2014.03.08 (Sat)
まず、ご本人の聴覚にまつわる現象についての説明内容には、この私自身も身につまされると言っていいほど理解でき得る部分と、それでも、なお大変怪訝に思う部分が残されたこと。
そして、
このひとの受けた最初の診断において、ほぼ全聾ということだったにもかかわらず、こんにちでは明らかに、あくまでも障害手帳の等級には当てはまるレベルにないまでに回復した、ということの甚だしいギャップへの不審は残った。
だが、まあ、同じ「難聴」「聴覚障碍」と言えど、これほど、個々人によって、実際の症状の出かたが微妙複雑にわたるものも珍しいということは言えよう。
そして また、
なにしろ、これほどまで、生活全体に密着して絶えざるコミュニケーションの問題が つきまとってくることになる、
それは、おのずと、人間心理の問題にもつきまとわれることであり、同じ名称の障碍者どうしであってすら、常に誤解と偏見に晒されつつ、家族でさえも癒しきれぬどころか率先して誤解してくる、という孤独を内に秘め抱えながら、耐えて生きていかなければならない、世に筆頭レベルの障碍だろうとも思う。
『不寛容社会と、あの手この手で詐欺手口、のコンビ』
『「芸術」ビジネス――精神論好き日本の偽装「道」』
ともあれ、このエントリーでは、下記の記事を読んだうえで、あらためて「佐村河内事件」における作品についての問題点、つまり、「芸術」とは何か、という根本問題に立ち返らざるを得ない点について、再び三たび、述べておく。
このことは、私の新旧どちらのブログでも一貫して提起してきた、あの「カルト連」に象徴されうる、インターネットの基本的問題に関わってくることでもあるので。
『実話のように語られた「創作の物語」 真実と思った読者は「慰謝料」をもらえる?』
http://www.bengo4.com/topics/875/
この記事中で、弁護士さんの敢えて おっしゃる「勝手に感動した」というコトバ。
こちらのブログ主さんは、「誘導」という単語を用いて、異議を申し述べておいでだ。
http://stcreativedock.seesaa.net/article/377987193.html
この御主旨と、お気持ちは、私も大いに共感するところ(笑)
もっとも、法の実践世界においては、どうしても必要最低限の範囲に留まり、ドライに傾きがちなのは仕方ないことではあるだろう。
ところで、
「虚構でもって真実を描く」
というコトバがあることも、すでに述べたことがあった。
また、よく聞かれる、
「犬が人を噛んでも、ニュースにならないが、逆はニュースになる」
という喩え話。
荒唐無稽な、ただの絵空事も、それを現実、本当に事実だと信じる者にとっては、まさに「ミラクル」。
この「ミラクル」を、麻薬に溺れるかのごとく、貪らずにおれないひとも、けっこう多いように見受ける。
キューバの、往年の名プリマが、
「芸術とは、心を豊かにするもの」
と言っていたと記憶するが、
芸術に限らずであろうけれど、人類と、その精神進歩に豊かに寄与する、優れたるものは、すなわちフェア、正々堂々たるものであるはずだろう。
裏切りによる心の深い傷と、時間の損害は、いかに金銭を積んでも償えないのだ。
これの どこが、「芸術」を標榜できる価値を損なわず備えているというのか。
愚かなことだ。
さて、「佐村河内事件」。
一般人のみならず、むしろ専門筋においてさえも賛否両論と言っていい状態のようで、
作者が健聴者であったなら、逆に、そうでなかったのなら、くだんの楽曲自体としての価値は、どうなったか。
実際問題として、あるレベル以上に達し得ていないものだったら、いかに全聾者が作曲した珍しいものとは言え、さすがに、ここまでの評判を得るわけには いかなかっただろう。
しかしながら、「交響曲ヒロシマ」などは、識者によれば、マーラーなど、すでに評価が確立している巨匠クラスの作品から、あちこち切り取って繋げてあるということらしいのだが、このへんは、クラシックに多く親しんで、相応の知識ある人なら、すぐに気づくはずのことだ。
芸術に強制・強要などナンセンスだということを、先日のエントリーでも一言述べておいたが、
私に言わせれば、要するに、現実のなかから、いかにも中途半端に剽窃してきて利用する、という姑息さ卑怯さを、「芸術」「創作」表現であるぞと宣言されると、大いにアタマにくるってことさ。
(続く)