2019.08.29 (Thu)
競争できる能力が あるのであれば、そうすれば いいだけのことさね。
たしかに、それによって、向上、発展してきたのだし、ひいては、いわゆる「弱者」とされる存在、特に障碍者や病者にとっても、救いとなり得るのだから。
だが、競争の舞台に上がれない、あらゆる理由を持つ人々も いるという現実は ある。
それは、見て分かるとは限らないし、ケース・バイ・ケースでもある。
私の場合も典型的だけど、わりと中途半端なハンディキャップを持ちながら、いわゆる「健常」者たちと互角に競わねばならない人生だった。
もちろん、そこに目を つけられ、いち早く排除の対象にせんものと積極的に足を引っ張られ、攻撃もされてきた。
そのつど、いったんは、せっかく上がった所から降りることも繰り返した。若い頃ほど。「迷惑」というコトバで「刺される」のを怖れていたので。
その余地さえも最初から奪われていたわけだが、「上るステージを慎重に考慮し、選択」しないと、不利に過ぎるのは当然。
だから、自分一人で考えに考え、
できるだけ不利でない方法を見つけないとならなかった。
だって、しょせん、親にさえ理解は望めない。同じ分野の障碍者どうしですらも。皆、自分のことでアタマいっぱい。
けれど、
競争や勝ち負けだけが全てではないし、そういう次元を超越した世界もあるのは、人間ならではの精神・文化では ないのだろうか。
『【インタビュー】超人への志向と弱者の否定、表裏一体の善悪』
8/26(月) 14:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190826-00010001-kanag-soci
「身分や家柄によらない自由な競い合い」
この国では、世襲の頂点たる問答無用の制度、『天皇』『皇室』を戴いておりますがねえw
去年か一昨年だったか、
私は、『昭和天皇・沖縄メッセージ』のことを、たまたま知って、例の『日本会議』の暗躍と跋扈のことを知ったときと同様に驚愕し、当ブログで取りあげ、
地元である沖縄の新聞ですら、このことを殆ど取りあげていないのか?と大いに疑問を呈しておいた。
すると、今年の夏は、『拝謁記』というのが出てきましたねえww
案の定、国民の大多数は、いつもどおりの無知・無関心なようすで、
いわゆるネトウヨ連中は、「『昭和天皇』の御英断だー!!」と擁護これ努め、
各新聞記事も、早々と引っ込めたようだが。
ま、そういう国です(嗤)
さすがに、「現人神」は返上しても、今度は、「完璧なる無謬の人間」たるイメージ演出に励む天皇家、
そんな自分たちのなかに障碍者が いようものなら、ソッコーで押し隠すし、
慈悲深い天皇と皇室を演じるために、せっせと出向いていた障碍者施設で、前代未聞の惨劇が起きても、ダ~ンマリですな(嗤)
基本的に、やはり、他人事感覚を受け継いで、
もともと、「哲学」という概念も名称も持たなかった、相変わらず上っ面な国で言うのも むなしい話だわ。
「どうも、気の毒とは思うが~」
(↑『昭和天皇』、広島における被爆者について問われ)
どこが「朕の赤子」「大御心」なのよ?ww
まあ、「国体」即、自分自身、自分自身が「国体」そのもの、という感覚を叩き込まれるような特殊な、偏りきった教育が全身に染みついていただろうから、敗戦を思い知らされ、憲法も新しくなっても、内心の切り替えは困難だったろう。
さて、まずは、ルソーから。
「ひよわで病気がちの生徒を引き受けた人は、教師の職務を、看護人の職務にかえてしまう。無益な生命の世話をすることに、生命の価値を高めるために当てていた時間を使い果たしてしまう」
だ・か・ら、
「看護人の職務」を「教師の職務」にしなければ いいの。
だいいち、ひよわで病気がちだから無益って、なんだ、その短絡ぶりはw
ホッブズの言うこともね、
本人に備わっていない能力は、周囲の各人それぞれの立場で協力して、その代わりを補えば いいの。
「児童教育のバイブルとされる『エミール』」云々なんだけど、
私は、ルソーは読んだことが なくて、いずれ そのうち、『孤独な散歩者の夢想』でも読んでみようかなと思ってたら、たしか、この人は、自分の子を一人ならず捨てたという実話が あるというのを知って、その著作を読もうという気すらも たちまち消え失せたw
まあ、人類社会全体が発展途上の大昔の人なんだから、現代のように、特に医療面での解決策や発展が得られていなかった時代は、こんにちの社会や人間から見れば、ゆゆしき思想、あさはか極まる思考と思えるようなことも、いたしかたなかった面も大きいのだろう。
自分自身や大切な存在の身に ふりかかってきたとき、それまでの研究や療法、介助の くふう、様々な改善に結びつく成果、そんなものの せわになる日は来ないと、根拠なく思いこんでいた自分たちが、その恩恵に あずかる番となる。
これまで、当ブログ主は、もう何度も言ってきたことなのだが、
どの側に立つ識者も誰も言わない、言おうともしないので、
こうして、ことばを重ねるのもダルい。
ここでは、なるべく手短に済ませたいと思う。
「(重度)障碍者は生産性が ない」
という、さんざん言い散らされた主張自体への疑問、
すなわち、
(重度)障碍者、また病者という存在を めぐっての努力、要請、それらが、研究や医療機関、福祉の発展に伴い、関連産業や従事する人々などの存在も産んできた。これをして、『経済学』用語であるらしい、「生産性が ない」という単純な一言で かたづけられるものか?ということ。
また、
ことばを発することが できない障碍を抱える児童が、そんじょそこらの「健常」児童よりも豊かな表現力を全身で発揮した場面も、職場の経験で見てきた。
「コミュニケーション」というものが、人間の言語によるばかりでないことを、当ブログでは、すでに指摘してある。
だいいち、人間以外の動物たちと親しんできている人々も、そんなことは、とうに、実感とともに知ってるはずだ。
ところで、
近頃の私が、かなり夢中になっていた動画での「猿の社会」観察。
さすがに本来は野生が支配する動物の世界だけあって、親子間ですら、生存競争が垣間見え、凄まじいものが ある。
産み落として いくらも たたないうちに、母乳をストップさせ、餓えている自分の子にさえ、基本的には食物を頑として譲らない猿の母親にも、
しかしながら、そこには、ある種のリクツが あり、
物見高く徘徊する観光客や動画商売のために利用している、気まぐれな人間から与えられたオヤツを大喜びで食べようとした子猿の口を、無理やりにコジあけてまで、その口中の食物を奪い、自分の口に放り込んで食べてしまうという徹底ぶりは、
もちろん、人間社会と共通した、厳しい上下関係の序列を叩き込む、
と同時に、
幼い子猿を守るためには、結局のところ、母猿自身が真っ先に、自分の体力を温存しておかなければ、話にならない、という理由が あるようにも察せられた。
こうして、集団のルールや社会の秩序が積み上げられていく。
もちろん、小さなルール違反も起きるし、特別扱いの情味も生じる。
そして、これも興味深いことに、
猿たちのなかにも、生まれつきの場合もあれば、頭を打つ大ケガや事故は つきものゆえ、おそらくは少なからぬ割合で、通常レベルよりも知能が低いと思しい者は いるのだが、
そういう子猿の場合、親猿は、健常レベルの子猿よりも、少し、あるいは、その親猿によっては、かなり甘いというか大らかな態度でもって気長に育てている場面をも見ることが できるのだ。
そして、そんな子猿でも、最初のうち、健常レベルの子猿たちがスムーズに身につけていくルールや社交技術を覚えるのが、そうとう遅くなっても、いつしか、ある程度には追いついていたりするのである。
そうできるなら、まだ軽いほうで、もっと重い状態であれば、ほどなくして死んでしまうだろう。
もちろん、早々に育児放棄したり、もとが野性に近い猿だけあって、その子育て上の しつけは、子猿にもハッキリ、だめなものはダメと分からせる効果を伴わせており、とても激しいのだが、なかには、あきらかに虐待する母猿もいる。
そのへんも、われわれ人間と同様で、以前も言ったように、やはり、人類社会の根源を目撃する思いだ。
本来「自然淘汰」の野生世界で、たとえば、生命力ひ弱な子、自己主張の弱い子は、親も、積極的に育てようとせず、さっさと見離してしまうのは、よくある現象だろう。
しかし、
そんな状態に とどまっておりたくは なかったのが、人類の切なる歴史では なかったか?
このように、私は問い続けてきたのである。
【続く】