2015.05.07 (Thu)
『「水面下」でアンフェアな「汚い手」を用いる者を相手にするとき』
の続き。
さて、水島 宏明氏は、私が、ささやかながらも応援していく気持ちでいる古賀 茂明氏について、やはり、朝日放送「ニュース ステーション」での あの言動は「テロ」だったという表現を下されていることを知ったわけだが。
私個人は、何度も言ってきたように、新聞もテレビ番組も、ほとんど目にすることがなくなって、はや数年ほどにもなる。大きな理由としては、
しょっちゅう見かける「ネットの真実」なるケッタイな主張を叫んでやまない「ネトウヨ」さんたちのように、「マスゴミ」云々という考えでは全くなくて、
それこそ、第一に仕事上からも、新聞だけは欠かさず、各方面の記事をジックリ読まざるを得なかったほどの生活だったのだが、さすがに、個人で何紙も購入する経済的余裕も時間の余裕もないので、自宅で読めるのは、大手の一紙のみ。時には、読みきれなかった勤務先の購読紙を、終業後に もらって帰ったり、別の新聞を購読している実家に行ったとき、もらって帰ったおりくらいにしか、他紙を読み比べる機会は滅多になかった。
もともと、テレビ番組では、深刻で重大なテーマを含む対象であっても、あまり掘り下げていこうと努めると、まずは時間的制約を始めとした大枠からハミ出してしまっては、収拾が つけられなくなる見苦しい事態を避けるため、基本的には、あらかじめの編集方針にもとづき、サラッと流していかざるを得ない媒体だろうと思うし、
なので、一つテーマをシリーズとして設定し、時間枠を確保したうえで、思い切って追究していく姿勢が窺える番組以外は、いかに大真面目なニュース番組を日々熱心に視聴していたところで、あまり大して参考にもならず、
やがて、個人的生活上の経緯もあり、頑張って舐めるように新聞紙上に目を通す必要性は なくなり、ふと気づけば、
なくても困らずに済む状態になっていった その代わりみたいに、インターネットを利用することによって、むしろ、以前よりも格段に幅広く、国際、国内の地方とを問わず、各紙・誌の情報を拾い出せるようになったことは確かで、
今後も、このような状態を継続していくであろう動機として一番大きくなっているのが現状である。
このあたり、従来の紙媒体中心各社が、生き残り策に頭を悩ましているだろうことが容易に察せられるところだ。
ただし、
そこにおいては、自分自身の備えているアンテナやバイアス傾向、取捨選択の判断力が如実に左右することになる。
その自覚と客観性がないと、やはり、しまいに国家的危機にさえも繋がるのだという恐怖を、昨今、つよく感じる事態となってしまった。
いまの私は、正直に言うと、
最近の原発大事故と、その事後を めぐって、いよいよ暴露された政治家その他のエリートたちの人格・識見以前に、
そもそも、それらを生み出す土台になる国民大衆、日本人一般の知性と教養、見識について、あまり信用していない。
民主党政権のとき、官房長官だった仙谷氏が、「暴力装置」という単語、専門分野において普通に用いられる、シンプルな形容に過ぎない それを言ったとたん、またも大バッシングが起きた。
昔、
『天皇機関説』とやらで、「天皇陛下を機関車や機関銃」に喩えたとかをケシカランとして、当時の右翼連中が中心になってカン違いの大騒ぎに発展、国会で執拗に追及したという話、
結局、あれから、いくらも変わっとらんのじゃないか、ここの国民のオツムは、と思えるのだ、私には。
こんにち、国民全体が高等教育を受けて当たり前になり、あらゆる知識の取り入れが、ますます容易な世のなかになったはずだというのに。
私自身も何度も述べてきたように、
各情報・報道機関というものが、もとを ただせば、一個の営利企業体であることに違いなく、
したがって、各社のカラーや主張ぶりに差異を備えていることは当然なのであり、
ましてや、テレビ番組というものは個々に時間枠の厳然とした業界、そこへ、とにかく「偏ってはダメだ、バランスを」と要求するのであれば、
むしろ、各社そのカラーや主張ぶりの差異が様々に並列存立していることによって、俯瞰した全体としてのバランスは果たせるのだということ、
これが理解できていないのが、
「マスゴミ」と呼ばわりつつ、「ネットの真実」教を広めようと必死になっている一群れの者らに対して、呆れてやまない理由だ。
しかも、現政府は、こうした連中の存在をも利用というか、水面下で結託しているのではなかろうかと感じるほどだ。
なぜ、そう感じるかと言うと、
まさに、「誰が得をするのか?」と考えたとき、真っ先に思い当たるのが、政治権力側だからだ。
多くの「ネット民」なる者たちは、さも賢し気に言うではないか。
「ネットは自己責任の世界」、「玉石混交」、「リテラシーを持たねば」と。
つまり、パターナリズムは通用しない時代となったのだから、
もはや、これ以降、各自が自主的選択眼を持って取捨選択せねばならないはずの世に、
テレビ局や新聞社という、いまでは、情報発信世界の部分的一画を占めるに過ぎなくなった、あくまで営利企業体を つかまえて、何を心配し糾弾しているのだろうか。
その反面で、
彼らは、ネットを駆使し、他者の洗脳に励む側に、自分たちこそが取って代わろうとしているではないか。