2023.01.10 (Tue)
どうにか こうにか明けまして、
はや、『鏡開き』の日とやらが近づきました。
なんか今年は、お天気じたいは、(こちら大阪は)まずまずの穏かな感じでは あったけれど、周辺の街の ようすなどを見てみても、ますます、「お正月らしさ」が薄まったなあ~ってのが全体の実感。
「景気」とかは勿論のこと、まだまだ「コロナ」の問題もね、やっぱり影響してないはずが ないわねと。
いわゆる欧米圏に おいては、もちろんのこと『グレゴリオ暦/太陽暦』に則ってきており、大事な『クリスマス』こそは華やか、かつ厳かに過ごすものと聞いているけれど、ひるがえって新年に関しては、わりとアッサリめ、だとも聞く。なので、日本の伝統とは およそ逆のようでは あるが、それでも、私が子どもの頃までは、やはり煌びやかなムードが伴ってくるクリスマスは、言わば「お正月の前祝い」みたいな感覚なので あり、新年を迎えた厳粛さの重みのほうが、ずっと上まわっていたものなのだが、大多数の日本人は、キリスト教徒でないのに、近年は、いよいよ、欧米圏の流儀に近くなってきたのかなという感じが している。
まあね、ここ近年、私は毎年のように言ってるかもしれないんだけど、わが国でも「本当の お正月」は、『旧暦』『太陰暦(陰暦)/太陰太陽暦』ならば、今年は今月22日に当たるそうですからね。
ま、『お鏡餅』やら『注連飾り』やら何やらは、ごく限られた期間内にしか入手できないのだから、いちおう用意しておきたい向きならば、泣いても笑っても売っているあいだに買い整えるしか しょうがないんで。
それこそ『歳神』さまなる おかたが、音もなく やってくる頃には、とっくに「お鏡」も何も、どこへやらだ。
「はて?われが鎮座する場は いずこにや??」
と、戸惑っておられるやも(笑)
ともあれ、
年頭に当たって、まずは、兎のように軽やかに跳びはねられる腰になりたい、という、わらわの切なる願い(笑)
痛くて動けないんじゃ、ほんとに何も できませんもの。
世間の動静に関心を向けるのも、ブログ更新するのも、ますますメンドクサくなっちゃう。
さてさて、今年の初・大笑いは、やっぱり、これがダントツでした。
『山田五郎 オトナの教養講座』。(笑)
このたびは『徳川家光』の巻。
【卯年・新春開運祈願】
「守株待兎」などという故事由来の難しいコトバは、また、それを踏まえたという『待ちぼうけ』なる歌のことも知らないでいた私だけれど、くだんの兎の絵の画像は、以前、どこかで見かけた記憶が あり、見た瞬間、「目が点(・_・)」になったことを自分で覚えており、しかも、
それが、徳川三代将軍・家光の手になる作であると知って、なおさらに驚いたことも憶えているのだが、
『ぴよぴよ鳳凰』(←ナイス ネーミング!!)に至っては、あのルソーについての解説時と同じく、「涙とともに大笑い」せずには いられなかった(苦笑)
うちの母親の形見の一つで、鳳凰柄の、格式高い帯が あるんだけど、こっちのほうが、家光氏のものより、よっぽど、それらしくて重厚で格調高い出来だけど(笑)
でも、いろんなグッズになってるよね、家光氏の『ぴよぴよ鳳凰』大人気だw
生まれた時代が現代なら、大したアーティストじゃん!ww
いやあ、あのルソーよりもブッとんだセンスのアーティスト、それも将軍さまが、わが国の歴史上に存在したんだぁ。。。感動いたしましたw
ルソーも、みょうなハショリかたと、反面の、異様な細かさを指摘されてるけど、
家光氏の場合も、もともとは、目玉も細かく描写しようと試みたものの(これは けっこう難しいだろうと思うわ)、なかなか上手く いかないから、短気を起こして、真っ黒まん丸に塗りつぶしただけなのかも?
細かく描き過ぎる傾向のために、若い頃、小説の筆を折ったということを、過去エントリーで ちょっとだけ触れたけど、絵のほうでも同様なことが あり、「見えたまんま」が昂じて、ひとたび細かく描きだすと、やめられない止まらない、歯止めが利かず、とことんまで細かくなっていき、
あるときは、学校の美術の授業で、手の部分だけ描くデッサンの課題で、一本のシワを描き込んだとたん、そこから たちまち、見えるかぎりの細かいシワを1本1本描き足していった果てに、
「なんやコレ?おばあさんの手ェかい?」
と、クラスじゅうから嗤われたこともある。
それにしても、当代随一と謳われた『狩野探幽』が直々に指導しておりながらコレかぁ?という些かの疑問は私も湧いたけど、
キョーレツな個性は、天下の名匠、名師匠と言えど、コントロールしきれるものでは ないのだなあ、、、ともww
たしかに、余白の取りかたも、「思いきった」と言うよりは、バランスが、なんか異様なのよね(苦笑)
ただ、この余白には、本来、文章つまり「画賛」というものを書き込めるようにとの目的が あったとか、そういう指摘も あるようだ。でも、結局、誰も、何も書き込まなかったw
それと、
やっぱり、全体からすると、対象自体を小さめに描いてるわよね。
意外と自覚あったんじゃないの?(苦笑)
恐れ多くも指導する相手が相手だから、さすがの狩野探幽も、「勘気に触れる」とかを恐れて言いにくかったのでは?という推察も あろうが、
これは、私の母親が、ある芸事(邦楽関係)の教室を運営していたことから、ちょくちょく聞いていた話なんだけれど、
どう指導してみても、どうにもならない生徒というのは、たまに いるもので、そういう場合、教える側のほうが疲弊してしまい、
「ああ、まあー、それくらいでエエやろ」
と、お茶を濁してしまいがちなものらしい。
うちの母親なんかは、いわゆる「絶対音感」を誇っていたが、それでも、どうにも音程がオカシイ人を教えていると、適当なところで割り切って、「まあまあ、それくらいで」と おさめないことには、だんだん引きずられて、自分までがオカシくなってくるからとボヤイていた。
で、
山田五郎氏も、家光描く動物たちの眼が、まさしく「虚無の眼」「ブラックホールの」云々とか、最終的に、家光氏の多少異常なパーソナリティに対する疑念をも述べるに至り、、、
(あっ、あの『春日の局』か!「上さま!お胤あそばせ!!」とて、キビシく詰め寄っていたwそのせいで、家光氏は、ガチの男色に走ったとかっちゅう?ちょっと違うか。)
私は思わず、
「『皆さまの御多幸と御健勝を祈って』『新春に相応しい めでたい絵を』って、全然ちがうんやないの?それ」
と、ツッコミ入れたくなりつつ、いささか唖然としてしまいました(爆)
【続く】