2022.04.19 (Tue)
『人を殺させる者、させられる者。』の続き。
とは言え、有権者・国民全体の知性が、そうとうに高くなる社会が実現される日は、恐らく、はるかに遠いのだろう。見果てぬ夢のように実現不可能なのかもしれない。
そのことは、すなわち、まともな「社会主義」や「共産主義」が実現されるにも甚だ困難であり続けたことの本質的理由をも示しており、
往々にして、それらの主義を掲げている国に おいてこそ、最も、情報の極端な遮断や管理社会による専制・独裁的為政者・政権が出現し、尚且つ操作や小細工してでも、長期に わたり居座り続ける例に事欠かない原因でも ある。
ま、『共産主義』の実現に至るまでも、その前に要請されるのは、やはり、有権者・国民の知性と聡明さであるのは同じことで、これなしに無理やり導入してしまえば、あたかも「先祖返り」した如くに、当然、あらゆることの強制的管理、はては「密告社会」を招く、そういうことなのだ。
古今東西も現状も、結局のところは、
一言で言えば、やはり、「プーチン」的存在一人に振り回されている。
故ソルジェニーツィン氏にも見通すことは できなかった。
なぜ、このような事態を迎えることになるのか、
どのように防いでいくのかを、どこの国であれ、民族であれ、政治体制を とっているのであれ、よくよく考えておくべきことだ。
さて、ここ最近の日々は、私が学校時分から確信していたことの一つ、
「文学界の最高峰は、ロシアにあり」
ということ、それが、何度か、わが胸中を よぎっていた。
なるほど、「プーチンのロシア」、とりわけ、プーチン政権下にあるロシア国民と、ドストエフスキーたちのロシア、これらの甚だしく深い、少なくとも、そう見える乖離を、どう解釈したら よいのかと。
ただ、ひとつ言えるだろうことは、
間延びしたように なだらかな平坦な場所には、けっして ありえない、峻険たる「文学の高峰」に至る恐ろしく険しい細い道なき道の下には、人々の生活の、民衆という存在の、血の涙が幾層にも重なった地下水脈として流れていて、
いよいよ頂上に辿り着けば、そこには、怨嗟や悲嘆の呻きが ひっきりなしに立ち昇って谺しており、合間合間に、ささやかな慰めと、かすかな願いの囁きも入り混じっている。
私自身、学生時代から、特にドストエフスキーを好み、その作品の殆どは読了していたのだけれど、『カラマーゾフ』だけは「最後の お楽しみ」的に未読なので、はやく読んでおかなくちゃと、かねてから思っている。
トルストイ、チェーホフ、ツルゲーネフ、プーシキンもだ。
なので、
侵攻が激しくなり始めてから、ウクライナの どこかの街で、プーシキン像が撤去されたというニュースを見て、理解は しつつも、なんとも言えず哀しくなった。
ドストエフスキーも、非常に敬愛していたという、プーシキン。
『「プーチンはウクライナ人を殺し、同時にロシアも殺している」ロシア人作家が語る“本当のロシア”とは【報道特集】(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュース』4/17(日) 9:20配信
「2月24日以降、ずっと悪夢を見ているような気がします」
でしょうね。
まったくの他国人である私ですら、『ウクライナ』侵攻が報じられてからというもの、毎日げんなりする気分だもの。早く停戦をと思わない日は ない。
「プーチンを倒せるのはロシア国民だけです。私たちが目指しているのは、ロシア国民に理解してもらうために彼らと対話することです。彼らを私たちの仲間に引き入れたいのです。しかし残念ながら、これがとても難しい。そのためには、新たな仕組みや手段を見つけなければいけません。今、それを検討しています」
とても難しいのかあ。。。それは困るなぁ。まじで困る。
「新たな仕組みや手段を検討している」
これについては、他国の者も精いっぱい協力したいところです。
そう言えば先日、やはりニュースに登場した、在日ロシア人の若い女性が、ロシア国内で、「声に出さないデモ」みたいな活動を実行し始めているとか言ってたみたい。たとえば、支払いする紙幣の端っこに、メッセージを書き込んで手渡すなどの方法で。
「血を流さずに今の政府は出ていかないというのは明らかですから、その結果、ロシアという国が新たに数か国に分裂すると思います。非常に困難なプロセスになるでしょう。もしかしたら内戦になるかもしれない」
ああ、、、
世のなかの おとなたち誰もが、予想しているようすも なかった「『ソ連』崩壊」を、その20年近く前の児童・生徒の頃、ハッキリ予感していた私なんかでも、そこまでのことは考えてなかった。
でも、言われてみれば、
『アメリカ』の前大統領だったトランプ氏の政権が、退くべきときが来た最後の最後に、議会が襲撃され、死傷の場と化した、あの悪夢と恥辱の出来事が起きたのだものね。
「プーチンのロシア」が、その程度で済むはずは ないか。
しぶとく悪足掻きする連中のパターンだ。
ただでは起きないし、転ぶときは、傍も巻き添えにするか、傍だけ転ばせて、自分が立つ。
それが「敗者」にならないことだと信じている。表面的な、目先の「勝ち負け」でしか考えられないオツム。
最後に、これだけは、明確に言っておきたい。
同じ日本人に対してなんだけど、
以前から、言っておかないとと思っていたこと。
日本国内で、ロシア料理店などを営んでいる人たちや、少なくとも一般のロシア人に対して、差別や排斥的な言動を とるのは、やめなさい。
なんと下品で、短絡的なことか。嘆かわしい。恥ずかしいったら ありゃしない。
地方の温泉宿泊施設だかが、早速やらかし、あろうことか、公共交通の案内表示などにまで、利用客の一部からのクレームが あったことを理由に、そうした動きが見られたという報道を見たけれど、
そんなことを やっても、何らの改善や解決にも ならないどころか、
われわれ日本人にとっても、あとあと、けっして良くないことを招くもとに なる。子どもの教育にも甚だ悪い。
…
立って、今すぐ、十字路に行って、ひざまづいて、地面にキスを、
それから、四方に、世界じゅうに、お辞儀して、大きな声で、
わたしは、人を、殺しました、と…
(「ソーニャ」の ことばのウロ覚え――ドストエフスキー『罪と罰』から)
『罪と罰』の登場人物のなかでは、現代日本女性のハシクレである私にも理解しやすかったのは、ラスコーリニコフの妹ドーニャだな。
「聖と穢れ」に引き裂かれているかのようなソーニャの、ある意味での欲望さえ垣間見える、家族への やみくもな犠牲的奉仕は、
殺人を犯し、やがて、人の世の刑に服することとなったラスコーリニコフたちへの奉仕へと切り替えられたことによって、彼女のなかにも潜んでいた ある種の歪みが ただされたのだとも思える。
とにかく自分が、自分さえ犠牲になれば いいということにも ならない。
誰かが誰かに犠牲を払わせるのを、可能なかぎりで防ぐことも大切なのだ。
ユダヤ人という存在に対する、作品のなかでの扱いは、かのシェイクスピアにも興味深いものが あるのだが、ドストエフスキーも、ユダヤ民族を殊のほか嫌っていたそうな(苦笑)
ところで、
『誓いの休暇』という『ソ連』時代に制作された映画が あるのを知っている人は、いまどき少ないだろうか。
『西部戦線異状なし』のパウルたちと、何も違わないような、ごく若く、純朴な兵士の、つかの間の出会いと別れの物語だ。
もっと古い、終戦して数年後の制作である『山河遥かなり』はアメリカの映画だが、
こちらは、『ナチス』のせいで、家族全員が引き裂かれたまま、あても なく彷徨する、東欧の少年と母親の再会に至るまでの物語。
私は、学校時分に、テレビで観た記憶が あるものの、
長いこと、『誓いの休暇』とゴッチャになっていた。
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【旧ブログ2011/04/02の記録から抜粋】
亡き母が
忘れ得ぬと言い残せし
ト翁の『復活』
われも手にせむ