2024.08.08 (Thu)
目下、『フランス』で開催中の『オリンピック』だが、
私は、いつも、ほとんど興味が なく、関連記事も、ほぼ一切、読んでいないのだが、
ただ、『性未分化』という疾患?障碍?この問題が、よりによって、最も男性的な競技の一つである「ボクシング」の競技で、しかも、出場している女性選手のなかに おいて勃発したという話題を知り、かなり驚いた。
そう言えば、
昨今の「性自認」や「同性愛」などといった話題の盛り上がりにつれて、当ブログの過去エントリーでも述べたことが あった。
故 遠藤周作氏の、軽妙なエッセイのなかに、
ふつうに女性として生まれ、そのまま女性として、ふつうに結婚したヨメさんが、じつは、潜在的には男性である場合も存在する、その見分け方の一つに、肛門の周囲に触れたら、なんだか固いものが感じられるということが ある、それに対し、ほんとうに女性であれば、肛門の周囲は、なんとなく陥没する柔らかさが あるものだ、というふうな、そういう くだりが あったのを憶えている、と。
かの「性未分化」女性選手の出場を全面的に支持、擁護するスタンスの人たちが主張するところの、
染色体だとか、直接の性器部分は勿論のこと、卵巣あるいは精巣などの生殖器、いろいろな判別要素の どれかを取りあげて決定することは できないのだということは、
たしかに、
「性別の分かれ目」も、「スペクトラム(連続体)」のように、一つながりのものであるから、単純に、どこから女性、ここから男性、というふうには いかないのだろう。
しかしながら、
各々の性別を分ける様々な要素の全てが、一つ残らず揃っている人は、どれほど存在しているものだろうか。一般的な範疇の男性ならびに女性の場合に おいてさえもだ。
あくまでも「外側から見えた」範囲で、シロウトの眼で、女児と判断されただけ、
以降、「女性として生まれたものと扱われ、女性として生きてきた」からという、
それだけで女性ということにするのは、いわゆる「性自認」、あくまでも本人が、自分の性別を決めることが できる、したがって、本人が自分で決めた性別について、他者がツベコベ言う資格は ない!として退けてしまうのなら、
実際には男性として、または、女性として生まれたけれど、本人としては、もとの性、戸籍上の性別に、どうしても違和感を拭えないまま生きてきたゆえに、
「自分で納得できる、違和感のない性別に適合させる手術を受けた」
というケースと、根本は共通しているのじゃないかと思える。
私なんかは、過去エントリーでも述べたように、
ある日の朝、起きてみたら、なぜか男性になっていたとして、もちろん、最初のうちは、ひどく困惑するに決まっているが、さりとて、女性に戻る すべもなく、医学的な問題も起きておらず、生活上の支障さえカバーできておれば、日が経つに つれ、自然と、その状態に慣れていくような気が する、
要は、自分が女か男かについて、それほどには拘る気が薄いのだ。
ちなみに、私自身は、あくまでも外見については だけれどw少なくとも他者の誰からも、いたって女性的なタイプだと言われてきた。
そりゃそうだ、「生まれて7日目で、生理になってた」くらいだもの(苦笑)
それは ともかく、
もし、同性に恋愛感情を持ったとしても、実際、まあ全然、平気だしw
同性愛か異性愛か、それについても また、拘る気が薄いということ。
結局、性別が どうだろうと、
私は、このままの私でしかない、って感覚なのだ。
なので、
リスクの高い手術をも辞さず、いわゆる性転換せずには おれない!という人たちの激しい心境は、正直なところ、あまり、理解しきれていない。
加えて、
リスクを避けるため、手術はナシ、現状の肉体のままで、耐えられないほどの違和感も ないので、あくまでも気持ちの上だけの「性自認」を、分かってくれ!!と叫ぶ人の心情もだ。
さて、
くだんの「性未分化」なる「女性」選手の場合は、各方面からの話を聞くかぎりで、かなりの程度、男性に近いのが本当の ところで あり、
もっとハッキリしたケースでは、子宮は ないが、精巣は ある、というのなら、それは もう、外見上の性器に かかわらず、男性であると見做すべきが妥当だろう。
それらしく見えない性器の問題は、要するに、形成不全といったところか。
染色体の「X」から、太古に おける突然変異だか異常なのだか、部分欠損して「Y」になったと思しいのと同様、
そもそも、『キリスト教』などの お説とは真逆なのが、この世の現実で、女性がデフォルトなのであり、解剖学的に見ても、男性器は、女性器の突出的変形だろう。
それゆえに、
女性が基本なのだから、女性・女性性というものに対する好意的感覚が大きく、違和感も少ない傾向は、本能的で自然なことだと思う。
どちらかと言えば、男性のほうが、女性に変われたらという「原点回帰」とか憧れのような願望を持つ人のほうが多いくらいでは ないだろうか、
と思っていたのだけれど、
実際には、やはり、いまの性別のほうが慣れているわけだし、「この性ならでは」の醍醐味も楽しみもw双方に あるわけで。
こまごまとした制約や、やるべきことが煩瑣で、毎月の負担である生理や出産を受け持つ側の多くの女性が、男性に生まれ変わってみたいと思うのは、第一には、日常的な面で、いろいろとラクそうな感じも するからだろうが、
男性が、女性に変わってみたいと思うのは、単純な好奇心が最多に せよ、基本的には、意外と小心で保守的なタイプが多い男性は、いまの性別しか知らない、慣れた性別では あり、あきらかに、一般的男性特有の一大欲求が、ずばり、性欲なのであるから、これに執着しているということも あるのだろうw
くだんの、ボクシングの選手のケースは、いわゆる「トランス ジェンダー」問題とは関係ない、混同するな!と言っている側のほうが、敢えてのように混同していると思える。
実際、世のなかでは、それに乗じた犯罪すら起きているのだから、
ずばりと指摘するが、
この問題について、「女性として生まれたものと扱われ、女性として生きてきたから」それを最優先に尊重すべきだ、という、一見もっともらしい主張は、少なくとも、このようなケースでは、間違っていると思う。
なぜなら、
喫緊の問題は、あくまで「ふつう」の範疇の女性としての肉体を有している人にとって、現実的な危険性が高いゆえに。
最低限、このことは解決しなければ ならない。
ずばり、危険だからだ。
この危険のために、不公平な事態に甘んじなければ ならないのでは、やはり、歪な状態でしかない。
「男女平等」という、あくまで表面的なタテマエのために、では、男性と同等の力仕事などを、女性も やるべきだ、という主張が愚かなことは、誰だって分かるはず。
それこそ、男性に向かって、妊娠、出産を強要するのと同じ、無意味で愚かなことだ。
それと共通した問題を孕んでいる。
「気持ちは女性」でも、実際には、肉体的機能上、女性の範疇を大きく超えていることから生じる、生命の危険性レベルすら起きている場合、その危険を避けるため、チャレンジや参加を諦める側の不利、不公平は、どうしたら いいのか。
とりわけ攻撃性の高い競技の場合に、「本人の気持ち」だけで通してもよいのだろうか。
これは、無視できない現実だ。
「性未分化」女性、男性に ごく近い肉体機能を持つ側の擁護を敢えて貫きたい人たちは、ついに不幸な事故が起きる前に、「気持ちを尊重」だけの次元ではない解決策や理論構築を しておくべきだろう。
そのことが いよいよ明白になったのが、今回の『オリンピック』だ。
やはり、いろいろと、考えなおさなければ ならない、構築し直さなければ ならない面が出てきていると思う。
「重量挙げ」競技に おいても、もとは男性だった選手が、女性に転換し、女性用の競技に出て、やはり、問題視されていたようだし、
すでに、そういう「本人の気持ち」事例を認めてしまっている『IOC(国際オリンピック委員会)』は、引くに引けない状態に なってしまっているかのようにも見受ける。
いろいろと問題も多々になってしまった『オリンピック』そのものに関心が薄い私は、これからは必要ないものとして、いっそのこと廃止か、
発祥の地『ギリシャ』の専権イベントにでも してしまえば いいのにとか思っていたのだが、
今後も無理してでも、ずっと続けていくのであれば、特に男性的、好戦的な、攻撃性の つよい種目は、オリンピック競技から外すということも視野に入れるほうが いいのでは ないか。
それで、とくには差し支えもないだろう。
だって、たいがいは、どの競技にも、それぞれに専門の、最高レベルの大会というものが あるんでしょ?「世界選手権」とか「ワールド カップ」みたいな。
あるいは、『パラリンピック』の一分野に入れてしまうとか。
そうそう、
「自分は女性だと思って生きてきたのに、実は男性だと、そういう検査を受けて、そういう結果が出たなんてことを知られるのは嫌でしょう」
とか言って、「性未分化」選手の擁護を展開している人たちも いるようだが、
いや、
オリンピックを筆頭として、大きな公式大会に出場する場合には、何の医薬品を、いつ摂取したとか、「ドーピング」検査も厳しく行われるのだし、違反が発覚したら、それは、世界的に知らされるわけだし、
しかも、
それこそパラリンピックに出場するとなったら、「知られるのが嫌」も何もないじゃないですかw
私だって、黙っていたら知られずに済む障碍持ちだけど、いろんな方面で、余儀なく、思いっきり知られまくってるよ?ww
それは、敢えて知られておかないと、周囲にも迷惑だし、私自身、ともすれば危険だったり、困ることが多いからです。
そう言えば、
陸上競技で、現代の最先端技術を駆使した義足を利用している選手のほうが、いわゆる健常者の選手よりも有利なのでは ないかという逆転現象についての議論も あった。
さて置き、
私は、かねてから観察し、察していたのは、
出生時に持って生まれた性別、あるいは、単に、その肉体から もたらされる影響というものは、終生に渡り、無視できないほど大きくて、結局のところ、厳しい話だが、当の「本人の思い」とは全く関係ないのだ、ということ。
実際、
ふつうに男性として生きてきて、ふつうに結婚して、子どもの二、三人、ふつうに持ったのに、
奥さんですら「青天の霹靂」とショックを受けるくらい突如として、女性になるための手術や投薬を続けても、妻の眼は誤魔化せない、それは、子どもに対する態度や感覚に あるという。
長年、連れ添った妻から見れば、「女性になったはず」の夫の、子どもに対する態度は相変わらずで、もとのとおりの父親としてのものでしかなく、妻側の、母親としての それには及ばない、根本から感覚が異なるという、
そのことは、「女性になった」夫自身、素直に認めざるを得ない、ということだったが、
ま、そういう夫妻の実例も存在する。
つまり、もとは男性だったのであれば、どんなに手を尽くして女性化したつもりでも、やはり男性だなと思えるものだし、
もとが女性の場合に、どんなに男性化したつもりでも、やはり女性だなと思えるわけ。
それが、多くの場合の客観的現実。
むかし、
「欽ちゃんの」ナントカいう番組内のコントで、
「心が大事?そりゃいいわねえ」
「見えないもんね、心は」
てなセリフが、笑いを誘っていた場面を思い出した。