2016.05.22 (Sun)
『拘り』の続き。
一例を あげるとすると、
休憩時間の お茶を汲んできて、その湯呑等を、自分の机の上の、どの位置に置くかというのは、まあ、合理的な理由が ある場合も勿論あろうが、
その人の場合、湯呑を置く位置も、ほぼミリ単位で毎回、決まった位置に置くのかという徹底ぶりだった。
われわれの業務は、締め切り期限が迫ると、休憩時間を返上してでも、とにもかくにも仕上げて提出しないと いけない仕事だったのだが、
他の者たちが、青筋立ててシャカリキになって取りかかっている最中、
お茶の時間が来たら、一人だけサッと席を立っていき、のんびりと、お茶を飲んでいる。当然、その間、仕事の手は止まっている。
仕事のほうも、休憩時間くらいにキッチリ守って遂行してくれたら助かるんだが、そっちはカラッキシという体たらく。
まず、業務の基本的段階から、よく理解できていないまま。私よりも先輩だったのだが。
普段から、仕事が遅いのだけは、職場で一位を譲ったことがないのだから、
上司に提出すべき期限の時間が来て、私ら(なかでも私は、他の同僚の2、3倍の量を こなすように強いられていた)が辛うじて仕上げて、
やれやれと息を つき、さて、時間だ、集めて提出しなきゃと、
くだんの社員に、できましたか?と促すと、案の定、さっぱりこと進んでない。
もう一人のほうは、なぜ、「強迫症」なのか?と感じたかと言うと、
たとえば、仕事で、何かの作業を行ったあと、これで間違いないか確認しておくというのは、誰しも心がけることだと思うし、
できるかぎりは、そうすべきでもある。
けれど、それにしても、1、2回程度で済ませるはずだ。
私なんかは本来が、アタマぼーっとしてるしオッチョコチョイなのは自分でも分かってるから、3回くらいは確認したいのが本心だけれど。
たしかに、あとの確認を丁寧に行う人は、安心でもある。
しかし、それも程度問題。
せいぜい2、3回で終わらせるなら まだ いい。
10回20回、
黙っていたら、あとの確認作業だけで、ヘタすると数時間を費やしても、平気の平左なのだ、そのひとは。
これでは、異常だと思われても しょうがない。
そのぶん確実に、周囲の誰かしらが、カバーしてやらなければ、仕事がスムーズに まわらないのだが、
その職場では、身障者であり、新入りであるという、非常に弱い立場の私が、概ねカバーしていたので、その「困ったちゃん」なべテラン社員を、正面から注意してあげる人は皆無だったし、肝心の上司でさえ、わざと見過ごしていた。
誰かが犠牲になっているかぎりは、皆、黙っているのだ。
だから、私が、そこを辞したとき、くだんの当人も、間もなく辞めた。
もちろん、口では、良いほうに まわって、せいいっぱい自己保身に努めていたが。
当人は、さも、責任感が強いゆえという「演出」に精出していたし、
私も含めて、てっきり、そうなのだろうと素直に思っていて、実際には困らされる立場だった私も、むしろ、その人の美質と受け止めるべきなのだと思っていた。
だが、そういう面も あるとしても、最大の理由は、やはり、自己保身だ。
自分のミスを、どんなに些細なことでも、指摘されることを、異様なほど恐れていたのだと、いまでは察している。
私も、自分の障碍ゆえに、避けてきた業種は多々ある。
若い頃、見栄っ張りの母親に半ば強制されるようにして、障碍を無視し、どころか、まさに、私の損なわれている機能を必要とする業務に就いたことも あった。
が、針の筵の思いを してからは、素直に避けている。
精神衛生にも甚だ悪い。
大概のビジネスは、時間の遅れは命取りだ。
どうしても できないのなら、無理せず、それで支障の生じない仕事に就くべきだろう。
支障が ない、というのは、特定の誰かに全てを押しつけてしまうことのないように、ということだ。
全員で各自が少しずつ譲歩、助力できるのなら、大概の障碍の問題を持つ人を受け入れる余地は、全く可能性が ないとまでは、私は思わない。
「拘り」。
私だって、親らの姿を見ていたら、多少の遺伝は あるはずだと思うし、
ましてや、軽くは ない障碍を抱えているのだから、それらから来る影響が あってフシギは ない。
当然、自分でも持て余すような「拘り」も持っていないわけでは ないのだ。
ただ、それを飽くまで通そうとすると、ある程度以上になると、たちまち、周囲の人たちに迷惑となってしまうだろう。
だから、グッと こらえているだけのこと。
それが できるか どうかだろう。
気づくことが できなくて、マイペースを通してしまうこと自体、その障碍が もたらすゆえんなのかもしれないが、
自覚は あっても、あらためる気もなく、それどころか、
自分のマイペースや欲求・欲望をトコトンまで押し通さずにいられない者のなかには、
自分よりは立場の弱いと踏んだ者を、悪者にしてでも押しつける「要領の良い」手合いが存在する。
こうなると、それは障碍のせいなのか、否、もともとの性格として、個別に考えるべきなのか、はなはだ曖昧だ。
障碍も、個性を かたちづくっていくのだ、
という説に、私自身は実感が ある。
私の場合も、かなりのマイペース傾向があるのは自覚しているが、その原因の一つには、そうとう疲弊してしまっているという側面も ある。
最終的に無気力にまで陥ってしまうと、人は動けなくなる。恐ろしいことだ。
親や養育者、世の指導者たる者は、心すべし。
『「パニック障害」』