2019.11.10 (Sun)
水で洗い流すより以上に、本当の「浄化」は、火で燃やすことなのだという。
火が焼き尽くしてしまうのは、「汚れ」が溜まりきっているからだと聞いたこともある。
さて、
隣りの半島の国もそうだけど、
自分の国を、一度は失ってしまったという歴史を持つ民族は、あたかも宿命のように、失う悲劇を繰り返してしまうのだろうかとすら感じた。
だからこそ、『沖縄』は騒ぐんでしょうね。
まあ、日本だって、実質的には「失われている」と言えなくもなさそうだし、
少なくとも、実際に失う事態に直面した歴史を、わりと近年に持っているわけだ。
このたびの『首里城』焼失について。
いやはや、みごとなまでに燃え尽きたなあ。。。
このエントリーも、ザッと書いたまま2、3日ほど放置してあったのだが、
時間の経過と共に、関係各当局の歯切れ悪さにも かかわらず、透けて見える部分は漏れ出してくるもので、ここ数日間で、私にもズバッと言えそうなことが幾つか出てきている。
まあ~、だらしないことだ。
まずは『沖縄』!
「なんくるないさー」の性分、「南国気質」ってやつが出ちゃったのか?
原因もサッパリ突き止められないうちから早々、「再建だー!!」「寄付だー!!」「政府の支援を!!」と叫んでいるのは、いかがなもんか?という多くの意見も、むりは ないと思える。
その反面では、
なけなしの小遣いを差し出してみせる、ほとんど何も知らないであろう、素朴・純真な児童・生徒たちの姿を、全国から映し出すメディア。
典型的な情緒優先の光景。日本人も韓国人も、まあ、こういう点については特にソックリなんじゃないかと思う。
さてさて、
戦時中の悲惨な経緯から、ほんものの『首里城』を失っている。
だから、国が全面的に責任を持ち、可能なかぎりの再現を果たす、それは当然だろうと思うし、実際、できるかぎりのことは したのだろうから、
できれば、あとは もう、政府を頼らず、自腹と寄付だけで再建したら どうか?
そうなると、燃してしまった その足もとにも及ばないような、大雑把で安っぽい造りになるのかもしれないけど。
そう、コンクリートにしておくといい。
コンクリートで、なんくるないさー!
コンクリートと言えば、
こないだの台風で甚大な被害を受けた「本土」の住民に対し、
「沖縄の住民である われわれは、来襲がアタリマエの台風に備え、周到に、家屋もコンクリートにしてある、万全の対策を講じてある」
と、ほとんど自慢やアテツケみたいに言い放ち続けていた、自称『沖縄』県民の「ヤフゴミん」たちは、あっという間に、いなくなったな。
一般の民家ですら、コンクリで頑丈に建ててあると言ってるのに、大事な大事な お城が木造って、、、?と、私は怪訝に思っていた。
これまでの私は、
『日米安保』『米軍』と、その駐留基地の必要性を固く主張し、かつ、ゆえに『自民党』『安倍政権』を全面支持している、という自称「沖縄県民」を、「ヤフゴミ捨て場」で ちょくちょく見かけていたのと、
選挙結果で、『自民党』を勝たせてしまうことも たびたびだったことから、
はたして「オール沖縄」というキャッチフレーズに、時には、大いに疑念を持っていた。
そうでは ありながらも、基本的には、『沖縄』の味方だったつもりなのだが、
『首里城』は「ウチナーンチュ」沖縄県民の「心の よりどころだった!」「宝だった!」「象徴だった!」と、いかにも悲愴なセリフを言い募って、激しく嘆くわりには、ずいぶんと、ずさんな扱いかただったのね。
口先だけだったんでしょ?
不始末の直接原因を齎したのでないかと疑わしい現場関係者も「ウチナーンチュ」、地元の人たちじゃないのですか?
『沖縄』に行ったことないし、今後、行く予定もない、その余裕もない私は、『首里城』復元のことについて、ほとんど何も知らないで いたし、
ぶっちゃけ、『首里城』が存在していようが なかろうが、「本土」の住人である私個人の生活にとっては関係ない、
と言うよりも、ただただ、莫大な税金が、あっけなくムダになったこと、
そして、
この災いに、むしろ、つけ込み、乗じる構えを早速、見せている、イヤラシイ安倍政権に対する警戒が もたげてきて、もう、不快感マンタンだ。
アベシを援護射撃しているかのような『北朝鮮』と似た不快を感じる。
あとね、
「所有者」たる国の方針も、すごく おかしいよ。
たたでさえ、非常に燃えやすいことが分かりきってる木造のうえに「桐油」とかいうやつを塗たくってあったんだってね。
どんなに、オリジナルに忠実に復元したと言えど、木材ひとつとっても、実際は、オリジナルと同じじゃないでしょ?
国外へまで無理を言って、融通してもらったらしいじゃないか。
復元に当たっては、その方面の専門家の意見も取り入れているはずだろうけど、
「できるだけ、当初のとおりの復元」
という方針だから、たとえば、スプリンクラーは付けませんよ、って、
そんなリクツは、おかしい。
そこまで行くと、単なるヘリクツです。
どうぞ、思う存分に燃え尽きてください、って待ってるみたいだわよ。
外側に幾つも最新式消火設備を並べていたって、延焼や類焼を防ぐには役立つのかもしれないが、肝心のものの内部から発火した場合、火が大きくなってしまっていたら、意味あるのかと、そういう考えは なかったのか、はなはだ疑問に思う。
もちろん、スプリンクラーなどの、内部消火に備えた設備が ない以上は、
かつ、それで納得していたのなら、沖縄側の当局が、それに応じた運営を すべきだったのは当然だ。
結局、筆頭当事者であり、直接管理者である沖縄の各当局、雇用されていた地元の業者関係、そして、所有者たる国。それぞれ、全員、各様に、不手際と無責任さが あったように思える。
次は、例の『表現の不自由――その後』展について。
こっちは、先日のエントリー『【続】最近の話題の記事から』に付け足す かたちで。
日本人作家のものとしては、最も話題にと言うか槍玉に挙げられていた『遠近を抱えて』とかいう作品。その作品は、作者ご本人の内面を全体的に表現したもののなかに、あくまでも一部分として、若い頃の『昭和天皇』の肖像写真が含められているわけで、
「燃やした」というのは、作者ご本人の「抱えて」いた内面そのものを燃やした、という意味を込めているのだということらしい。
ところが、
『文春』の特集インタビュー記事内でも、いまだに、「天皇の肖像写真を燃やし」という説明を相変わらず使い続けてるね。
それ、違うよ、って、作者ご本人も、その周囲からも指摘されてるのに、なぜ、あらためないのかな?
【続く】