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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2023.07.21 (Fri)

「歴史」vs.「経験」あるいは「賢者」vs.「愚者」の続き。

 

さて、

障碍者や重度障碍者のなかに、受賞者が、「これまで いなかった」のも、いろいろな個人の経緯を含め、もちろん、社会的・歴史的背景事情が絡んでいるわけだろうけれど、

私なんかもね、のっけから、就職がスムーズには いかなかったので、デモシカ物書きにでも なるしかないかな、と思ってた頃が あったものの、やっぱり、「純文学」ってのはシンドくてさw

 

ドライな研究論文とか論考の類を書くほうが、まだラクそうだ()という気が するんだけどw

まあ、いまどき流行りらしい「ラノベ」だったら、なんとか、自分でも いけるかもしれない?とかも考えてたよ。

で、それらと比べたら、思いっきし短文で済ませられて、いちばんドライでラクそうじゃん♪と思って、俗な商業コピーのほうへ行ってしまったww

 

以前も言ったように、私は、ほんとうは、書くことが好きでない。なんと言っても、疲れちゃうから。

だいたい、「表現行為」としてを含めた書くこと、また、読むことって作業は、いわゆる「ふつう」の「健常者」でさえ、けっこうなエネルギーや体力が要るもんね。

べつにシンドくない、って言える人、それどころか、やらずに おれぬ!と言える人は、そもそもエネルギッシュな心身なのだろうよ、たぶん。

 

 

でね。

あ!なるほどな、の「当事者意識」。

やっぱり自分の身でもって経験・体験しないと、知ることも分かることも難しいもんなんだよなと、あらためて思ったのが

くだんの市川さんが、「紙の本への憎しみ」ということを述べられたので。

 

私が20歳代の頃は、先述してきたように、パソコンだのインターネットだのは、一般レベルに普及していなかったので、日常的な情報を得るには、ふだんは新聞や雑誌が筆頭になるが、特に目的が あって探している情報を入手するためには、やはり、まずは図書館や書店へ赴いて探してみるしか なかった。孤立無援な私の場合、最大の「敵」だったのが、あろうことか、親だったからね、よけいに、自力で、ひそかに探し当てる努力するしかなかった。

 

インターネット上の深刻な諸問題などについて、特に、これで汚く儲けてる商売人に向けては常々、かなりキツイことばで非難・糾弾し続けてきたことを、読者の皆さんは御存じよね(苦笑)

けれど、

そうは言っても、私の場合、聴覚障碍なので、間違いなく、役立ってくれてる現実面も あるわけで、その筆頭は、口頭で やりとりせずに済み、視覚のみで、的確に用が足せるメール機能だ。

それと、

国外から発信のニュース解説記事や、大学の講義内容、専門的論文や文献ですら、検索によって、探し当てることが、ある程度は、そうとう容易になったこと。

 

娘の障碍を無視し、『障害手帳』取得を邪魔し続けた母親が亡くなってから あとに、
私は、やっと、自分自身の障碍と、その原因について、いろいろと調べることが でき、それで、生前の母親らの卑怯な、狡猾な嘘や言い逃れの かずかずに気づくことが できたわけ。

私が生まれる前の経緯や事実、ほんとうのことを知っているのは、親ら、とりわけ母親だけで、親戚だろうが、どんなに親しい間柄だろうが、当の私を含めて、ほとんど何も知らないんだから。

 

 

しかしながら、

以前にも言ったことが あるけれど、

購読していた新聞も断わり、テレビも見ることが できなくなって久しいので、いま、辛うじて動いてくれてるパソコンがダメになったら、ほぼ「万事休す」だ。

『タブレット』なんてのも持っていない私は、外部からの、ありと あらゆる情報を得ることも、自分側が、ささやかに発信することも、ほとんど全ての手段が失われたままになるだろう。

そうなったら、

まずは、それこそ「紙の本」を求めて、近所の図書館などへ出向くくらいが せいぜいになるのだが、

私も、何か読むときは、長時間を座って読み続けることは酷く疲労するので、若い頃から、横になって、休み休み読み継ぐことが習慣になっていた。

近頃、過去エントリーでも話題にしたように、腰痛が激しいときは、椅子(壊れていたw)に座るのも困難で、横なっても、何かを読むことも できない状態が続いた。

 

私は、もともとからスマホを保有していないし、
それどころか、長年、手もとに辛うじて残していた、いわゆるガラケーも、ついに手離した。

つまり、私にとって、現代の文明の利器いっさい、スマホも大した贅沢品なのである。

 

 

視覚障碍者は、ほとんどの場合、点字や朗読によって、読んだり聞いたりしてきただろうけれど、それは、いつも望めることなわけでは ないだろう。「手話」や「筆談」も同様だ。

ただ、視覚から入る情報が最も多くを占める人間にとって、日常レベルで、生命の危険と隣り合わせていると言って過言でない障碍が、重度の視覚障碍だ。

おそらく、最も共有性が あろうのは、皮肉なことに、見えないにせよ、聞こえないにせよ、動けないにせよ、全く不可能、という場合だ。

完全に見えない、聞こえない、となると、これは もう、想像力の乏しさ最強を誇る「健常者」ですら、少しは実体験してもらえるもんねw

 

聴覚障碍と一言で言ったって、その人によってバラツキ、大なり小なり違う現象も ある。

同じ障碍を抱えている者どうしだって、理解し合えるとは限らない。

当の自分でも、いまだ分かってない現象も あるくらいで、他者に対して説明が難しいし、いちいちチンタラ説明していたら鬱陶しがられる。

聴障でない人に理解しやすく説明したつもりでも、ほんとうには理解できてないままだろうと思う。しかたない。

 

聴障者と言えば「手話!」と反射的に返ってくるのが常だけれど、

私は、他の聴障者とも、手話とも、いっさい親しむことなく生育し、否応なく社会に出た。

そのあとに、そういうサークルを、自分で探したり、紹介されたりもして参加したことも あったけれど、

もはや、ここでも「異端者」に出来あがっていた私には、すんなり馴染めない世界だった。

手話には、けっこう、やっかいな問題や「時代錯誤」な面も残されていることを知って、これは私の悪い癖なんだけれど、少しシラケてしまい、そこから、意欲を なくしていった。

 

「健常者」のなかで孤立しながら仕事しなければ ならないストレスも、深く習い性となってしまっていて、すでに慣れてる忙しさと疲労に、どんどん流されていった。

要するに、

この今を やり過ごすことに精いっぱいで疲れ果て、特別に「表現行為」するエネルギーなんて失っていったわけ。

 

はっきり言えることは、

私は、たとえば晴れやかな受賞のステージで、関心を持って集まった人々からの盛んな質問やインタビューを受けて、それを直接に聞き取り、適切に応答することは困難だ。言語障碍も伴っている。

 

世のなかの「障碍者」という立場の人々の殆どが、
とにかく「健常者と比べ、何ら欠けることなく同等に!」と、
つよく主張、要請してやまないようなイメージが あるのだろうか、それに対して、
大いに反感を持ってるんだぞ!健常者の こちとらは!!
ということを剥き出しに示してみせた、
昨今、いよいよ激烈な厭悪を突きつけてくる、その象徴的な光景が、
これだったね。

「史実に忠実に復元」とは。

 

むろんのこと、私も、「かたわ」だの「ずうずうしい」だのといった悪罵を、決して許しは しないが、

同時に、

「すべてを、健常者と同様に(すべき)!」といった、障碍者側の(強固な)主張にも、全面的には同調しない。

なぜなら、現実的に、甚だ困難だったりすることが多々あるわけだし、

ちょっと極端な事例かもだが、ヨーロッパの中世頃の古い寺院などで、天を突くような高い塔に登れるよう設けられてある階段は創建当時のままのもので、若くて壮健な人でも、途中でギブアップしたくなるような急傾斜、気が遠くなるような段数で、とうてい、身障の人に登ることは無理なはずだが、登りきったところで、車椅子どころか、付き添いの人と一緒に立っていられそうもない狭い通路だ。

四肢の障碍だけでは なく、私も そうなのだがw腰痛などを抱えている人も無理よね。

だからと言って、創建時ほぼ そのままで保ってきた文化遺産級の寺院などに、敢えて工事を施して、エレベーターなどを設置すべきとの要望は出ていないのでは なかろうか。詳しくは調べてないので知らんけど。

 

それと、

「ふつう」の「健常者」であっても、およそ恋愛や結婚や出産等々に縁が なかった人なんて、世のなかゴマンと いるわけで。

「恋愛!結婚!セックス!妊娠!出産できる!それが、ザ・健常者」と決めつけるのも、むしろ、障碍者側からのレッテル貼りに なりかねないじゃん。

もっと言えば、

どのような障碍者であっても、恋愛、結婚、セックス、妊娠、出産を経験している人たちも おられるでしょう。

そりゃ、単に数字上の多寡の差としては明白だろうけど。

 

幸か不幸か、私は、特に性的、生殖の方面について、「健常者と同じに なりたいー!」とかは、あまり思ったことは ない。もっとも、まだ若い頃には、そういうことにもコンプレックスは あったし、しかし、体質的にも、一般的なカラダでは ないみたいなので、出産不可能な治療後からは、ないものねだりしたって しゃあないし、と割りきってきた。

むしろ、(男性と)結婚したいという気持ちが薄くて(父親からの悪影響が大きいのだろうけど、男性一般に対して、好もしいイメージが、全体に乏しい傾向だった)

若い頃から、生まれつきの体質や「婦人科」系の病気やら(ちなみに、これが原因で、縁談話がアッサリ潰れたことも あったw)で、妊娠・出産の可能性にもサッパリ自信ナシまたは不可なことがハッキリしてる。

 

それどころか、これも過去エントリーで述べていることなのだが、

「自分が生まれてきたことを素直に素朴に肯定できないままであるなら、私は、子を産むべきでないだろう」

と、中学生時分に、ほぼ思い定めていた。

 

やがて、フシギにも、思考したとおりになって、そして、

それについては、めずらしく、いまでも、
「そんなに間違っては いなかったのだろう」
と、まあ肯定できている(苦笑)

 

自分自身に抱えてみなければ分からないのは、ほぼ誰しも凡人。

 

他人事のつもりでいるうちは狭いところから低い視点で悪罵したり、

本性は小心ゆえに試す自己チュウ徹底の自己愛性タイプは、まさに、「愚者」以下。

で、

彼らの「来世」てなものは、どうなるの?()

「前世」は虐められてたのかな??(()

 

 

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