2019.01.11 (Fri)
まず、思い当たるのは、インターネット。
こんにち、ほとんどの人が頷くことと思う。
これと同様に、医療の分野でも、機器の発達・発展と共に情報量の膨大な増加と、それらを捌ききれないといった、現場の問題が持ちあがっているらしい。
このエントリーは、下書きしたまま、毎度のごとく、ブログにアップできず、放置してあったのだけれど、年末に、これらの記事を読んでは いた。
『東大病院、画像診断書「未開封」4割…主治医の確認形骸化』12/28(金) 9:55配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181228-00050000-yomidr-soci
『がんの「画像見落とし」はなぜ起きる? 放射線科医が語る“原因”』
https://www.fnn.jp/posts/00397050HDK
読んでいるうちに、何かに似てるなあ、、、と感じ、
あっ、そうか、と思い起こしたのが、かつて、自分が従事していた職業のこと。つまり、校正・校閲の部署でも ありがちな問題だったのだ。
掻い摘んで言うと、たとえば、私の経験では、制作部署のライターが、チェックお願いね、と言って回してきた原稿を、各段階に おいて、校正・校閲で、可能なかぎり、全チェックする。だけど、ライターにしてみれば、自分が見落としていたり、リスクが隠れているとは思いもしなかった箇所すべてを挙げつらってくれるのは、なんとも頼もしく思う反面、やっぱり、ずらずら並んだ、それらに目を通せば、その分の時間を取られるばかりか、ヘタすると、思わぬ大仕事やメンドクサイ作業が増えるわけだから、鬱陶しく思う面もある。
これは、私自身が、もともとライターから出発してるので、気持ちは大いに理解できるのだが。。。
まあ、私なんかは生来が横着だし、けっして、仕事が早いわけじゃないんだが、紙媒体では、各段階に応じて、優先順位を つける、
と言うとカッコイイかもしれないが、それなりの「手の抜き」ようが ないこともないのでw
実際問題、締め切り押せ押せの仕事は、そういうふうに、うまく「手抜き」していかないと、次の段階に なかなか回せない。
これの融通が利かないクソ真面目しかないタイプの先輩社員のトバッチリが、全部、私に被せられた苦い経験も ある。
けっこう人が良いんでね、私もwwそのうえ、こちとら、はっきりと障碍者であるということを明らかにしたうえで中途入社してたから、ヒケメも あるのよ。
過去エントリーで、この、「仕事できない」先輩社員について幾つか書いたことあるんだけど、いまにして振り返ると、彼女、何らかの内部的な、つまり、精神とか発達系の問題が あったんだと思うってこと。
それだけなら、責める気持ちには ならないが、
なにしろ、劣等感の裏返しなのか、えっらそうに言うタイプだったんでねw
最終的には、ネタミの塊りみたいな性質の人なんだと見極めて、すっぱり切ったけど。
一言で言えば、この人の場合も、「自己保身」が過ぎるタイプ。
自分の立場が不利になるのを、病的なくらい恐れるがゆえ、立場の弱い者へトバッチリが行こうと、かまってられない、という、余裕のない人。
生活や生きかた全て、そういう方針で、どんな些細なことにも用心深い。たとえば、カゼ?と、ちょっとでも思ったら即、病院へ駆け込む。
それでいて、あるいは、有給休暇を、全く、とらなかったりもする。
こういったことも、広い視野で見たら、社会的に弊害が あるものだね。
(生活費全般をケチってでも、『宝くじ』だけは、希少な楽しみとして購入しているらしいがw)
それは、何ごとにも手抜きせず、慎重に丁寧に進めるという、一見、美質のようでも あるんだけれど、私に言わせれば、本質は、自己中だ。
だってね、
ふつう、1、2回も見直せば済むはずを、10回でも20回でも、同じところを確認してる。
こんなの、ビョーキでしょ。
そうやって、ふつうなら、ものの5、10分もあれば終わるはずを、1時間でも2時間でも かけてる。
むだに時間を費やして、自分は安心感を得るかもしれないけど、誰が、そのシワ寄せを受けるんだ、ちゅうの。
それで、「(障碍者のくせに)仕事が早い」というんで、私という後輩社員を陰に陽にネタムわけ。
精神だか何だか知らないが、迷惑がられても しゃあないやろ、これじゃ。
…
でも、校正・校閲部署の基本的責務として、「ん?」と思った箇所は全てチェックし、訂正させるべき箇所は、ライターを叱りつけてでも、訂正させなくては ならぬ。単なる外注の業者の立場だったら、いーから、とにかく訂正!とまで言う権限も必要もないので、クライアント側に、ほっといておくれやす、と言われたら そこまでで、あっそーですか、で済むだろうが、それにしたって、いちおう、ひっかかってくる箇所は、それとして指摘したうえでのこと、ましてや、同じ企業のなかでの制作部署と校正・校閲部署だと、畢竟、同じ会社の者どうしなんだから、「そりゃ、こっちの話でさ、ほっといてちょ」「あっそ、どーぞ御勝手に」では済まないからね。
しかも、どっちかと言うと、分が悪くなるのは、校正・校閲側なんだから、ライターは、もの知らず、感覚だけで書き散らす脳天気、くらいに思っておかないと(笑)
けれども、コレぜったい訂正なっ!!というレベルでは なく、「このままゴーして だいじょうぶ?」程度の微妙さだと、担当ライター側がウンともスンとも反応しない場合は ままあり、最終段階に至るまで、しつこく延々とダメ出しを続ける。だって、世間に、その出版なり印刷物が出回った後になってから、「あーっ!?なんで言ってくれなかったんだよお!!」てな責任転嫁されたくないもん。だから、証拠を残す。
さて、医療の分野で起きてるという、CTやMRIなどの画像から得られる情報量が膨大になってきているうえ、「読影」方面の専門医が不足しているという内容の記事。
日本では、CTやMRIの機器が、アメリカを上まわって設置数が多いということなので、少々驚くと共に、そうなると、読影の専門医不足という現象にも、なるほどなと思わされた。
まず、「開封」ボタンの問題について、「未開封」でも、実際は読めるようになっているのは、現場でのチームワーク上の必要が あってのことらしいし、ボタンの使い勝手には、さしあたって、くふうと改善の しようが ありそうに思える。
それ以上に、「読影」専門医の養成を急ぐのは勿論だろうが、
何段階かに分けて、改善策を設けるとともに、やはり、ここでも、患者の「自己選択」の必要性が出てきていると言えるのかもしれない。
これは、当エントリー冒頭に挙げた、特に、インターネットに接して、多くの人が、昨今の情報量の膨大さのなかで、いかに選択していくのかということの重要性と共通していると思われる。
日本人というものは、もともと、「パターナリズム」を好む国民性が あるように見受ける、というのは、従来から私は指摘し続けてきたけれど、
こと、医療の分野において、こういう傾向性は昔から顕著だったし、医師も患者も、それを好んでさえ いたと思う。
ごく近年に至って、「インフォームド コンセント」とともに、患者自身の自主性や自己選択というものが重視されてきているようでは あるが、それでも、まだまだ、やっぱり「先生、先生」となりがちなのが現実だろうなあと思う。
うちの母親みたいに、漢方医の父親を手伝っていた子ども時分や、医師になった弟のことを思うにつけ、「ワタシだって、ワタシだって、男にさえ生まれていたら」では あるまいけれど、医師に向かって、
「先生、あの薬を出しなさい!」
てなセリフを吐くというのはトンデモナイことには違いない(苦笑)
だいいち、ヤバい話なのだ。
これは、かれこれ30年ほども前のことでは あるが、
くだんの「あの薬」というのを、うちの母親が執着し始める頃になってから、当時の母親の かかりつけ医は、ぴたっと、処方することを止めた。
そして、母親は、「先生、あの薬を出しなさい」と、命令口調で のたまうに至った。
ちなみに、その主治医の家庭では、夫人が三度ほど変わっている。
最初と2番目の奥さんは、いずれも、若くして、謎の(?)死を遂げているらしいという話が、近所では密やかに流布していた。。。
(株に凝っているらしく、診察の途中でも、株屋から電話があると、あーだ こーだと長電話でウンザリする、とも言ってたなあ)
私自身も、急病のとき、この医師に特別に往診、注射してもらったあと、なぜか、症状が急激に悪化し、一晩じゅう苦悶で七転八倒したことが あった。
当時は、何らの疑心も持たぬまま、ついに、救急を頼んで、他院に緊急入院し、一命を取留めた。
その入院時、容体が回復し始めてから、かねて、学生時分から困っていた腰痛、これは多分「椎間板ヘルニア」というものなんじゃないかと自分で推察していたのだが、ことのついでに、こっちも調べてもらおうと思って頼んだレントゲン撮影。
いま振り返ると、なぜ、ほぼ裸にならないと いけなかったのか、よく分からんのだが、そのレントゲン室にて、背中から腰のあたりまで撮るための、ベッドのような台に横たわり、ふと、室内外を隔てている壁に穿たれた小窓を見たとき、
そこには、担当の技師のみならず、白衣を着た男どもの顔が、スズナリ状態になって、全員、こちらを凝視していた。。。
いずれも、何だったんだろうか、あれらは。
この話、旧ブログで書いたことあったかなあ、憶えてないんだけど、そのうち、詳しく書いたろうと思っていた。
さて置き、
その後、他の病気で手術前に受けたCTやMRIに関しては、あの頃は、いまよりも、もう少しだけ、撮像時間を要していたと記憶する。
技師が出す、息を止めたりする指示が、聴力障碍者の私には聞こえづらくて、何度か やりなおすハメになり、ご迷惑を かけたことも思い出した。
その前の時代は、もっと時間が かかってたらしい。
当時の隣家の おばさんが、MRIを受けて、けっこう長時間かかるあいだに、だんだん、気分が おかしくなってきて、錯乱したんだって!と、うちの母親が、なかば呆れてたけど(苦笑)
話を戻して、
「何段階かの改善策」というのは、たとえば、安価にして基本的に有用な機器であるレントゲン以外に、高額となるCT(CTスキャン。コンピューター断層診断)やMRI(磁気共鳴画像診断)を受けるかどうかの選択、
そして、受けたならば、その結果を、どこまで知らせてもらうかの選択、
あるいは、もれなく全体の読影結果を知らせてもらうか否か、否の場合には、そのとき診察・治療を受けようとしている箇所のみに絞って留めるか、やはり、全体的な所見を知らせてもらうのかの選択、
また、全体的な読影の結果、もちろん、多忙を極める主治医の負担を、これ以上にも増やすのは よろしくなかろうので、主治医の専門分野以外の箇所で見受けられる懸念が あった場合には、ごくシンプルに、簡潔に挙げることを前提として、主治医または画像診断専門医側から、それに相応した専門部署に知らせる、ただし、これも事前の、患者側の選択による、といった方策は どうだろうか。
いずれにせよ、患者側の主体的選択が重要になってくるだろう。
また、この選択の各段階に おいて、従来から当然のことでは あろうが、患者各自の経済事情が左右することも起き得る。
経済的事情ゆえの選択は、主体的選択とは言い難かろうが。。。
政治分野の情報の的確な取捨選択も そうなのだが、
自分や家族の病気に関する取捨選択にも、情報の蓄積と見識、哲学のレベルまでもが問われる時代に入ったようだ。
患者も、そして医師にとってさえも、「パターナリズム」の心地良い揺り籠から、いよいよ這い出なければならないのか。
おめでたき、単純な「しろうと」であることが許されない時代。
「しろうと」にとって、そして、専門家にも、厳しい時代になりそうだ。