2019.08.29 (Thu)
『【続】「弱者」は『超人』の夢を見るかw』の続き。
『パラリンピック』の世界にも、「能力主義」の問題が大きくなってしまっていることを取りあげている記事も あるが、
そもそも、スポーツの世界というものが、「競技」という別名もあるとおり、競う世界であり、
現代では、資金が かかる、殆どカネ持ちの「道楽」のような面を持つようになっている。
しかも、身体的ハンディを持つ者が、(高価な)装具の飛躍的発展に支えられて、どうかすると、「健常」の選手よりも上回る記録と迫力を具現してみせるので、
観るほうに対しても、いやが上にもな「感動ストーリー」を供給する。
そりゃあ、間違いなく、ここも「競争」と「能力主義」の新しいステージなんだね。
ところで、
ずいぶん前、かれこれ数十年近くにもなるだろうか、かなりのブームめいた現象が起きた、というのは、
とある先天的重度障碍を抱える お子さんで、ことばを発することも、自分で意思表示を行うことも困難なのだが、
母親の介助によって、驚くべきほどの警句や詩的表現を示してみせるというので、それを取材した『NHK』の番組を、私も見たことが あった。
NHKは、あの頃、こうした傾向の番組を時々打ち出していたように憶えているのだが、いまでも、そういう路線は あるんだろうか、私は、テレビを見なくなって久しいから分からないけど、
プロデューサーかディレクターか知らないが、問題ある見識だと思う。
最初のうちは、感動と言っていいほどの驚きを覚えたものの、
しばらく見ているうちに、なんとなく不審を もよおしてきて、
その番組を見終わる頃には、何か仕組まれているかのような胡散臭い宗教のような感じが拭えなくなっていた。いまどきで言う「スピリチュアル」臭い。
その子の親について、しばらく経った その後、「虐待に等しいことを している」という指摘が出ていたようだ。
どうやら、その子の母親自身の手による「ポエム」なんだろう。
要するに、
「障碍の代わりに、こんな「ギフト」(才能)が」
という、
ここでも、美談、感動という味付けの、一種の「能力主義」なのだね。
ただ障碍、それだけではダメなんだろうな。
それを補って余りある才能とかが備わってないと。
障碍者は、「ありのまま」では許されないのよね。
「超人に対する憧れは、現状の強烈な否定と裏腹な関係にあります」
(:竹内章郎氏 談)
そうね。
「現状の強烈な否定」。。。
ドストエフスキー『罪と罰』の主人公「ラスコーリニコフ」なんかも連想するところだ。
(ちなみに、二十歳前後の頃、『地下室の手記』を読んでゲラゲラ笑ったという話を、旧ブログで書いたことが ある。ドストエフスキーにも特有のユーモラスな面が あるもんで)
ニーチェだって、内心に深い劣等感が あったかもじゃないかな。
私に言わせれば、彼が言う「超人」なるものが「強者」であるとは思えんのだけどねw
私は、ニーチェも例の植松も、一点の共通性が あるとすれば、言わば「自己投影」にあると思っている。
「能力が劣る障害者に生きる価値はない」
これ、植松の発言だそうだが。
ならば、あんた自身は、どうなんだ?
面会に行った記者さんたち、植松本人に突きつけてみたらいいのよ。
私だったらズバリ言うよ。
自分自身は、能力が優れているか?
自分こそが、思考力は もひとつ、
それ以上に、精神面では明白な「障害者」と言えるんじゃないの?
と。
そして、
「(身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし、)魂の面で邪悪に生まれつき、しかも治療の見込みがない者たちは
これをみずから死刑に処する
だろう」(プラトン/藤沢令夫訳『国家』)
まさに、植松みずからが、このとおりのことになったじゃないか(嗤)
あらためて言うのだけど、
カン違いしちゃいけない。
凶悪犯罪者という者は、「強者」「超人」などでは ありません。
およそ、この世で最も「弱い者」なんです。
敢えて転倒させると、
このことを決定づけるためには、極刑に処することが必要になってくるとも言えそうだがw
ついでに言っとくけど、
従来の「手話」も、私の実感では、限界が大きいのではと思っている。
昔ながらの「ステレオ タイプ」な価値観が、そのまま残ってるところ(たとえば社長とか上司を表わすのに、男性であることが基本的前提になってたり)とか、
私が感じたのは、「手話」ばかりに頼ってる聴障者は、複雑で深い話が しにくく、全体に国語能力が低いという傾向を、そのままにしておいては よくないということ。
むしろ、健聴者と同等の国語能力を用いる筆談のほうが大事じゃないかなと思うけど。
あ、でも、健聴者をメンドクサがらせるし、鬱陶しがらせるわねえw
ま、生きとし生けるものは、「弱者」で始まって、「弱者」で終わるのだ。
われわれは誰しも、生を受けた時点は、「人権」も付与されない胎児から開始し、
捻られたら捻られっぱなし、噛まれたら噛まれっぱなしで いるほかない あかんぼう、
この社会において最も弱い存在、それゆえに庇護されねばならない存在として出発した。
そのことを忘れている人も多い、と言うか、ほぼ全員が そうなのだろう。
だから、さもエラソーに言い、自分えらいとカン違いしたあげく、
容易く勝てると踏んだ相手を、しかも凶器の力を借りてまで襲うんだろう。
劣等感が つよ過ぎることによって引き起こされる、多岐にわたる問題は大きく、深い。
つまるところ、
その、つよ過ぎる劣等感を助長するのが、「能力主義」の社会とも言えるだろう。