2017.08.12 (Sat)
結論としては妥当、まあまあ合格ラインだろう。
が、やっぱり、ただしておきたい点は何ヵ所も見受けられるぞ。
私個人的には、こういうことのために、ブログ エントリーをアップしなければならないのかという苛立たしさは募っている。
いいかげんにしてほしいのだが。
安倍政権すり寄りメディアの定番というのは、あらかた分かってきてるので、そんなものに、わざわざ、目を通す時間を割くのはマッピラ・カンベンだけど、
ある意味、もっと始末が悪いのは、こういうところの記事。↓
『「撤回」が流行? “政治家の失言”その裏にある本質とは』AERA dot.福井洋平
(以下、当該記事より抜粋文中の文字強調は、当ブログ主によるもの)
「政治評論家の木下厚さんは、『小選挙区制が導入されて派閥の力が落ち、党内で議論する下地がなく』」
派閥の力が落ちたからという理由付けは、そのとおりとできるのかどうか、私は疑問に思ってるけど
(だいたい、自民党の場合に限っては、そんなことを言うが、野党、特に民進党あたりだと、やれ「またも党内分裂」だ「しょせん一枚岩では ない」だの言うよねw)、
まぁ、それは置いといてだ、
「『今は目の前の聴衆へのパフォーマンス目的で、ブラックジョークのうまさが答弁のうまさだと勘違いしていることから生まれている』
冒頭の務台氏の失言は、まさにこのパターンだろう。」
なんのなんの。まだまだよ。
「眼の前の聴衆へのパフォーマンス目的でブラックジョーク(←どの人のも、上手いとは全く思えんのだがね!w)」云々と言うのなら、それこそ、麻生さんを忘れちゃいけませんやろ。
そう、あの「ナチスに学べ」発言です。
私は「しつこく」w覚えてますぞ。
今後も、決して、忘れることは ない。
そのときの「眼の前の聴衆」が、この「ブラックジョーク」「パフォーマンス」を、大喜びしていた、ってこともね。
あれも、たしか、『日本会議』関係の場における発言だったという。
ま、ヘタな芸人化してるってことだ。
それと、これも、わりと近頃になって知ったことの一つだが、
いちばん「悪臭の元」アベシが会長だという『創生 日本』とかいう会合での「パフォーマンス」か本音だか知らないが、要するに国民主権を なくせ!(なくさんと、本当の自主憲法でないウンヌン)
といった内容のトンデモ発言ね。
会長アベシは終始「おかま」まる出し内股座りっぽい腰掛けかたにナヨっぽい手つきでもって、ぱちぱち嬉しげに拍手を繰り返しておったわ。
なぜ!こんなのが!!
日本の(他国のなら嗤ってるだけで おれるかもしれんけど)、
よりによって日本の首相なのか、私には わからん!!!
失言の多くが「内輪」の場で発せられていることからも、この心理が読み取れる。日本ではまだ失言扱いされるが、米国ではもはやそれが失言とすらとらえられず、トランプ政権誕生にまでつながったと下條教授は言う。
それは違うよ。
すでにトランプ氏側からも認めているように、
むしろ、日本のほうが先行していたんです。
この教授さんも、当該記事の筆者さんも、それが分からんの?
まだしもアメリカは、トランプ政権誕生前も直後からも、批判の声が日に日に大きいだけ、感情鈍麻みたいなまま「パターナリズム」どっぷり日本国民よりも幾分かはマシだと思えるわよ。
それにしても、いまのアメリカ大統領、北朝鮮とのガキじみた応酬を見ていると、ほんとうに、アメリカ人は、軽薄な人物を選出してしまったもんだなあと、あらためて呆れるわ。
いま、なぜか、あっちこっちの国で、
歯の浮くような、かつ、支離滅裂セリフを吐いて、そらぞらしく誤魔化そうとしながら、上着の裾を翻すたびに黒い腹をチラチラ見え隠れさせつつ、傲岸不遜をトレードマークみたいに誇示する、といったスタイルのトップを持つ国が散見される、けったいな時代になってしまってるけど、こういう手合いが、国家の最高権力に就いてしまうと、たちまちにして、各国一般庶民を巻き添えにキナ臭くなる、その見本を、われわれも目撃している最中なのだ。
「政治家側もその風潮に乗っかり、失言に対するマスコミ経由の批判を『マスコミは信用できない』『文脈を無視して切り取られ、真意がゆがめられた』といった言い方で切り抜けることができるようになった」
いや、全体の文脈は重要なんです。
マスコミ界は、文脈をシッカリと紹介し、かつ、鋭く切り込んだ分析を伝えること。
歪んだ信念や軽率な思想モドキから本音を垂れ流して必然的に失言してしまう、あるいは、その価値観を同じゅうする内輪の場で舞い上がり、ついつい漏らしてしまうような愚物セイジ屋を逃がさないためにも。
でないと、
せっかく捕まえた忌々しい失言(本音)についても、その報道の仕方如何では、無知でアホな国民や、こうした政治屋のシンパどもから、ここぞとばかり「マスコミ不信」ネタとして、逆活用されてしまうのよ。
肝に銘じてくださいね。
人は聞きたい、信じたい話に耳目を開き、受け入れる傾向がある。ネットの普及でその傾向はさらに強まっている。近現代史研究家の辻田真佐憲さんは、ネットの普及で左右を問わず既存メディア全体に対する不信が広がっていることにも注目する。
「政治家側もその風潮に乗っかり、失言に対するマスコミ経由の批判を『マスコミは信用できない』『文脈を無視して切り取られ、真意がゆがめられた』といった言い方で切り抜けることができるようになった」
「政治家の発言についてすべて生のソースにあたって確認することには限界がある。メディアの力が失われれば、困るのは国民のほうです」
~
ライターの武田砂鉄さんは、「政治家の失言をしつこく覚えておかなければいけない」と強調する。
「メディアは失言ばかり取り上げて政策論争をさせないという批判がありますが違うでしょう。失言は政治家の本音を表し、その向こうに政策がある。失言=本質と考え、揚げ足を取り、言葉尻をとらえ続けていく必要がメディアにはあると思います」
「誤解を与えた」と言い逃れ、放置すればいずれ国民も忘れる、という成功体験を政治家に与えてはいけない
そのとおりです。
「人は聞きたい、信じたい話に耳目を開き、受け入れる傾向」
「失言=本質」、また、その者の本音であるというのは、心理学でも早くから指摘されていること。
大局的な政治方面とか、われわれ一般国民生活に影響してくる重大なことに関しては、「受け入れる」かどうかについてだけは、日常ぼんやりウッカリな私自身だが、世間の表面的で浮ついたムードや「空気」に流されないし、わりと、最初の直感が働くほうだけど、
われわれ一般人が入手できる情報は、どうしても、個々に限界が あり、この「情報洪水」時代に おいてさえも、決して、万全・満足できるものは なかなか ないのだから、結論を出すのに、そうとうの時間も かかりがちながら、検証も厳しくしているほうのつもりではあるけれど。。。
『マスコミに告ぐ。』
【続く】