仕入れてきたストーリー。
で、その自覚を、当の母親自身が持っていたのか否かも、いまとなってはサッパリ不明なわけよ。
娘の私にとっては、けっこうキモチワルいものが ありますわ。
【続く】