2023.01.13 (Fri)
きょうも、山田五郎さんの『オトナの教養講座』を拝見しようとして、これは「公認 切り抜き」ということらしいのだが、よく知らないけど、つまり、完全版では ないようなので、私は、ふだん、こちらのほうは ほとんど見ないのだけれども、例のルソーが挙がってきていたので(笑)飽きも せずにwまたぞろ覗いていた。そして、またワハハと笑っていたww
その次も同じく「公認 切り抜き」として、かのミレーの『晩鐘』を取りあげていたので、あ、これはと視聴したのだが、スタッフの人などが、なんとなく「恐い絵」という印象を持たれていたというので、そう言えば、この絵について、何年前にか、うちの過去エントリーで「解説」wしたことが あったっけと思い出し、探してみたら、やっぱり あった。
というわけで、
私自身は、恐いとかいうより、なんかフシギなという第一印象を、子どもの頃は持っていた。
それもそうで、
当時は、まだ、幼稚園に入っていたか どうかくらいの幼い年齢だから、クリスチャン家庭では ないのだし、「晩鐘」などと難しいコトバも『キリスト教』の何たるかも一切、知りやしない。
ただ、絵から鐘の音が聞こえてくるわけじゃないので、登場人物たちが、神さまなどを表現した崇拝対象が近辺に見受けられない、広い畑のような所に立ったまま俯いて、何やら お祈りしているようであるのは察せられても、いったい何に向かって祈っているのだろうか?と、怪訝に思っただけ。
ちなみに、
過去エントリーのなかで、「うちの母親が、私にデタラメを教えた」というのは、
「土の神さまに祈っているんや」
という答えだったw
それでも、やはり、ある種のフシギさとともに、もちろん、このコトバ自体も全く知らなかったけれど、おとなになって振り返ると、言うなれば、まさに「敬虔」なるものを、幼心に、なんとなく感じ取っていたのだと思う。
けれど、
「恐い」とか、またはダリが言っていたという「トラウマ」級の極端な感想も、夕暮れ時の全体の暗さと相俟って、ある意味で共感できるわけで、
それは、私が挙げた過去エントリー内で指摘しておいたように、この絵には、性や生殖のシンボルが満ちており、生まれ落ちて、営々労苦と引き換えの僅かな作物を得て、そして死ぬという、人間の一生を一枚の画布のなかに見事に端的に凝縮した作品であり、
見様によっては、なるほど、死んだ あかんぼうを今しがた埋葬した若い農民の夫婦が、自分たちの嬰児の亡きがらを埋めたばかりの地面に向かって、頭を垂れて祈っているように見えなくもないわけだ?(苦笑)
ついでだけど、
先述の『晩鐘』についてのエントリーを探していたら、なぜだか、いっしょに挙がってきた過去エントリー、これもアプしておきます。
安倍氏亡きあと、初めて、こうして読み返してみたら、なんとも言えないものが ありますわ。。。