2014.03.08 (Sat)
私が高校時代、学校のレクリーション行事で上映してもらったなかでも、対照的な2種の映画の思い出。
映画史上、不朽の名作の一つに数えらる「禁じられた遊び」、
ならびに、比較的、当時の近年に撮影されたと思しき、とある恋愛映画。
静かなる反戦映画であるのみならず、優れて恋愛映画である「禁じられた遊び」のほうは、すでに中学時代から、私もテレビ放映で何度か観ていたもので、そのたびに、垢抜けした美意識にウットリし、観終わっては、あらたな衝撃を味わい直したものだが、
翻って、
いまでは題名も忘れてしまった後者については、私に言わせれば、「お涙ちょうだい」まる出しの、やすっぽさ鼻につく、まさにメロドラマなのだが、
わが校の女子ども、各作品に対する、それぞれの反応ぶりのアカラサマな違いについて、当時の私ですら極めて愕然とした鮮明な記憶のことを、旧ブログでも述べてある。
もしも、何かの目的があって、ある書籍を、ノンフィクションだからということで購入し、参考にしたところが、実はフィクションだったとしたら。
インターネットでは、この、「書籍の形」にすら、基本なっていないわけだから、もっとタチが悪くなってしまう恐れは高いわけだ。
例の、消滅したカルト サイトの一つ「フィロトピア」メンバーによる「カルト連」なんかは、私に対する逆恨みで、すでに、虚偽によって、時間的損害を与えていたのみならず、
バレても謝罪するどころか、逆に罵倒を寄こし、
これをして「芸術」なのだ「学問」なのだ「おまえを鍛錬させてやった」のだと言うバカげた主張をもって、
以後も、徒党を組み、「OKウェイヴ」「2ちゃん」その他のサイトで、(正確な規模については、さすがに、私には不明だけど)
別アカウントを駆使したナリスマシ等あらゆる小細工を用いて中傷、不当な人格攻撃を実行し続けたわけで、
これでは間違いなく、一種の「ヘイト スピーチ」に類する行為だし、私自身の精神的不快に関しては、大いに実害あったことは事実。
これこそは、あの連中の言うところの「芸術」活動なのであり
(つまり、これが、数年前の「首大事件」との共通性ということを、私は指摘していたわけ)、
かつ、私個人に対する、そもそも何かしらの逆恨みを晴らす目的でもあったのだということは、いまでは、じゅうぶん察しているがね。
だが、それに伴って、
まったく無関係の人の、科学方面の著作や論文を掲げて、それが自分の業績だと名乗ってみせたり、
某大学の仏文助教(専門はボードレールだそうな。個人ブログもあるようだ)の実名を挙げたりもしてきているので、
これらのことが、もしも、「OKウェイヴ・おしえてgoo」最古参会員stomachmanをボスと仰ぐ「カルト連」による詐称だとしたら、間違いなく犯罪的行為である。
それにしても、「OKウェイヴ・おしえてgoo」常連会員であるブラげろんぬ爺さんの古い友人だという、もの書き稼業または文春系小説家の城島●彦氏の疑惑と同様、
実際に、これら人物たちが、あの「カルト連」の仲間うちなのが裏の実態だとしたら、これは これで、別様に、非常なナサケナイ事態ではある。
日本は、精神の内側からダメになってしまうのではという予感ヒシヒシだ。
こうした問題は、インターネット以前の放送時代開始から、すでに起きていたことだと考えられるし、私も、数年前に、ウェルズの「火星人襲来」であるとか、あるいは柳 美里さんの「石に泳ぐ」ナントカなどを取りあげて論じたことがある。このときも、
あの始末の悪いQAサイトにて、「カルト連」または、その便乗組連中につきまとわれたし、ほぼ毎度のことだったけれど、
なぜか「OKウェイヴ・おしえてgoo」運営サイドからも常々、言わば、体のいい言論弾圧をされたようなものだ。
だからこそ、「2ちゃん」と共に「逝ってよし」なサイトのうちに入るというのだ。
ちなみに、
「火星人襲来」については、これが、世間で大パニック騒ぎを巻き起こしたという話は有名だが、のちに起きた関連事件では、実際に死傷者まで出してしまったということだ。
最近の例では、さしづめ、テレビドラマ「明日ママがいない」についても、基本的問題点に共通性は大いにあると思う。
まさしく「芸術への冒涜」と糾弾すべき事態があるとしたら、それこそ、何かの印籠のごとく、われは芸術家なり、と内外に のたまってみせて恥じない似非ゲー術家らこそは、いとも真剣に軽薄に やってのけてしまうということ。
自覚あってか、自覚なしなのか。。。たぶん、自覚なしだと思うけど。
私は、人の世の、こうした現象にも、いわゆる「パーソナリティ ディスオーダー」の或る面が大いに関わっていると睨んできた。
また、
陰に陽に強制・強要といったことは、しかも、それが、本来不必要であるのみならず、邪まな自己中心的動機であるほどに、「人格障害」者の場合には必ず、つきまとってくる特徴であることも。
そうして、必然的に、
次の新たな強制・強要を、より広範に呼び込むということ。
人類全体の普遍的問題。