2019.11.10 (Sun)
『【続】炎上が あらわにしたこと――『首里城』と『あいトリ』』の続き。
津田さんというかたは、インターネット世界について、早くから非常に詳しいそうだが、その危険性に気づくのが、けっこう遅れたようだね。
世間並みよりも10年くらい遅れてる私なんかは、最初の頃こそ、既存では望めなかったような画期的な世界なんだろうなあと、良いほうに受けとめていたが、ほどなくして、これはヤバい、自分の国だけじゃなく、世界じゅうが危険になるかも、と大いに危惧するに至り、
その悪い予感を、可能なかぎりで伝えようと足掻いてみたけれど、
なにしろ、あの当時は、いまよりも もっと、わけが分からず、稚拙でもあった。
希少な理解者と思えた者にすら、
「華麗にスルーが できないのなら、あなたこそ、パソコンを閉じたら いいのでは」
と言われて、
「なんで、私が?」
と、愕然としたもんだ。
最後に付け加えておきます。
どこかの記事で、やっぱり、大学教授という肩書らしき識者が、「既存の価値観などへの意義を問う」それが、現代美術あるいは現代芸術、
というふうな説明を しておられたので、
だったら、
それは「美術」「芸術」と仰々しく名乗らなくても、そこ かしこで「名もなき」一般人が、日常的に行なってますがな、と思った。さしづめ、私みたいにw
当ブログでは、世間の常識、既存の価値観だのに対する疑問表明、とりわけ、政権に対する疑義と批判は しょっちゅう やってるもんねww
でも、
これを、「芸術」だと称したこともないし、自分を「アーティスト」だと思ったことも一切ない。
なので、
どシロウトが自己満足に閉じこもったような、独り善がりなダサさと思われるようでは、つまらんし、わざわざ「美術」だ「芸術」だと称するからには、その表現と技術は、「アーティスト」と名乗るに値するほどに洗練された、力強いもので あってほしい(いわゆる「ヘタウマ」も技術のうちだろうが、くっっっそ真面目にやってて、しかもダッサいのはカンベンだわw)、と思ったしだい。あくまで、私が垣間見た範囲の作品についてですが。
むかし、うちの母親の生前に聞いた話なんだけど、
戦後も、ようやく一段落したかというような時代の ある時期、そこで生活していたアパートの住人の家庭の一つに、幼い男の子の兄弟が いて、上の息子さんが、「山下 清」という あだ名で呼ばれていたそうな。
と言うのも、まさに山下画伯を彷彿させるような、独特の絵の才能が明らかで、「これは、将来、たいした絵描きになるだろうよ」と、近隣の人たちに知られていたというんだけど、
また、多分、軽く知的障碍か、いまで言う「発達障碍」かを抱えていたらしい。
その家庭は、おとうさんが失業中か何かで、たいへん貧しく、くだんの男の子は、タバコが欠かせない好物である父親のために、いつ見かけても、近所じゅうで、タバコの1本を ねだっていたり、道に落ちている吸殻を拾い集めるのに いっしょうけんめいだったと、うちの母親は言ってた。
とても貧しい家庭の子だから、普通の進学すら厳しいだろうし、幼くして、あれだけの才能が明らかでも、はたして、画家さんに なれたかどうか、難しかったんじゃないかなと。
ピカソが大嫌いなwうちの親父もね、若い頃から、自分で描くのが好きだったらしいが、
親父が あかんぼうのうちに、母方の伯母の養子として入った家も貧しくて、絵の具だの買えるような家計じゃないから、普通の鉛筆1本だけで、あり合わせの紙に、写真みたいなリアルな絵を、独学で描いてた。
何枚か、私も見たことあるけど、
時代がら、最もスピード出世が望めることを期して、志願して軍人の道に入り、『天皇』に仕える将校となり、戦後は、全く興味もない、予想もしなかった堅い職業に、かなり無理して苦労して就いたのだが、
いよいよ老齢になってから、引退し、60歳代で亡くなっていた女房(私の母親)が、生前、リハビリで始めた塗り絵に使っていた色鉛筆の一揃いを遺して逝ったので、それをムダにすまいとでも考えたのか、色鉛筆画の勉強を始めていた。
でも、その頃には、すでに『パーキンソン病』や眼病なんかを患っていて、若い頃のような、シャープな写実的描写力は、もう発揮できなかったみたい。
最近、どこかで見かけた記事で、
若い子が、色鉛筆で描いた、すごくリアルな犬の絵が絶賛されてるとかいうのが あったようだが、なんとなく、覗く気になれなかった。
私自身、鑑賞するのも描くのも大好きなんで、いつもは、この方面の話題に関心あるんだけど、
生前の親父が、もし、こういう記事を見たら、さぞかし、内心で悔しく感じただろうなあと思って。
自分が もともと やりたかったこと、進みたかった道を歩める人は、幸せね。
ピカソで一番好きなのは、これ(爆)
きょうになって、この記事が目にとまった。
良いこと言ってるじゃないですかwうん、なかなか哲学的(笑)
『【世相コラム】アートと「力」』11/9(土) 19:02配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191109-00010002-jij-cul
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現代アートのグラフィティ(落書き)は、所有者や管理者に断りもなく描かれる犯罪行為であり、暴力的行為とも言える。しかし、それさえ時に歓迎されるのが、アートの力というものだろう。
バンクシーがヨルダン川西岸地区の分離壁に描いた一連のシリーズは、落書きという小さな暴力が戦争という大きな暴力を告発するという、アートの力をまざまざと見せつけるものだった。
そうすると東京都も、期せずしてアートの共犯者であり企画者、主宰者になったと言えよう。この際、本当にバンクシー作品だったのかどうかは問題ではない。真偽不明で犯罪の疑いさえある作品を展示したこと自体、一つの表現形態だ。
~
「国に対する暴力」
という批判が あるとして、それについては、先のエントリーで すでに述べた。
ところで、『バンクシー』は、センス良いしね。わりと一般ウケするみたいだ。
この記事で思い出した。
私が中学生時代の ある朝、全校集会のときに、制服のポケットに入れてあるものをチェックされることが あった。
基本的には「生徒手帳」を入れてあるのだが、ほとんどの生徒は、手帳のなかに、機関車『デゴイチ』とか何かの写真だとか、なかには、芸能界アイドルのブロマイドを挟んであったりするんだけど、
順番が まわって、私のところへ来た担任教師(この担任は、先日のエントリーで述べた、普段は母親的雰囲気なんだけど、叱るときは、恐いくらい迫力が あった、でも大らかで優しい先生)は、すでに没収してきた何枚もの写真やブロマイドの類を手にしていた。
私も、生徒手帳の表紙の透明カバーから見えるよう挟んであった、小さなカードを、しぶしぶ、差し出した。
すると、担任は、それを一目見るなり、
「いやあ、これ、カワイイやんそのまま持っとき~よ」
と、ソッコーで返してくれたのだ。
そらブーブー言うわ、すでに没収された生徒らはw
「ずるい~!ずるい~!!」
と。
「あんたらのは、しょーもないやつばっかりやから!」
とか何とか言い返していた担任は、通常は、別の教科を担当しているのに、たまたま、美術担当教師が急に休んだとき、私のクラス担任の、この先生が堂々と現れたので、皆ビックリしたことが あった。
実は、美術教諭資格も持っているということを、このおりに聞いていたのだが、なるほど、それで、この先生の自画像イラストは、いつも、ベレー帽を かぶってるのか、と思った。
私の生徒手帳に挟んであったのは、
小学生の頃、クラスメートの おかあさんが勤めていた会社の顧客用サービス品である、小さなカード型カレンダーだった。
カレンダーの反対側には、ルノワールの『イレーヌの肖像』が印刷されていたので、一目惚れした私が、そのクラスメートに ねだって、1枚だけ譲ってもらったものだった。
数十年後の今も、大事に保管してあります。
Irene Cahen d'Anvers(also known as Little Irene)(1880)