2019.11.12 (Tue)
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『【続・続】炎上が あらわにしたこと――『首里城』と『あいトリ』』
まずは、
「愛の正反対は無関心」っていうでしょ。
ほんとうに無関心だったら、批判する気にすら ならないよね。
批判するにも、対象を よく観察して、知ってなきゃならないのだし。
さて、
ヨーロッパでは、芸術家というよりも、実は職人・商売人に近かった画家たちが、あるいは、彼らのパトロンの要望に従ってか、大昔から、現代では古めかしく仰々しく見えるヌード画が夥しく存在する印象なのだが、
裸体ですが、これは飽くまでも神話の一場面を描いたものであります、というタテマエにしておかないと、普通の女や人間としての裸体を描くことは、つよく憚られたそうな。出発は、そういうことだったらしい。
また、
こんにち、日本人は勿論、世界じゅうに愛好者が多い『印象派』の登場時も、最初の頃は猛バッシングに晒され、なんたる稚拙と嘲笑されたのだという。
ところで、何を隠そう、わたしゃ、学校時分から、パロディ作品ってやつが好物でw
ウィーンにおける『ジャパン アンリミテッド』に展示されたパロディ作品を二つほど、どこかの記事の添付画像で見てみたのだが、
たとえば、日本が敗戦後、間もなく撮影された「マッカーサーと昭和天皇」が並んで立っている、例の あれね、広く知られているらしい、あの写真のパロディ。
まあ、一目瞭然と言っていいほど、とっても分かりやすい表現の作品じゃないの?(笑)
なのに、
ことばに頼って説明するな!見てズバリ100パーセントの力が ない!とか言い張るんだもんな、「ヤフゴミん」は(嗤)
そういうふうに、あまりにもギャーギャー責めたてるから、それならと、アーティストさん みずから、よっこらしょと、説明に努めてるしだいでしょうのに、「ことばに頼るな」ってw
どーしろっつうの?ww
ああ、これかな?
「私には何の規則も方法も ない。〔中略〕私は、キャンバスの上で、その肉体が生き生きと、うち震えるように輝く色を見出さなければならない。今では、全てを説明するように求められますが、説明できてしまうような絵は、芸術では ない。〔中略〕美術作品は、あなたを捉え、あなたを、それ自体で虜にし、感動させるものでなければ ならない。それは、芸術家が情熱を表すための手段なのだ。芸術家から迸り出て、彼の情熱へと、あなたを誘う流れなのである」(ルノワールの ことば)
このように語った彼が描いた女は花のようで、花は女のようだ。
ルノワールは、貧しい生まれ育ちで、もともとは絵付け職人から出発したのだから、そりゃ、柔やわと楽しげな絵を描くでしょうよと思う。
「世のなかは、醜いものが じゅうぶんに ある。もう これ以上、醜いものを加える必要は ないから、美しいものだけを描くのだ」(ルノワール)
私も、「醜い」ものは、いやというほど見てきたし、
「見ぬもの清し」とて見ないでおくことは許されなかった。
明るい楽しい気持ちイイ、それだけが、「心を豊かにする」ことでは ないのよね。
こういうことって、人物とか人がらにも言えることで、
むしろ、とても辛いこと、人生の悲惨を経験してきて、明暗、彼我の落差というものを思い知っている人のほうが、そういうことから免れていた人よりも、ずっと、味わいある人が多いと思うね。
綺麗なだけじゃダメ、って考えも理解できるのよ。
私自身、暗く、恐ろしいような作品でも、どこか「美」を感じるものも あると言ったんだし、直視したくないほど不気味とか陰惨であっても、つい目を離せなくなるような独特の引力を持っている作品も実際、多くあるのを知っている。
芸術の ありようは、幅が広い。
ルノワールを批判していたという岸田劉生。
私は、教科書で、『麗子像』を初めて見たとき、
「うわ、すごいな。。。こんな顔に描いた父親に対して、モデルにされた娘さんは、お年頃になって、ハラ立たなかったやろか」
と思ってしまったけど(苦笑)、
まあ、『麗子像』については、他のも見ていったら、それなりに、「幼女の神秘的色気」みたいな描かれ方してるんだなあ、と思えた。
どこか、クラナッハのヴィーナスみたいな顔。
けっして嫌いでは なく、むしろ、好きな画家のうちだ。
しかしながら、
私個人的には、だんぜん、「心地良い」作品が大好きです。
だって、心地良いんだもんw
人それぞれの好み、また、関心の強弱が ある。
私自身は、たとえば、あの『表現の不自由展――その後』で見た、いくつかの作品に限っては、目新しいと言えるほどの視点を得ることも なく、尚且つ、驚くべきほどの表現とも思えなかったどころか、もはや陳腐でさえあるということ。
だって、自分なりに、すでに考えてきていることなので。
世間的にも、それほど珍しい「問いかけ」だったとも言えないだろう。
問題にすべきは、過去に、それぞれ、展示を拒否されていたという現象についてだ。
単なる、素朴な好き嫌いの自由も当然あるはずで、
また、どういうものを「心地良い」とか「美しい」と感じるかは、人によるのだろうし、
ま、そんなもん、個人に強制できない。
ただし、
権力側に対しては常に、その見識と姿勢が厳しく問われる。問われなければ ならない。
大衆とは、「愚衆」という別名も あるほどで、当然、一般大衆、大多数が正しいわけでも ない。
その大衆の上に君臨する国家なる権力の見識が低レベルで、あやふやな姿勢で あっていいわけが ない。
権力に盲従する大衆も、大衆の顔色を窺う権力も、国家としての品格を甚だしく損なうものだ。
その自覚と覚悟が ない、にも かかわらず、「先進国」の仮面を かぶってイイ気になっている、この国は。
【続く】