2019.08.29 (Thu)
『「弱者」は『超人』の夢を見るかw』の続き。
~「『普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、大きな罪悪である』(※4)と公言している。」~
だって、どうしても生まれちゃうでしょw
ましてや、現代みたいに、出産前確認する方法もないとなると、防ぎようもなかった。
イチかバチか、産んでみるまで分からんかったじゃないの。
「平塚らいてう」と言えば、かの『原始、女性は太陽であった』というのを、中学か高校の時分に読んで、
『明治』生まれ特有のエネルギッシュ、敢えての「アバズレ」志向の女性かなという印象は残ってるけどw
そんなこと言ってたのは知らなかったなあ。
彼女は、そんなに昔の人、というほどでもないわよね。
できるだけ良いように解釈しようと思えば、産む性たる女性の無自覚な受け身を廃し、その主体性と、生まれてくる子の権利と幸福を考えるよう促す狙いもあったのだろうけれど、
まあ、古今東西の、お偉い かたがた、この程度の思想レベルでも、歴史上に燦然と名を残せるんだw
でも、やはり、その時代 時代のなかゆえの個人の到達限界は あったでしょう。
うちの親父は、長年、気づかれないうちに「アル中」となっていて、暴力は酷かったし、それ以外の面でも、たとえば、睡眠中の暴れかたが異様だったりしたが、おそらく、そもそもの脳の問題だろう。
こんなんでも、もとエリート青年将校から、戦後は経理マンへと転身し、その分野でベテランだった。
母親は、学校時分から成績優秀で、音楽方面の才能を認められていたし、家計のために奮起して、我流の商売経営も やった。
しかし、「癲癇」などの遺伝や、やっぱり脳の異常を持ってたみたいだ。
母親の姉妹には、そっちの傾向が、もっと重く出ていた。
たしかに、いろいろ知識を得て、蓄積してきた、いまの私が思い起こし、振り返ってみれば、
ああ、そうか、そう言えば、、、そうだったんだ、
と思い当たる異常性が少なくなかったのである。
でも、両方とも、世間では、「有能な人」で通ってたのよw
子である私にとっては、いろいろと、とても困った両親だったけどね。
えてして、表面だけ見てたって分からんのよ。
「カクレ障碍者」って、身体方面よりも、精神のほうでは、もっと多いんじゃないかな。。。
当時は、親子とも知識が乏しく、勿論、本人たちは、自分だけはマトモだと自信マンマンで、私自身、親らの「異常性」に気づいてなかった(無意識のように、直視を避けてたかも?)ので、なおさら、やり場のない苦しみの原因になっていた。
ハッキリ言って、
そんな両親を持ったことを、私自身は、肯定的に受けとめることは できないままだ。
やっぱり、厭だ。
もう一回と命じられても、ゴメンこうむりたい。
「今生」で終わりにしてもらいたいw
軽度ならぬ障碍者、ことに精神や知能方面の障碍者を親に持って生まれた子の苦労は、自と他と共に、私にとっても身近のことなので、それを積極的肯定できるようにまでなるには、そうとうの高い位置に立ち、個人としての本音は捨て去らねば ならないと思う。
なかなか、そうは なれないのも現実である。
お子さん側が、軽くは ない、知能面や精神の障碍を抱えている立場の親御さんだって、そんな我が子が出産し、親になることを、すんなり肯定できるのだろうか。
ほとんどの人は、やはり、生まれてくる孫の不憫とか、祖父母となる自分たちの苦労を予想し、ためらいを感じるだろうし、実際、そのような機会自体が乏しいだろうけれども。したがって、それが現実の悩みになるところまでは進まないで済んでいるのが多々なのだろうけれど。
特に精神方面の場合は、発病したのが成人年齢の近くや成人後という場合も多かろうし、そういう持病を持っていても、のべつ、異常な状態のままであるとも限らないから、すでに結婚していたり出産していたりということも多くなってくるだろうか。
もう何年前になるのか、
精神の持病で、いきなり激しい発作を起こした父親が、息子である幼児を、衝動的に惨殺した事件も あった。少なくとも子どもは どえらい迷惑を こうむったことは たしかだろう。
誰だって、こんな親を持って生まれてきたくは なかろう。
一般の小児が、しばしば、同様の被害を受けることが あることと共通して、知能障碍の場合、むしろ中・軽度であれば、判断力、拒絶力の脆弱や迎合性の特徴などゆえ、かえって、性的被害に遭うことも まま あるのは、昨今の事件ニュースでも報じられるところだし、昔から、多々あったことだろう。
例の「ルソーの捨て子」話にも出てくるね。
私の知人も、事故により、母親が車椅子を使用する身となって、
学校時分から ずっと、朝、起床して すぐに やるべきことは、母親を寝床から抱き起こし、車椅子に乗せてあげることからだった、という話を していたが、なんとも暗い顔つきで話していたものだ。
その知人の姉は、母親のことが動機で、看護師になった、とも言っていた。
私自身が、インターネット上で遭遇した「カルト連」が そうだったように、それこそヒットラーや『ナチス』を信奉するような手合い、
また、「優生思想」についても、いわゆるネトウヨらが特に好むところらしいが、
ところが、あのテの連中は、何かと言うと、
「先人の思いを」「先人の苦労を無にしては ならぬ!」
と主張するでは ないか。
だったら、
「自然淘汰」という時代へと「先祖返り」するのなら、それは、まさに「先人の苦労を無にする」ことになるでは ないか。矛盾も いいところじゃないか。
あの「カルト連」ときたら、「ニヒリズム」を標榜したがる連中でね(嗤)
そのわりには俗悪なレベルの勝ち負け競争ゲームを やりたがって しょうがないみたいで、こっちはトコトンうんざりさせられたもんだけど、
むしろ、私のほうが、基礎には よっぽど「虚無」的考えを持っているかもしれないよ。
だって、
「人生の意味」だとか「この世の意味」だとか、
ほんとうのところ、そんなもん、ハナから終いまで、ないんじゃないかと思ってるから。
「宇宙全体の向上が目的なのだ」ですって?w
そもそも、「この世」とか宇宙とかいうもの自体が、いらんやろと思ってるw
最初から、なくて いいww
あすの日にも、地球、いや、宇宙まるごと消滅しないという保証は ないでしょ。
何の因果やら、こんなものが生じたのは、
余計なことだった、
の一言である。
それこそ、仏教で言い、その始祖が言ったという「輪廻転生」、「生まれぬが幸せ」、というとおりで、
まったくもってゲンナリだ。
こんな えげつない世界から脱出不可能なまま延々繰り返すしかないのだとなるとね。ゾッとするわいな。
たしかに、私自身、自分の身に障碍や家庭環境の問題などを負っていなかったら、ここまで、ものごとを深く考えることもなかったろうし、
それは、
わざわざ好んでのことでは なく、「幸」も「不幸」も なく、否応も なかったこと。
なので、
そういった負荷が かかっていない人生であったなら、本来の性格からして、のほほんと、軽薄そのものな思考レベルで、世俗の価値観に全面的に従って疑問も持たず、ホイホイ世渡りしていたことだろう、
と思うわけ。
【続く】