2021.06.21 (Mon)
『【続・続】最近の話題いくつかのなかから』の続き。
自覚が ない、と言えば、「未開人」みたいな日本の国民性ということを、先日のエントリーで指摘しておいたが、『天皇制』『皇室制度』のこと。
アクロバット的な無理を重ね重ねても、無理の亀裂が広がるだけなのだから、何を執着して思い込んでいるのだか、おのおの国民たちが、胡散臭い「文化人」やらエセ知識人やらの お唱え語りに頼らず、毒されずに、この際、自分自身へ問うてみることだ。
いまどき、男の子を産まなければ ならないプレッシャーは、何ゆえ?
『男系』『男性天皇』でなければ、
女性や女系ではマズイという『皇室神道』「祭祀」って、なに?
それら本質、核心について、肝心の『天皇』自身が、触れようとも しないのは何故?
そもそも、
いちばん、何も知らないのが、ひょっとして、当の『天皇』や『皇族』ら自身じゃあるまいか?
なので、
側近の誰かが、『天皇』『皇族』たる彼らに向かって、「これ、このように するのですよ、しなければ ならぬのです」と、指導しているのだろうか?
あり得ることだと思う。
実際に、『昭和天皇』時代の良子皇后が、侍従に諌められたという話が本当なら。
男性でなくても、女性で いいのなら、
これまでの「伝統」それこそが、連綿と続いてきた「根拠」とされているところの「『皇室神道』祭祀」の意味、
そんなものは無意味なのだというのが本当のところなら、なぜ、『天皇』は、それを言わないか。
そして、
あとには何が残るのか。
『昭和天皇』ご夫妻は軽んじ、前『天皇』、現『天皇』は、共に黙して語りたがらない「『皇室神道』祭祀」。
『皇嗣』は、彼らにとっても国民にとっても負担が大きい、最も重大な儀式を、簡素にすべきだという旨を述べて叩かれた。
「政教分離」の観点からは、もとより、『皇室』が色濃く帯びている「宗教性」の問題が伴っているのは明白なことだ。
だいたい、ほとんどの国民は、『神道』ましてや『皇室神道』の信者などでは ない。
すでに、本筋の血筋から傍系へ傍系へと流れ移っていることは、歴史上も知られている、そこへ「平民」庶民の血が重なっている現代の『皇室』『皇族』。
「男系」だろうが「女系」だろうが、「万世一系」であるぞと誇るのなら、
それは、シモジモ一般の日本国民のみならず、世界じゅう、どこの国の個人だって同じだ。
気の遠くなる太古の昔から「連綿と」続いてきた結果で、われわれ皆が、ここに居るのだから。
何の特別の「伝統」でもなければ、「根拠」たるものも なく、ただ、差別的特権階級でしかない。
そんなものが何故どうして、一般国民の「総意」のもとで「象徴」たり得るのか。
悩み苦しんでいる、死をも思い詰める一般国民に尋ねてみよ。
『天皇』や『皇室』が、心の、あるいは何であれ、あなたにとって「支え」になっているか?と。
戦時中は、はたして どうであったか。
シッポじゃなかった、手を振って振って疲れるほど、アピールが目的の「公務」のために、『皇族』の人数を増やすなんて、愚の骨頂。
いや、真逆だ!
と主張する者は、その主張の根拠を、われとわが胸に問うてみなさい。
そこに あるのは、ただの思い込みと感情だけでしょ。
あるいは、
『皇室御用達』ブランド等を利用し続けたい各界商売人らの思惑。
『天皇』『皇族』の「公務」なんぞは、場合によっては迷惑にさえなりかねないことは あっても、必要不可欠でもないし、彼らにしか務まらないわけでもない。
被災地で ひざまづいて見せた彼らは、至れり尽くせりの御殿へ戻っていくだけ。
市役所あたりの平凡な公務員も、いざとなったら、市民生活を守るため、からだを張って働いてもらわなければ ならないのだから、
『天皇』や『皇室』『皇族』の「公務」と、どちらのほうが大切かと問わば、
それは勿論、言うまでもないことだ。
『皇族』の人数を、これ以上増やして どうする。
むしろ、減らすべきなのだ。
『宮内庁』ともども、ただでさえ、過分な税金を食み続けてきて、しかも、ますます増加させ続けている。
私は、大きらいな『日本会議』あたりの主張と一部分とは言え、重なってしまうのが業腹だがw
彼ら『日本会議』が唱えている、
「菊のカーテンの内側に隠れて、伝統儀式や祭祀だけを やっていれば良い、よけいな公務などは しなくていい」
というのは、ある意味、なるほどで、
外も内も両面から、『皇室』『皇族』なる存在を、国民の眼から遠ざけて、幻影のように薄く薄くボヤケさせていき、ますますもって曖昧模糊、意味不明のまま、やがて消失させていくのには、最も効率的な方法であるww
誰かが、「宗教法人」にでも して残せばイイだろ、とか言ってたようだが、
『天皇制』『皇室制度』は、廃止それでも なお、何らかの形で残したいのが「総意」であるのならば、もっと違う形にしていくことの議論が大事なのは たしかだろう。いずれ、この議論は、どうしても必要になるはず。
飽くまで「出自」や「血筋」の、今にも切れそうな か細い糸に すがりたいのなら、別の形に移行すべきだし、
『天皇』です、『皇族』です、と、自称したいなら、自称し続けたら いいし、
「国民統合の」「象徴」などという、頭が痛くなってくるほど面妖で痛々しいアクロバット演技は もう やめていただき、
女児だろうが男児だろうが構わなく、ご自分たちの「祭祀」を、予算内で済ませられる程度に、勿体だけは つけて行い、
個々の人たちは、『皇族』を名乗り続けたいなら、名乗りながら、どんな問題を抱えた相手とでも、自由に結婚できるように、
要は、一般国民と同じになることで、『皇族』が かこっているという不自由さ、不平・不満も なくなるはずなのだ。
『天皇制』『皇室制度』を廃止すれば即で明白になることは、
いま、『皇室』『皇族』について、次から次へと湧いてきて、並べたてられている諸問題の全て、すべてが一切、キレイさっぱり一挙に解決するということだ。
だいたい、昔は、『皇室』に おいても、相応の男子を迎え入れ、つまり、養子にして、絶えかけている家の跡取りにすることは、めずらしいことでも なんでも なかったようで、たとえば、女児のみの現『天皇』家に、『秋篠宮』家から悠仁さんを迎え、現『天皇』の実子として、跡を継がせるべく直々の教育、養育するという かたちにしていてもフシギは ないだろう。
とにかく、男児が生まれるように細工したなどとは断じて認められない、それを知られては ならない、なぜなら、『皇室』『皇族』は、大なる自然に抱かれ まかせて続いていく、すなわち「やんごとなき」一族なのだから、というのならば、
男児が、とうてい、自然のままには生まれて来なくなったら、そこで「やむ」のみ。
違うだろうか?
もっとも、その時点で「やんごとある」に なっちゃうけどw
庶民層の一般家庭でも、いつしか、女児のみが生まれるようになるサイクルみたいな時期が やって来るようであるのは見受ける。
それは、女性こそが、性の根幹だからなので、要は、男性という「突然変異」から、基本の本然に戻っていくということなのだろう。
およそ一切の「不自然」は、『皇室』『皇族』には、最も ふさわしくない、というのであれば、静かに受容し、少しずつ、終わっていけば良い。
どうしたって そうなる。自然のもとでは。
先日のエントリーでも触れたように、
『ハプスブルク家』にせよ『ブルボン王家』にせよ、これらが潰えて、人々は誰も困っていない。
末裔の人々は、いまだ特権の余韻を残すなかで、それなりに恵まれている生活と人生を得られており、
あの大革命によって、身の毛も よだつ凄惨な最後を迎えた『ブルボン王家』の物語は ことに知られているけれど、潰えて当然と同意した、あの時代の国民・民衆が、今ごろになって、俄然、惜しむはずも なかろうし、今さら、わざわざの王朝や王政の復古を唱えて動き回る人も いない。
かつて、「王朝文化」極めて華やかなりし頃、その面影を残して、
当時の家柄を誇らし気に示す人たちは、現代でも多く存在するけれど、それでも、とうに一般人として、普通に生活しておられるのが殆どだろう。
もとより、現代の平凡な庶民までが、その突出した栄華の残り香を大いに楽しむことは しても、あの大革命で阿鼻叫喚のなかを暴れ回った各界の人々の怒りや憤りは消え果て、誰も困っては いない。
それでも、やっぱり、現代日本に おいては、憲法や莫大な税金で縛っているのだなと、このように私が つくづく思うのは、
たとえば、構成メンバーを減らしていく方向だという『イギリス王室』の事例を見ても分かるように、
『王室』の一員としての称号や王位継承順位を持っては いても、お手当の類は一切、与えられないという立場の王族も いるそうで、その場合は、基本、庶民同様に、まずは自分の持てる能力を発揮しつつ生活していかなければ ならないわけだが、
そういう立場の人(『プリンス』なんちゃら)が、よくない仲間と組んで犯罪とか悪いことしたのが発覚という出来事が報じられているところを見ると、やはり、「血筋」や「出自」の看板が、個々人に優秀さや才覚、倫理観を含む高い見識を与えてくれるわけでは ないのだということがハッキリと分かる。
個人の知能や知性・感受性などの限界で、どこかが、あるいは根本から履き違えた見解を持ったり、ウヌボレる人も いて当然なのだ。
「野に放てば」、「類が友を」引き連れて来る。
だから、やっぱり、「縛っている」のだろう。
そうして、この国では敗戦後、80年近くが過ぎ去った。
「ウヨ」や「ネトウヨ」のみならずで、
ほとんどの人々は、根本的に考え違いを しているのだろう。
「ご清潔で、ご誠実で」「生きている神」の如くな「無謬の人」
などでは なく、それどころか、
その逆でさえあり得ることの疑いを捨てられない。
捨て去れないままでいる。
いまだ「精神は未開人」のような雄叫びと踊りと跪拝を好んで残している現代日本国民は、この さかしまに気づかない。気づけないままだ。