2024.09.27 (Fri)
『秋の美術鑑賞の巻』の続き。
ただ、もう一つエピソードを加えておくと、
その中国観光旅行の、ず~っと前のことだ。
まさに、国交回復が なされ、盛んに交流を繰り広げ始めた中国側からは、あるとき、華やかな歌劇のような舞台を演じる芸能団体が、記念の初来日。この舞台の中継番組が、たしか『NHK』で放映されたと憶えている。
『白毛女』とかいう演目だったっけ?この番組を、うちも、家族そろって、テレビで視聴したというわけです。
さすがに、全体的なストーリーや細部のことは忘れてしまったが、ある一場面だけは、鮮明に憶えている。
それは、くだんの物語の、苦難を越えて戦うヒロインが、舞台の中央・高所に設けられたセット上で、端正、優美ながらも、男勝りの勇ましいポーズを見事にキメたと同時に、バッと掲げられた垂れ幕の文字。
そこには、黒々と太く、
「打倒!!日本帝国軍(あるいは、帝国主義)」
というような文字が記されていた。
正確な記憶では ないけれど、多分、こういう意味合いの。
さあ、うちの親父のことだ。
過去エントリーでも述べたように、
アメリカ映画などで、日本兵が敗走するシーンが出てくると、必ず、ヒステリーを起こすのだから、当然、このときも、
「なにをぉぅ!?」
と、
凄まじい怒声を張りあげ、からだじゅうを わななかせるように憤り始めた。
そこから あとは、まるで、プツッと途切れたように、一切、私は記憶していない。
…
んで まあ、
そんな親父が、何事も なかったごとく、後年には、いそいそと、「憧れの」中国へ赴いて、
目的の観光地にて、腹ごしらえのために入った食堂で、まさに本場の!ラーメンを すすっていたら、
周囲のテーブルについていた中国人たちが、もの珍しそうに、親父らが食べているのを、じい~~~っと見詰めてきたそうな。
四方八方から、穴の あくほど見詰められたもんだから、食べてる最中のラーメンが、のどに詰まりそうだったとか。
国交回復・正常化の後、新たな歳月が過ぎていき、当時の私は、すでに20歳代になっていたと憶えているけど、その頃の中国人って、まだまだ、そんな感じだったのよ。
先日も言ったように、老若男女が全員、質素で地味な「人民服」姿でね。
外国人の観光客が珍しくて珍しくて、かつての日本も そうだったように、自分たちが外国に観光に行くなんてことは、それ以上に珍しかったわけ。
ついでに。
『自民党=本名:ダッピ統一壺売国党』総裁に立候補中のセクシーポリ袋くんが、彼個人の家族関係のことを持ち出したのは、懸案の「選択的夫婦別姓」制度についての賛否を表明するに あたり、一つの事例として示したということのようだが、
私は相変わらず、それへの興味も関心もないままだけれど、
もう少し、もっと肝要のところを述べておく。
離婚して、もとの姓に戻るとか戻さないとかの選択は、現行でも認められているわけで、たとえば、別れた片親のみが、もともとの姓に戻り、子ども側は、もう一方の親の姓を引き続き名乗るからとて、それでも「家族」には違いないんだ云々という話は、やっぱり、ズレてるのよ。
まあ、逆から言えば、
ずばり、名乗る姓は同じでも、「家族の絆」なんぞ、まーったく感じてないケースも あるわけでね。まさに私自身が、それに ごく近い立場なんだけども。
私は、若い頃から いまに至っても、できることなら、実家の姓を捨てたいものと、ずっと思ってるし、
もし、結婚することにでもなれば、むろん、配偶者側の姓にホイホイ切り替えるわ!とも思ってきた。
けど、それらも、関係ないっちゃ関係ないの。
なぜなら、
私は、自分自身の名前を、自分自身で選ぶことは、基本的権利であることを認めるべきという考えなので。
したがって、親らが、子に、何の ことわりもなく、エゴむき出しで、専権のごとくに、子の名前を押し付けて以降は、当の本人が、どんなに厭だと思っていても、特別の事情ある者と、国家権力から認めてもらえないかぎり、まず、一生涯、その名前を使用し続けなければならないというのは、人権侵害だと思っているわけ。
なので、
親らが押し付けた名前は、あくまでも、当面のものとして扱い、本人である子自身が成年に達した おりに、または、何らかの節目などを迎えたときに、子みずからで、自分の名前を選択しなおすことを、制度として認めるべきだと思っているのである。
何やら「コストがー」などと、小賢しく喚き散らす者には、
「オマエさんごときが生まれて、こんにちまで生きているコストのほうが、よっぽどの」
と、嘲笑してやりたいw
で、
やっと、タイトルどおりの本題に入りますわ(苦笑)
秋です。
芸術の秋、芋栗食べつつ美術鑑賞の秋で~す。
先日、ちょっと久しぶりに、『オトナの教養講座』を楽しませていただきました。
今回は、
以前にも述べたように、私も大好きな画家の一人、サージェントの最高傑作と言って過言でない作品、『マダムX(ゴートロー夫人)』と、
ずっと遡って、こちらは17世紀『イタリア』のベルニーニ作『聖テレジアの法悦』で~す。
いつぞや、話題に取りあげた おり、無教養な私ながら、サージェントにも、かの偉大なるベラスケスへのリスペクトと影響が感じられる、というふうなことを述べたかと思うけど、やっぱり、ベラスケスのことも出てきた。
いつも思うけど、ベラスケスって、しぶくて、いいオトコよねえ。
目の前に居たもんなら、
「うっふ~んディエゴぉ
」
とか囁きながら、
彼の髭コチョコチョくすぐりたくなる(笑)
気分は、ゴヤの愛人、アルバ女公爵w
いやいや、また横道に入りそうだw
さて、
まずは、『聖テレジアの法悦』。
山田五郎氏がズバッと指摘された、
「イッちゃってる」とこ!な顔、というのは、
そもそも、作品名も「エクスタシー」だ(笑)
ある程度の年齢や経験を重ねてきた人なら、ほとんどの人が、そのような印象を受けるのだろうけれど(?)w
男性たちの願望に対しては、ひとつクギを刺しておくとすると、
以前も同じようなことを指摘しておいたけど、
男性と女性とでは、やはり、同じ感覚とは限りませんよ、ってこと。
私なんかの受けとめかたは、
あまりに苦痛だと、実際には、かえって、ふつうに苦悶の、とは違う感じの表情、まさに『聖テレジアの法悦』のような表情に見えるかもしれないのだし、
ズバリ、死に瀕している、ほぼ死んでいるときって、こんな感じの表情になることも多いんじゃないかなと。
口は半開き、瞼を閉じることも忘れたような眼は虚ろに、視線は定まらず。
『仏教』は、と言うか、お釈迦さまに言わせれば、要は、
「とりま、気にせんで よろし。。。」
「気にせんほうが よろし」
「とにかく、気にするな」
てな感じだけど、
それとは逆に、どうも『キリスト教』って、
「神さまの思し召しなんだから」
とて、
とにもかくにも全肯定!それ以外は認めない、以上!!
てな感じで、だから、
ものすごい苦痛も、すごい悦楽だと思わねば ならぬ!
だって、神さまの思し召しなんだから!!文句あっか!?
って感じを受ける。
マゾかよ。。。
まあ、「エロスとタナトス」ってコトバが あったわね。ようワカランけどww
さてさて、
こちら、マダムのほう。
ご婦人の肩がモロ出しケシカラン!!
と言うのなら、
聖テレジアの「イッちゃってる」表情のほうが、よっぽど、いかがなものか?
とも言えそうなもんだと思うのだけどw
しかも、よりによって、名高い「聖女」で ございますよ?
これこそ冒涜的ちゃうんかい!!とww
もしかしたら(?)謹厳実直なる神父さんや修道女たちならでは、
「イッちゃってる」顔、、、
などとは微塵も連想しないからこそ、こうして、教会のなかの高みに堂々と安置しているのかもしれないww
『聖テレジア』の顔を見て、ムラムラを もよおす神父さんなんか いたら、たいへんですからなあwww
【続く】