2019.09.09 (Mon)
『母親は、子を庇うものというのは「神話」。』の続き。
私の場合なのだが、
生まれて最初の2年近くまでは、どういうわけか、両親の記憶が薄く、
と言っても、世のなか殆どの人々は、そんな年齢ではアタリマエじゃないかと言うだろうけれど、
私は、かなり、「普通の あかんぼう」では なかった(笑)。
酸素も栄養も供給を絶たれてしまっていた母胎のなかで死にかけていて、
母胎から出ても、放っておけば、そのままキゲン良く?死んでいけた、
はずなのに、無理やり蘇生させられ、大変な難産となったけれど、
生後1週間で「初潮=生理」を迎えたり、
(と言っても、正確には、あくまでも母体のホルモン由来の影響。なので、通常で言うところの「生理」とは異なる。
もちろん、そうであるに違いない。「普通の生理」だったら、それこそ驚異だわ 笑)
生後6ヵ月になったとたん、
「ハイハイ」すらもスッ飛ばし、いきなりスタスタ歩き始めた。
「ものごとには順序というものが ある」はずなのだが、
そういった、「普通でない」現象が幾つも あった あかんぼう時代と乳児時代を過ごした街。――
――その街は、ある有名な歌手の生家が あったことでも知られているが、昔から、大企業の経営者や重役などの住まいが建ち並ぶ屋敷町である。
それでいて、
ゆるやかな坂を一つ下って行けば、そこは もう、歴然と「下町」になるという特徴的な地域性も あってか、あの当時は、いまのような高級住宅街然とした、いかにも取り澄ました雰囲気では なく、小高い丘の上の その小さな街は、どんなに重厚な屋敷の主人でも、門前の立派な植栽を踏み倒して暴れ回る子どもたちを叱りつける者とて なく、
いたって大らかな気風の、昔の大阪らしい屋敷街だった。
生後半年の足でヨチヨチと踏みしめた道に出れば、
近隣の、優しかった おじさんや おばさんたち、
毎日いっしょに遊んでくれた おにいちゃんや おねえちゃんたちの姿や声が いっせいに迎えてくれた日々は、何十年経とうが鮮明だ。
こんなふうに、育った街の思い出を、いまどきの子どもたちは持つことが できているだろうか。
個人的に、『目黒』も『千葉』も、いちおう訪れたことが あるけれど、
5歳の女児の事件が起きたアパートを、ニュースの添付画像で初めて見たとき、「目黒にも、こんなアパート残ってるんだなあ」と思った。
あの子たちにも、
優しい人たちの温かい手や声が迎えてくれる街を、
とても短かった その人生のなかで、ふと思い出すことは あっただろうか。
帰りたい ふるさとの街が あったろうにと思う。
…
そういうわけで、私には、少なくとも生後6ヵ月前後からの鮮明な記憶が残っている。
その記憶のなかには、当時の周囲の風景や人々の光景のみでなく、
幼かった自分自身が、あのとき、そのとき、何を感じ、何を考えたかもハッキリと残り、憶えているのである。ほんとうのことだ。
なので、
生後いくらも経たないんだから何も分かりは しめぇ、と、おとながタカを括っていたら、目の前の あかんぼや乳児に、ひそかに呆れられていた、なんてことにも なりかねませんよ。ご用心なされ(笑)
そんな私なのに、肝心の両親の記憶が、ほとんど、ない。
このことも、過去エントリーで綴ったけど、
母親については辛うじて、断片的な記憶が残ってる。
もっとも、
何が理由でか、ホウキで追い回されて、怖い思いを した記憶だけだが(苦笑)
ところが、父親の記憶に至っては、全くのゼロ。
母親に聞いた話では、当時、完全な同居には至っていなかったものの、帰ってくれば、私を おふろに入れたり、何かと こまめに せわを してくれていたそうなのだが、
このスバラシイw記憶力の持ち主だった幼い私のアタマのなかで、親父に関する記憶だけが、トンと皆無なのである。
たぶん、その当時から、幼いなりに、
「この者は、とるに足りぬ存在」
と見做していたのかもw
哀れなオヤジ。。。w
両親以外の、優しい人々の記憶のみに彩られた、生まれた街を出て、
2歳になるやならぬ私は、母親に連れられ、
親父と、親父の先妻との子ら(義姉や義兄)が待ち構える家での暮らしが始まり、
それは、「地獄図絵」の時代の開始でも あった。
それから数年後の幼稚園入園、
つづいて小学校入学の時期に撮った写真を見ると、
いま、このトシになって思う。
「私も、この頃になると、なんだか哀しそうな、どこか暗い表情を していたんだなあ」と。
ずっと、そのことから、目を逸らしていたんだと思う。
ただ、
私は、自分が知らない世界や時代の話には興味を持つほうなので、
元気だった頃の母親の話は勿論のこと、ほとんどは母親の恨みとグチの処理場みたいな役割を引き受けていたが、
鬱陶しいこと この上も下もない親父と言えど、
その子ども時代の、辛い生育環境や出来事や時代、世間の風潮などを思い出しては、問わず語りにポツポツと語る話に、母親が亡くなったあとは特に、じっくりと耳を傾けた。
正直に言って、
終生、親父については、関心が あまり持てなかったけれど、という以上に、
あの凄まじい暴力に困り果て、離婚でも何でもイイから、とにかく、いなくなってくれんかいなと、幼い頃から成人後まで、ずっと願っていた。
自分自身が直接、本格的に殴られるのは、はっきりと憶えては いないが、たぶん、小学高学年か中学生頃からだったが、
大概は、母親を庇い、自分が身代わりになってのことだった。
それ以前の、もっと幼い頃は、「心理的虐待」と言うのかな、
たとえば、
何かで激昂したらしい親父が、私の母親の襟首を掴み、その両眼を、箸で突き刺そうとしていた光景。
幼稚園に入る前くらいの年齢の私が目撃して以来、このトシになっても忘れることは できなかった。
おぞましく忌まわしい場面が部分拡大された如く、眼の記憶に焼き付いたまま、トラウマみたくなってる。
当の親らには尚更のこと、誰にも言わずに、きょうまで来たけど。
だから、自分が殴られるほうがマシだった。
うちは、親子の関係が逆転してるみたいなところが あったと、以前にも述べたが、
『千葉』の事件の小学生にも、そんなところが あったんじゃないかな、という印象を持っている。
…
さて、虐待事件の被害児たちの父親ら。
このテの父親らの、子に対する要求は、異常に細かく厳しく過酷なものだったようで、
毎日、必要とされるべき栄養摂取・食事すらも妨げておきながら、
早朝の起床後、まずは「くるしくなるまで、うんどうする」目標を、幼い子に課すとは、
フザケんなー!!と、
もし、目の前に居たら、あかの他人の私でも、思わず怒鳴りつけたくなるほどのデタラメな親だ。
ところで、先日、たまたま、とある大学の教授だか助教だかいう専門筋の女性のインタビュー記事をチラッと目にした。去年の掲載記事だったようだ。
その専門家は、あのような虐待のケースには、パターンというべきものが ある、ということを言っていて、まあ普通の親でも、言い聞かせておいたことを、子どもが何度か破ると、大概の親はキレてしまうものなのだから、仮に2度目なり3度目あたりでブチ切れてしまうのであれば、「限界の回数」にまでは至らないようにすれば、親がキレて虐待に及ぶことを防げるはずとかナントカいうようなことを言っていたと思う。
まあ、分かりやすい図式の説明では あるが、しかし、
第一には、子に対する親の言いつけが、妥当なものであるように配慮されているという大前提ならば ともかく、
「そもそも、その子の年齢不相応などの無理が あるような要求を突きつけた親だった場合、親のほうにこそ根本的原因が あることになるので、無理難題を押しつけられた子ども側が、親のブチ切れに達する回数を慮って、その手前の回で留まれるような努力を せにゃならんというのは?」
と疑問が湧いたからなのか、
そのせいで、よく覚えられなかったのかもしれず、
くだんの専門家の主張が、このとおりの内容で あったかどうか曖昧となってしまって、すでに自信が なくなった。
それでも、
もし、私の記憶と解釈で概ね間違いないとしたなら、
やっぱり、そうとうヘンな意見になってしまう、と思うので、大学で教えているほどの専門家の発言だとは信じられなくなる。
ま、これは、読まなかったことにする。
【続く】