2022.05.05 (Thu)
このところ、またぞろ、体調を酷く崩してしまっており、ブログ更新する気にもならなかったのだが、
痛い苦しいのを堪えつつ、這うように身じたくして出かけて行き、
やっとの思いで購入してきた市販の医薬品や、ささやかな栄養補給を心がけながら、病院にも行かずに頑張ってるところです。
今回も、なんとか、自力回復を目指したいと切に思う。
さて、近頃のニュースなどを眺めていて、どうしてなのだろう?と、またも感じているズレのこと。
まあ、公的でも個人的でも、ほぼ毎度のことなのだけれど。
まずは、「プーチンのロシア」問題から。
これまでにプーチン大統領が のたまう見解、
『ウクライナ』や、われわれ「西側」諸国に対して、ああだ こうだと述べている指摘や抗議の意見が、その少なくとも概ねが、すでに「プーチンのロシア」側こそが やってきたことであり、または、これから やるつもりマンマンであろうことを、
あべこべに、ウクライナや西側が、やってきたのである、または、やろうとしているのだ、と主張している、
この奇妙な矛盾に、誰も気づかないようすで、
「プーチンが、またまた怪しからんことを!」
と、ただ単純に憤るだけのコメント投稿が多いのは何故なのか。
私にはキミョウに感じられる。
このたびの『ウクライナ』への侵攻と言うか侵略だが、相変わらず、止みそうにないままで、この騒ぎに関する一連の報道や情報を追いかけ、熱心に注視し続けてきたものと思しい、特に『ヤフーコメント』を筆頭に、ネット上のコメント投稿に大いに参加してきた投稿者らは、気づいていないのか?と、怪訝に思うことが多いのだ。
まあ、自分側こそが やってきたこと、企んでいることを、あべこべに、
相手側が やってきた、やっている、企んでいるに違いないと主張するのは、これも、被害意識の つよい「自己愛性人格障害」者などの一大特徴、常套手段の一つですけどな。
次は、
やらせ、じゃなくて河瀬カントクの、自分とこのスタッフに対する暴行が暴露されたに あたっての言い訳について。
はっきり言って、あくまで私個人的に、「安倍ポチ」の一員として、胡散臭い俗物のうちに入れている氏のことは、せめて、メディアに登場する頻度さえ少なければ、アベシのようにチョロチョロチョロチョロして、そのせいで、しまいに怒髪天になることもなく、単に、無関心なままで済んでいた対象なのだが。
引き起こした「暴行」についての彼女自身の釈明みたいなものの内容が、甚だ不審に思われたのに、これについても、コメント投稿に励んでいる連中のなかには見受けられなかったようなので、ヘンだなあ?と思ったしだい。
と言うのは、
河瀬氏は、何やら、非常に重たいカメラ機材を抱えての撮影中、ふと、手順が狂ったみたいなことで、当時、撮影スタッフの一人だった男性が、彼女のカメラ機材に付属の何かを引っ張って、間接的に軌道修正と言うのか、誘導と言うのか、そうやって、河瀬監督をサポートするべく図ったところが、予想外の裏目に出てしまい、河瀬氏の逆鱗に触れた かたちで、腹部を蹴られるに至ったという。それが切っ掛けで、くだんのスタッフたちは、『河瀬組』を去ったという話だったが、
それについての河瀬氏ご本人の言い分では、最初、彼女の体を直接に触れつつ誘導しようとしたものだから、なにしろ非常に重たい機材を抱えつつ、ギリギリのバランス状態で作業していたため、思わず反射的に、スタッフの足を蹴ってしまったのだとかいう説明だったようだ。
しかも、そのとき、たしか、エスカレーターの上に乗っている状態だったとかいうことも加えられていたと記憶している。
で、
この話を、誰も、素朴にヘンだなぁと思わなかったのかしらん?と。
だって、本当にギリギリ危ういバランスで作業していたのなら、おなか、いや、足もとだろうと、とっさに蹴る、なんて動作を とれるもんかしらね?
「いや!!ちょっ!ちょっと待った!!
今あぶないから!触らんといて!!」と叫ぶのが精いっぱいと違うかな??
そのあとに激怒したということなら、まあ理解できなくも ないんだけど。
現場に いなかった者には、全体に奇妙で、ようワカラン話。
個人的には興味も薄いから、この話題は、ここまで。
次は、メディアの記事の述べようについて。
たとえば、いわゆるデフレが、日本で長引き過ぎていること、この原因について、とうてい読む気もしないので、見出しか冒頭部分のみチラッと見ただけなのだが、どうやら、たぶん、われわれ一般の消費者を指して、「物価上昇をヘイトしている」と呼ぶ、どこぞの雑誌社の記事も あるようなのだが、
しかし、ここで「ヘイト」という言いかたを するのも、おかしいと思う。
だいたい、単純に安いのが好きな向きに負けず劣らず、「ぼったくり」級に無意味に高価なものも好きな日本人は少なくないんじゃなかろうか。
「物価上昇をヘイト」しているのが、一般消費者の傾向としてあると言いたいのなら、その根本には、やはり、一般労働者の賃金や可処分所得の低迷が続いていることから論じていなければ嘘だと思う。
アキンド、商人というものは基本的に自分の利益、儲けのことしか考えないからね。
そんなものをば、国家運営の基盤に置いていたら、やがての行く末はメチャクチャになるのが当然です。
まあ、『自民だっぴ党』は、あまりにも、商売界と癒着し続けてきたわな。
最後に、
「少子・高齢化」問題。
これも また、メディア記事、ネット投稿者ら共に、根本のところから目を逸らしているように思える。
なかには、やたらと、「子どもを産まないのが問題」、「持とうとしないのはケシカラン!」とか、
あげくは「独身税とれ!」みたいなメチャクチャを言う投稿も見かけるのだが、
現状、最も搾取されている存在であろうのは、子どもどころか、結婚する余裕もないほど低収入のまま、しかも劣悪な労働環境のなかで働いている人たちのはずだ。
これについても何度か指摘してきたのだが、
いまどき、子どもの一人や二人でも拵えようかと思えるのは、現代日本社会に おいては、比較的に生活の余裕が ある世帯じゃなかろうか。
もちろん、しょせんは中途半端な余裕でしかないのなら、家計が苦しいなかで育つ子どもも、かなり可哀そうかもしれないし、いっそ、自分たち夫婦の生活水準維持を最優先しようと判断する世帯も少なくないのだろうし、
しかしながら、
ちょっとくらい厳しめの節約を要することになっても、やっぱり親になり、子どもを持ちたいと思うのも自然の人情だろうし、伝統的価値観の一つには違いない。
なので、ほとんどの人々にとって、「人並み」の結婚も出産・子育ても、本来なら、自然の欲求のなかに含まれていたはずだろうにと思う。
ただ、
現代に おいては「先進国」を筆頭に、児童の労働が規制され、教育や医療・衛生の観点から、一般レベルと言えども、国家や社会から要請される水準が総じて高くなっていることが第一に挙げられる。
いわゆる発展途上国などでは、いまでも出生率が高いのだからということを理由に挙げる向きが多々あるけれど、これも、昔の日本と重なるところが複合的に あって、
わが国も含めた庶民階級では、「下手な鉄砲も数」じゃないけれど、
多く産んでも、まあまあ普通に育つのは一部だけだった、それは、貧しい家計を助けるためのダイレクトな労働力として期待され、でなければ、つまり、「跡取り」以外の子や、女子であったり、障碍者で あったりした場合は、幼いうちから丁稚奉公やら嫁に出され、あるいは障碍者専用の集団に加わらせたりと、「口減らし」を兼ねて、体よく追い出されてきた歴史が ある。
もちろん、そこには、これも定番のこと、現代の日本社会でさえも、俗に言う「甲斐性のない男」にほど、ありがちなパターンとして残っているのが、欲求不満を誤魔化せる娯楽の少なさゆえと、ある種の示威行動に準ずるが如きセックスゆえの、行き当たりバッタリな多産だ。
これも、何度か指摘してきたのだが、
日本列島に おいて、1億2千からの総人口が多いか少ないのかという議論は さておき、
根本的には、高齢者の生存年数の飛躍的な伸び そのものよりも、
出生数および若年層とのバランスの悪さが問題のはずだ。
まあ、私個人は、はやくも学校時分から、子どもを持ちたくない、というよりは、自分は親にならないほうが よいだろうという判断を していて、その幾つかの理由は、過去エントリーで述べてきているわけだが、
近頃では、それらのことに加えて、
やっぱり、この国の激甚災害への不安が大きくなっている。
もしも、いま、私自身が、出産可能な年齢と健康状態だったとしても、
もはや最大の理由は、自分の足もとで、あの『阪神』や『東北』で勃発した規模の大災害、いや、それ以上のものが、いつ起きるかもしれないという不安のなかでは、もう それだけで、二の足を踏みたくもなる。
それでも敢えて、子を産み落とすと決心したものなら(もっとも、ほとんどの人は、「決心」とも言わない、アタリマエに近い軽い気持ちでホイホイ産むものなんだろうけどw)、
わが子には、将来、できるだけ若いうちから、海外の どこででも生活していけるだけのスキルを身に付けるよう、親として、可能なかぎり協力してやりたいと考えるし、
子ども自身が理解できる年齢になれば、そのスキルを常に念頭に置いて学んでいくように言い聞かせるだろうと思う。
結局、そのためにも、親側の資力が、ある程度なりに必要なわけだ。
しかも、むずかしい障碍などを背負わずに出生し、せめて人並みの能力と健康体で生育していけることが、実際には大前提となるだろうから、やっぱり、「賭け」でしかない。
そして、
わが子を、「賭け」で儲けたくは ないなあという個人的本音も ある。。。
しんどいので、きょうは ここで。