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とりあえず、ひかりのくに
     
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2019.01.21 (Mon)

『阪神・淡路 大震災』を めぐって

の続き。

 

前振りが長くなったが、さて、

24年前。。。せいぜい数年前くらいに感じられる。

あれで震度7。。。

関西では概ね、大地震が起きる懸念は薄いという(根拠なき)印象だったのだが、去年の地震、また、台風は、非常に恐かったですね。

 

今後は、もっと高い震度で、かつ、回数も増えるというのだから、どうなることやら。

 

正直、子どもを持つことのない人生だったのが幸いであったような気すら してくるよ。

いや、マジに、大災害の多い所で、子どもを産む気になれるというのが、ちょっと理解し難いわ。。。

そもそもが、子どもを産むということ自体、人間にあるまじきほど脳天気な行為と言えなくもないんだろうけど。

 

 

阪神地域とは、ほんの隣りながらも、あの『阪神・淡路 大震災』で、大阪では、比較的に被害が大きかったのは、ごく一部の地域のみ。

辛うじて買い出しに来阪することが できた被災者たちが、梅田あたりの通常と変わらぬ賑わいに、まったくの別世界、と呆然のていであったほどだ。

 

しかし、あの大震災を経験していたからこそ、東北の甚大災害が起きたとき、遠い地域の他人事とは思えなかった面も ある。

 

 

私の周辺では、当時の勤務先の同僚が亡くなっている。まだ20歳代の若さだった。

この同僚は、居住していた周辺地域自体の被害度は低かったはずなんだが、一人暮らしの住まいであった室内に、将来の目標とか趣味としての方面での本を大量に置いていて、それが崩れ落ちたなかに埋もれるようにして亡くなっていたということだった。

1冊1冊は知れていても、書籍類とて、大量のものがイッキに崩れると、恐ろしいことになるんだなと、あらためて認識したものだ。

 

大阪のなかで、被害が大きいほうだったのは、豊中周辺が そうだったし、私も、初めて一人暮らしを開始したのが、あのあたりだったのだが、資金に乏しかったため、大型の家具などは、まだ殆ど揃えられなかったのが、ある意味、よかったのかもしれない。

うちも、比較的に大量の書籍類を保持しているクチだが、当時は、一つだけ運び込んでいたガラス扉付きの本棚に、全部を収めるのは後回しになっていて、ほとんどは、ダンボール箱のなかに入れたままだった。

 

じつは、当初、神戸方面へ引っ越すことも視野に入れていたんだ。なかでも岡本とか芦屋周辺とか、私が生まれた街に似た、閑静で落ち着いた雰囲気が好みなので。

でも、大阪のなかでも北部の、豊中に ごく近いあたりで気に入って決めてしまい、それから しばらくして、あの大地震。

もし、当初の希望どおり、阪神間に引っ越していたら、どうなっていたことか。

 

 

その瞬間のこと、まざまざと憶えてる。

たまたま、私は起きていた。

再び書き綴るのが、これもダルイので、一言。

 

入居した部屋は1階じゃないのに、ゴオ~という地鳴りのような音が、足の下から微かに聞こえ、青白い閃光が走った。

 

 

それと、あとから知ったのは、うちの親が、これも じつは、淡路島に移住しようかという話が、少し前に出ていたのだという。

そのことを初めて聞いた私が、「なんで また、べつに縁も ゆかりもない淡路島?」と問うと、父親自身も、

「そうなんだよ。なんで あのとき、淡路島に引っ越そうと思ったのか、今となったら、おれ自身、よく分からないんだよ。ただ、テレビ番組で、淡路島の特集やってたんだ。おかあさんと いっしょに、それ見てるうちに、なんだか、その気になりかけてたような」

と言っていた。

 

まったく、気分屋の両親だ。

子である私なんかは、どこに引っ越そうか、その理由なども、ある程度、はっきり意識していたというのに。

 

 

先述した同僚の話に戻る。

あの頃、私は、直接、出張先で仕事していて、長期間、帰社しなかったので、彼の経緯は全く知らないでいたのだが、

出張も一段落し、久しぶりに自社へ戻って来たら、なんとなく、違和感が あった。

さりとて、それを意識に上せることもないまま、上司に促されて、示された空席に座っていた。

 

この会社では皆、各地の出張先で仕事していることが多く、いつも同じ席に座っている社員は、ごく僅かなので、それ以外の者は、どこでも、空いてさえいたら、勝手に座って作業する。私も、そのとき、上司が、ここに座ったら いいよ~、と言われたので、そのとおりにしたのだが、

ほどなくして、違和感の原因が、かすかに分かったような気が した。

 

「そういえば、この席って、いつもは、あの男の子が座ってたのに」

きょうは休んでるか、出張に行ってるのかな?と、さして気にせず、割り振られた作業に とりかかっていた。

 

そのうちに、どこからともなく、線香の香りが濃厚に漂ってきた。

 

はて、夥しいビルが立ち並ぶビジネス街ど真ん中のオフィスの すぐ近くに、お寺とか あったかしら?と思いつつ、やはり、たいして気にもせず、作業を続けていた。

やがて、昼休みになり、同僚の女の子たちと共に、飲食店へ出向き、昼食を注文しているあいだに、事情を知ったのだった。

 

 

他の かたがたの話と共に、ある、娘さんを亡くした かたの話を、いまでも思い出すことが ある。

 

就寝中に、一緒に被災して、娘さんの上には、たしか、大きなタンスか何かの重い家具が のしかかり、おかあさんのほうも、同様に、上に何かが のしかかっていて、全く身動きが とれない状態。

暗闇のなか、娘さんの すすり泣きと、苦しがる訴えが聞こえてくる。

おかあさんは、なんとか正気を失わせまいと、救助が来るまで耐えるように励まし、叱咤するのだけれど、その すすり泣きが、徐々に弱まっていく。

だが、どうすることもできない。

やがて、おかあさんの必死の呼びかけに、ぱったりと、応えなくなった。

 

それから数年ほど経った頃、私は、このかたの話を、新聞で読む機会が あったわけだが、

当時の談話によると、
いまでも、親しくしていた知人などに、ついつい、亡くなった娘さんのことを話し出してしまうのだけれど、そうすると、その知人に、
「いつまで、そんな話を しているの!」
と、呆れたように言われてしまうんだそうな。

 

 

なんと無神経で、優しさや思いやりに乏しいのかと思ってしまった。

これほどの災いに酷く傷ついて、苦しみが癒えていない人を叱りとばすなんて。

私は、こういう人も苦手。ハッキリ言って、きらいだ。

 

せんぐり せんぐり話そうが、時間が許すかぎりは、あるいは、まとまった時間を つくってでも、とことん聞いてあげれば いいじゃないかと思うの。

私なら、そうする。

そして、自分も知る故人の思い出話や、私個人は、何らの宗教的なことに傾倒するものでは ないが、故人が、もしも、言いたいことが あるとしたら、大切な おかあさんを案じて、これからの平穏を望んでいるはずよと、そういった話で応じるだろう。

 

 

でも まあ、世のなか、いろんな思考回路や感覚の人が いるわけで。

悲しい、辛い話を聞かされると、自分まで落ち込んでしまうから迷惑だ、と思うタイプの人も いるだろう。

 

その知人のかたは、たぶん、終わってしまったことばかりを思い出さず、前向きになりなさいよ、という励ましのつもりだったんだろうと思う。

 

だけど。。。

 

あの おかあさんは、少しは元気を取り戻されているだろうか。
どうか、そうであってほしい。

 

 

うちの両親の祥月命日も、1月だ。

母親に比べて、年齢が ずっと上だった親父は、女房の あとに続くのに、そこから十数年ほども遅れたが、結局は二人とも同じ月の、似た数字の日が命日となった。いかにも腐れ縁のバカップルらしいわいw

ま、生きてるうちに縁切りしたかった私は、とくに何も する気ないんだけどw

 

 

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