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とりあえず、ひかりのくに
     
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2014.03.01 (Sat)

まど・みちおさんが、お亡くなりになったという記事を読んで。

 

かの「ぞうさん」に連られて思い出したのが、

以前、なかば押し付けてくるみたいに「貸してやるから読めよ」と勧められた幾冊かの本のなかに混じっていた星 新一さんの作品。

 

私は、子どもの頃に比較的好んでいたSF系小説も、成人後は遠ざかってたし、「ショートショート」の類となると、ふだん、読書の対象に、自分から選ぶことは ほぼ皆無と言っていいほどだったので、その高名は、学生時代から聞こえていたものの、じつに初めてで星 新一作品を読んだのだけれど、
そのなかで特に印象に残り、しかも気に入ったのが、「
友を失った」だった。

新一作品全体に共通するものであろうことが、読んでいて じきに気づく、一種透明感が ひときわ満ち、そこに、温もりある哀しみの余韻。。。

ごく自然な品の良さも、作品中一等ではないだろうか。

この題名を失念していて、とりあえず検索していたら、以下のような箇所に行き当たった。
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E6%96%B0%E4%B8%80

『三田文学』197010月号で、福島正実と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「ネパールに、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と、的外れな応答をした。星はあきれて、「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。

 

新一氏の この御意見には、私の持つ考えとも、どこか(多分、基本的部分で)大きな共通点があるように思えた。

 

 

<訃報>まど・みちおさん104歳=詩人「ぞうさん」
毎日新聞 228()1051分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140228-00000021-mai-soci

 

うちの身内が長年住んでたとこから、わりと近くに お住まいだったのだな。

104歳って、もう そんな御年齢だったとは、かなり意外に思えて、驚いてしまった。なんとなく、若々しい おじさんイメージのままだったのかな。

 

こういうかたの特に、戦時中、兵士として駆り出された話を聞くと、いつも、なんとも言えない気持ちになる。

およそ、最も、兵士には向かない感性の持ち主だったであろうに、と。

 

 

私自身も楽しく歌った記憶のある、まど・みちおさんの作品には、子どもの頃から好きなものが たくさんあるはず。

いまでも、あの幼い日、「ぞうさん」を歌っているときの、自分の おさな心を ありありと思い浮かべることができる。

象の子どもが本当に、このように言っているのだと、無意識のうちに了解し共感して歌っていたものだ。
これは、「七つの子」などを歌うときにも同じくで、「可愛い、可愛いと啼く」という、親のカラスが
また可愛いと思いながら歌っていた。

「ななつ、って、七さいのこと?七ひき(正確には七羽ね)ってこと?」なんて他愛ない疑問も湧いたりしたが(苦笑)、「ウィキペディア」を見てみたら、実際、けっこう難解な謎ということになっているらしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%AD%90

 

 

 幼い子どもが歌うことに秘められた繊細な意味と重み…

 

 
  Victor Gabriel Gilbert(1847-1933)Make Believe

 

 

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