2023.07.20 (Thu)
「愚者は経験に」「賢者は歴史に」学ぶ、
とかいう有名な格言は、かつての『プロイセン/ドイツ』のビスマルク、という、たいそう偉い人が言ったのだそうな。
だが しかし、
じつは「勝者」が つくったものが「歴史」なのである、畢竟、歴史とは「勝者の歴史」に他ならないと喝破した警句も ある。
その時その時の「勝者=権力者」が上書きしていった。
だったら、「賢人」は、何を歴史に学ぶのだろうか。
歴史の隙間に埋もれたまま浮上しない事も多々あろう。
名を残す勝者にとって、不つごうなもの。
勝者に追いやられ、排斥され、踏み潰され、名も消えていった者たち。
過去から目下に至るまで、この国では、黒々した「のり弁」が累々積み(罪)あげられていってる(嗤)
あるいは、
海苔の貼り付けも間に合わない!と くれば、迷うことなく焼却場へ。
こっちのほうが、だんぜん多いようだ(嗤(嗤)
そして、うそぶく。
「やーい、ショーコ出せよショーコを!」w
ま、われと わが身が痛い目を して、明白な失敗を仕出かしておりながら、それでも直視を避け続け、視線を逸らし続けておれば、そりゃ、
「経験に学ぶ」ことすらも できない、「愚者」以下のままだ。
自分一個のみの欲得算段に囚われていたら、眼が曇って、すぐ前に あることすら見えなくなるのは当然だし、
我欲強烈に過ぎれば、わが子ですら踏み敷いて渡っていこうとするのだから、あとあと、深く恨まれたり、侮蔑を買うことになるのは避けられない。
よりによって、自分を産み落とした親を恨んだり侮蔑するのも、なんとも言えぬ、つらいこと。
尊敬や敬愛なんて無理に決まってる、許すのも困難だ、さりとて、許しきれないのも、なんだか忸怩たる思いに つきまとわれ、
結局、いちばん苦しむのは、弱い立場の子ども。
まあ、各自の経験や体験を、当人が、どのように受け止めて、消化していけるかというキャパも左右するけれど、
狭い、広い、低い、高い、
要は、「精神的視野」が大事なんだろう、人間には。
自分の低い視点のままで、身を置いている、その狭い場所から一歩も出ず、ひとりよがりな解釈ばかりしていたら、それは、「愚者」のままで い続けることになってしまうだろうし、それが往々にしてセットになっているのは、他者に対し、自分は こうだったんだ、だから!と、感情的に押しつける癖。
これも、私が、旧ブログの頃から言ってたと思うのだが、
最初は狭い所から、世界を眺めていて、低い自分の視点から、徐々に眼を上げ、見詰め渡していけば、
「経験」「体験」というものは、個々人にとっての「歴史」となっていく。
その集大成が、やがて、人類の歴史になっていく。
ほとんど誰しも、自分の身に思い知ることが ないと、気づけないものだ。
まずまず「人並み」「平凡」な「一般的」な条件のなかで生きてこれた人たちと比べるならば、私自身は、あらゆる面で、そうとうに特異な条件や環境下で生きてきたということに、あまり異論は ないだろうと思う。
ただし、うちの親らは除くw
彼らのような性質の者は、後ろめたさにプライドが貼り付いた背中合わせで、自分が仕出かしたことを、ぜったいに認めないからww
認めることは、死と敗北に等しいと、頑なに思ってるから。
「人並み」や「一般的」とは外れた所から、自分の眼で眺めたり観察しているうちに、どうしても、つよく疑問に思うタネにだけは事欠かない。
それは、まさに、人並みや一般的と外れてるからこそだ。
そうして、
そこから脱出したい、どうにかして、この理不尽から解放されたいという切実さも増してくるので、あれこれ考え詰めも するのだが、それだけでは、とてものことに、複雑怪奇の埒が明かないから、当たって砕けろも、少しは試す、大ケガも する。
そこまでは早々やらないにしても、
毎日の日常レベルで、全身、擦り傷や小さな切り傷だらけだ。
ますます考え込まざるを得なくも なるわけだけど、
もともとの性分から言って、ボーっとしてるのだし、
そんなにまで考えたいわけじゃなくっても、
なんとなく周囲を見ているだけでも、なんせ、特異な観察対象だけは、目の前に常に豊富で、事欠かないので、
特に親らは、年がら年じゅう、飽きもせずに、同じような争い事と失敗を繰り返し、子どもに深刻な迷惑を押しつけているわりに、妙な要領ぶりと押し出しだけは結構に見えるらしく、世間さまから、おおむね、わりと高い評価を いただいてきたりしていたもんで、
結局、ほぼ誰にも、私が抱えている疑問を聞いてもらったり、少しは腑に落ちるような解答を もらえた ためしが ない。
なので、
どうにも怪訝に思えたり、理解は難しいが切実なことについては、誰に言われることなく、自分で考える。
観察し、推察、洞察を はたらかせようとする。
なぜなら、
終始、何ごとにつけ、自分のほうが間違ってるとか、自分だけが悪いとか責め立てられ続けると、ほんとうに、身の置き所が なくて、気が狂いそうになりかねないから。
幼い頃は、抗う すべもなく、ただ、ひたすら泣き続けるか、途方に暮れるしか なかった。
精神衛生に甚だ悪い。
インターネットもパソコンも普及していない頃、私が若い頃には、図書館なり書店なりへ赴いて、ヒントや解答が載っていそうな本を見当つけて探すわけよ。
あぁ、これだな!と、ヒントを与えてくれたり、やっと腑に落ちる、納得いく解答に遭遇できることも、時たまには あった。
それらの解説は、たいがい、専門筋の学者、研究者たちが、長年かけて、仮説を立て、調査のための実験や臨床などを重ねてのちに辿り着いた、さしあたっての結論だ。
私は、何の専門もない、そのへんのドしろうとでは あるけれど、専門家たちが、労力を費やし続けて、やっと上梓した書物のなかで解説している内容は、
私自身が、自分の周囲を観察して、分析して、推察や洞察を はたらかせる努力を してきた、その結果、
「こういうことじゃないかな」と推測していた内容と合致することが幾度か あった。
まあ、専門家でも、この程度かと、失望するような稚拙な論を公開して恥じないシロモノを見かけることも幾度かは混じっていたけれど(苦笑)
つまり、
およそ「人並み」や「一般的」からは遠い、私を取り巻く、特異な環境を観察し、分析し続けたことが、そのまま、研究者や学者たちの調査とか臨床実験といった手続きに代わるものだったのだとも言えよう。
私の生来からしたら、
もし、人並みや一般的、ましてや、それ以上にも恵まれた環境で生きてきたものなら、
ものごとを深く考えようなんてことは なく、表面だけサラッと流し、自覚に欠けた偏見とウヌボレに気づこうとすることもない、鼻持ちならぬ驕慢な俗物、真の愚者だったかもしれないなと、自分で思う。
ところで、
個人的には、あまり、関心を持たなかった文学賞の類なのだが、今回の『芥川賞【第169回】』に おいては、市川沙央さんという、難病と重度障碍を抱えておられる女性が受賞されたという。
まずは、たいへん良かったと思う。
自分でも「ウヌボレてる」と、少しは自覚していたらしい!?wあの石原慎太郎氏が、生前のように、ここの選考委員を務めておられたならば、どのような顰蹙ものの問題発言を口走ったことやらw
『石原慎太郎氏の差別発言はなぜ繰り返されるのか 「業病」ツイートの根底に優生思想』
ALS嘱託殺人:石原慎太郎氏の差別発言はなぜ繰り返されるのか 「業病」ツイートの根底に優生思想 | 毎日新聞 (mainichi.jp)
2020/7/30 07:30(最終更新 2/2 11:28)
次のエントリーでは、
市川氏の受賞会見時、最もインパクトある問題を提起された発言、
「紙の本への憎しみ」
を めぐる考察を。
【続く】