2022.12.31 (Sat)
目下、私がハマっている最中の汀 夏子さん彼女の過去のステージ記録動画で、お得意の「男っぽい」とか凛々しくとかとは違って、時々、可愛くコミカルに踊っているシーンを見ていると、ジュリエッタ・マシーナが演じた『道』のヒロイン、ジェルソミーナを思い出した。
近頃、こちらにもハマっているということで、すでに何度か取りあげている『山田五郎 オトナの教養講座』ですが、
このシリーズを見ていて何度か痛感したのは、やはり、特に戦争とか、それを引き起こす原因になるような権力者や思想の登場とかが あると、それらの都合しだいで、たちまちにして、芸術は弾圧か利用、どちらかの対象とされ、隠さなければ ならない、さもなくば滅される対象へと陥ってしまう、それが実際のところなんだということと、
もう一つは、
私自身も多かれ少なかれ好んできた作品を遺した画家たちのなかに、その作品の美しさ、すばらしさからは想像も できないような、男としてはサイテーじゃないの!?!と言いたくなるような御仁がチラホラいること。
知りたくなかったわ。。。けっこうショックよ。
ルソーくらいなら、まあ笑えるんだけどねえw
で、ちょっとショックを受けたうちの一人がカンディンスキーなんだけど、私は、初めて見た子ども時分から、わりと好きだった、とは言え、限られた作品しか知らないできたのだが、少なくとも、ピカソ大っキライだった親父のように、「わけのワカラン絵を描くなー!!」と、まじで立腹するような、いわゆる抽象画ぎらいでは ない。
ただし、具象であれ抽象であれ、どうやら、色遣いにも、かなり左右される面が あるようで、何を描いたのやらサッパリわからないとしても、色調のハーモニーのようなものが心地良ければ、それでオッケーみたいな感じ。
なので、もちろん、全体に陰気臭いような、ばっちい色遣いの作品だと、やっぱり、好きには なれないことが多い。
んで、
『オトナの教養講座』のなかで、山田氏が指摘しておられたのが、カンディンスキーは、「プチ スピリチュアル」だったとかいうこと。
それ聞いて、
「ええっ?そういうのってスピリチュアルなの?じゃあ、わたしも そうだってことか??」
と、
わりとスピリチュアルぎらいを自認してると言うか、正確には、オカルトとかスピリチュアル大好きな人の軽薄さがキライなくらいなんだけどw
われながら驚いたのは、
過去エントリー『「天才」と呼ばれたいチミに。』で述べたように、私も、音色と色彩が結び付く傾向は、子どもの頃から自覚が あって、
と言っても、他の人たちも普通に そうだと、なんとなく思っていたし。
だってさ、「黄色い声」なんていう定番の表現が昔から あるじゃんか。
ガーシュウインの『ラプソディ イン ブルー』を初めて聴いたときは、「ブルース」の「ブルー」という意味なんだそうだが、まさに青いイナヅマが、頭のなかを走ったし。
『エクソシスト』っていう、有名なオカルト映画が あるでしょ。
あのテーマ曲の『チューブラーベルズ』を聴いたときは、銀色の金属の小さなパーツが たくさん、それぞれに光をキラキラ反射させながらクルクル回転していて、それが だんだん集まって、シンクロしながら大きな回転体になっていくイメージが、頭のなかに浮かんだ。
それだけじゃなく、数字と色のイメージが結び付く傾向も あった。
子ども時分、絵というか、マンガも大好きだから、読むのは勿論、自分でもマンガ家気分で描いたりしたけど(見つかると、またマンガなんぞを!と、親に激怒されて、殴られたりした)、その一つが、登場人物全員の顔が数字という、、、
いま振り返ると、かなりシュールだなあと、われながら思うんだけどw
自分では、それぞれの数字そのもので、登場人物各自の容貌の特徴から内面性などに至る、キャラクター全体を表現してるつもりだったのよ。
たしか、小学生で、まだ低学年の頃だったと思うけど、
幼なじみに、その力作を読ませたら、読み始めた幼なじみが、ほどなくして、コトバも発さず、顔を上げ、ただ たまげていた、と言うよりも呆れていたのを憶えているww
でも、たしかに、現在の自分よりも、子どもの頃のほうが、もっと強く感じられていたようには思う。
それにしても、
そんなに珍しいとか才能だとかって、たいそうなもんかしらねえ?
この狭い頭蓋骨の空間のなかで繋がってるんだから、どこかの部分で刺激を受けたら、いっしょに連動しちゃう部分が あっても、それほどにはフシギと思えないんだけどなあ。
旧ブログで、また、過去エントリーの どこかでも紹介した話だけど、戦時中、飢餓状態に晒されていた日本の兵士が、炊きたての白い御飯を、脳裡に思い浮かべた瞬間、なぜかアソコが勃起しちゃったって現象。
大きな自然災害のあとで、植物の実が、例年よりも多く ついた現象とか、そういう話も聞いたことが あるけど、どこか共通したものが察せられる。
それと、
全く異なる人種や民族、遠い国どうしの言語なのに、たとえば、「甘い」とか「辛い」という感覚を表わしているように思える単語の発音に おいて、かなり共通した感覚が あるようだという実験のようすを、テレビの番組で見たことも憶えているのだが、
世界各国で、女性に かかわる単語には「М」系の発音を含む単語が多い傾向という共通性も見受けられるように思う。
MacDonald-Wright“Scherzo Form”(1973)
あと、同じく『オトナの教養講座』から。
なぜか、日本のニュース記事では、それほど詳細を解説しているものは目にしなかったため、私も、そこまで知らなかったのだが、
『ジャスト ストップ オイル』とかいう、有名な美術作品を襲撃する活動で話題になっている連中のことだ。
この集団を支援しているというのが、世界的にも知られているほどの大富豪(石油会社など)の子女たちだという話だったんだけど、
ここで私が連想したのは、
『共産主義』思想や、とりわけ『キューバ』革命を主導した者たちが、本来なら、それを忌避し、滅しようと動くべき側の はずの一員で あり、原住民を搾取して、財を築いた裕福層の子息たちであったということの、一見チグハグな感じの歴史だ。
やはり、生活に余裕あるからこそ、高等教育、教養、技量を身に つけられるゆえの、思想や知性を培えるゆえの、新たな、先端的活動の実行力なのだろうけれども、
くだんの、美術作品襲撃活動と、それを裏から支援しているという富豪の子女ともなれば、これも さぞかし名門のとか有名どころの最高学府を出ているのだろうと思しきわりには、えらく浅いというか、
はっきり言ってバカっぽいような。
なぜなんだろう?
なぜ、こんなことしか考えつかない、できないのか。
飢えを知ることもなく、潤沢な生活を謳歌していられる連中よ。
オマエさんたちの襲撃活動で得意げに手にしている、缶スープその他にしたって、そうとうのエネルギーを費やして製造されているはずだろう。
まあ、私としては一言で済む。すなわち、
ヘリクツは いいから、とにかく、食べ物を粗末にするな!
それだけだ。
この冬は、例年にない厳しい寒さなのに、暖房費の高騰も心配のタネで、うちも、先日のエントリーで触れたように、12月に入っても、なかなか、暖房を入れる気になれずだった。
直近の長期予報によると、大阪では全体的に晴天と平年並みの気温の日が多いそうで、時々は猛烈な寒波が来るものの、比較的短期間で済みそうだということなので、本当に そうならば助かるなあと、少しホッとした。でも、豪雪地帯の住民は、例年にも増してキツイ状況、ましてや、生活苦で、暖房も ままならない世帯などは、のりきれるのだろうかと、他人ながら、気にかかっている。
それや これやも あるからだろうか、
近年は、ますます実感しているように、日本では従来、最も大きな節目であったはずの「お正月」らしい厳粛さ、独特の清新さというものが、私の子ども時分と比べて、ずいぶん希薄になったもんだなあと思う。
そのくせ、
『キリスト教』の信者でもないのに、『クリスマス』は勿論のこと、近年では『ハロウィーン』てなものを歓んで、やっさもっさと、大集団で押し合い へし合いの大騒ぎらしい。
これだけ、娯楽の類に事欠かない現代でも、若造というものは、要も ないのに、集団で押し合い へし合いになるのが、よくよく大好きなんだなあと、大昔の『歌垣』なる風習を思い浮かべつつ、あらためて呆れるw
私は若い頃から、人ごみが大キライだったけど。
私自身、若い頃は、「桃割れ」髪を結ってもらうために、共に美容室へ赴き、和服の着付けを やってくれた母を亡くし、後年、父も亡くなってからは、季節の行事に拘って、うるさく言う者が いないもんだから、いよいよ本当にマイペース、気分しだいとなった。
父親が元気だった頃は、亡母の代わりに、大みそかは、「年越し蕎麦」まで拵えに、気の重さを叱咤して、実家へ通った自分が、はるか遠く、まぼろしのような気が してくる。
あああ、ほんとうに、めんどくさかったw
この反動は、予想以上に大きく長く、尾を引いているww
暖房費が恐くて、寒さに震えて過ごしていると、腰の痛みにも影響するしで、年末なのに、とうとう、基本の家事すらロクすっぽ できないままに終わってしまったが、きのう一昨日あたりは、やっとかめ、玄関の掃除だけ、軽く済ませておいた。
ま、そんな こんなで、個人的には、例年以上に、なんとも さえない年の瀬となっちまいましたが、
皆さまに おかれましては、よい お年を お迎えくださいませ。
〽ほ~た~るの ひ~か~り、わ~か~れゆぅ~う~く~♪
年が明けて、チョーめんどくさがりな私の気が向く そのときまで、しばしのサラバでございます(笑)
ではでは