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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2017.01.31 (Tue)

「安楽死」制度

脳内ビジュアルの話

【続】どうにも かったるい

上記エントリーに追加して。。。

 

よく見かけるリクツだけど、

「生きる権利」が あるのなら、「死ぬ権利」もあるはず、と言う。

これって、正確には、

「生まれてくる権利」に対照させるべきなんじゃないかな。

 

「人権」って、人として生まれてきた以上は、ってことで、

胎児には、「人権」なし、ということらしいし。

生まれてくることに関しては、誰しも選択権ないしね。

「産む権利」は、親のものだろうし。

 

また、

健康体の人でも、然るべき条件が整っていれば『死を選ぶ権利』が適用されてもいいのかなと

こう言う「顔本」民に考えてごらんなさいと促したいのは、

以前のエントリーで述べたように、

このことは、犯罪行為についても指摘できることで、

自殺というものは、けっして、「自由」なとか「選択」どころか、

むしろ、その真逆なのだということ。

畢竟、追い詰められてのことである。

 

 

ちなみに言い添えておくと、

私自身、生来が虚弱体質で、免疫系が弱いほうだったり、消化器系が特に弱点なので、20歳代の頃、よその子どもから伝染したことが切っ掛けで、最後は酷い下血まで至って、救急車を要請し、緊急入院するハメになったこともある。このときは、死の一歩手前だったと告げられた。

もしかしたら、このときの大量出血が、のちに、長年、苦しむことになった極度の貧血状態の要因の一つになったのかもしれないが、

あのとき、
とにかく、一晩じゅう唸り、もんどりうつが如く、
疲弊しきった からだを、ただ眠りで休ませることもできず、ベッド横の壁を掻きむしりながらも、凄まじい痛みのなかで、思っていたこと。それは、

 

こんなに苦しい、痛いなら、死んだほうがマシだ。

でも、これほど苦しいままで死んだら、怨みが残ってしまう。

 

ということ。

 

せめて、今一度、やすらかな息を、やすらかな睡眠を、たとえ短時間でも いいから、と願った。

けれど、それが叶ったら叶ったで、「喉もと過ぎれば」ナントヤラ、

やはり、このまま生き続けたいと思うものだろう、人間って。

 

 

その体験が あるから、私としての結論は、こうだ。

苦痛が絶えない、そして耐えられない状態に陥ってしまった人の場合は、

もし、その段階に至ってから、自己の生死について、最終判断を下すにしても、冷静な結論など導けやしないであろうから、

まず第一には、その苦痛を緩和することが最優先であること。

これは、すでに、そういう考えかたを方針としている医療現場も存在しているのだろうし、

実際、
私の実家の母親も、ほぼ寝たきり状態で長期入院していたところ、ある看護婦が齎した出来事が切っ掛けになって、たちまち危篤状態になったあと、

私や親父の、いつも施してやっていた必死のマッサージなどが効いたのか、一時的には、奇跡的に、呼吸が戻ってきていることも知らされたものの、

そのまま一晩、人工的処置によって、心臓だけは動かしている状態を保っていた、

その翌日、主治医との面談時に、この事態から、せめて、事前の状態にまで回復させる可能性は、ほぼ、ないと告げられたとき、

私は、母本人が、まだ元気だった頃から、おりに触れて、こういう状態になってしまった場合は、無理な延命は、やめてほしいと望んでいたことを話した。

同時に、私の目から涙がドッと溢れ出て、主治医は、痛ましそうに見つめていた。

 

そして、

母の臨終のとき、
父は、さすがに、それほど取り乱すことなく、静かに泣きつつも、さんざん苦労を掛けた自分の女房の最後を見つめていたようだが、

私は、ひたすら母を呼びながら、あかんぼうのように、その胸に しがみついて、泣いていた。

 

思うに、母親というものは、
子にとって、「世界の基礎」を体現する「ファム ファタル」にして、
太古から、まさに「大地の女神」に喩えられてきたように、
その土から生まれてきた自分の足が踏みしめる地面に等しいのだ。

その地面が、大地が、ガラガラと崩れていく。。。立っていられない。

 

世のなかの殆どの人々も、リクツ抜きに共感するだろうと確信している。

母親というものの不可侵な重み、
それに与えられる最高の栄誉とは、そういうことだ。

 

たとえ、デキの良くない母親であっても(苦笑)

 

まだ60歳代だった母を見送り、

よりによって(苦笑)、幼い頃から怖れていた、この父と二人で取り残される、という最悪の事態に、内心で絶望しながら、その心を抑え、包み隠して、

事後の煩雑な手続きの類の合間、ふと、息をついて休憩していたとき、父が話し出した。

 

「おまえ、見ていたか? おかあさんなあ、最後は、無理に心臓を動かしておいただろ。あの太い管を、臨終のあと、やっと、口から外した瞬間、ふーっ、ああ、ラクになったぁ、って穏やかな顔に、みるみる なったんだぞ」

おれは見たぞ、と父は語った。

私は、上述のように、あかんぼうのように泣きすがっていたもので、肝心の瞬間を見ていなかったのだ。

 

 

当ブログにて時おり述べたとおり、私には、父のほうにも母のほうにも、それぞれ片親違いの姉や兄たちが いるのだが、

言いかたを変えれば、

私と同じ両親から生まれた きょうだいは存在しない。

 

だから、どの姉や兄と話しても、父についても母についても、共感を得ることは難しい。

姉や兄らは、同じ両親を持ち、思うところに若干の相違は あれど、

皆それぞれに、複雑な、癒しきれぬ葛藤を抱えておりもするけれど、

彼らどうしのあいだで共有できることも また、当然、少なくない。

 

複雑な、癒しきれぬ葛藤、それは、私自身も同様と言う以上に、

私自身が、最も長く複雑な時間を過ごしてきたのだけれど、

その私の思いを共有できる きょうだいは、一人も存在しない。

 

私は、あの姉や兄の心理や葛藤を理解できるのだが、

私自身の考えや思いは、永劫に、彼らと共有できることは ない。

 

なので、

母の臨終時のようすを、父が感慨深げに話したのを聞いたときに初めて、

父が、あたかも同志や戦友めいて思えたのであった。

もっとも、ほんの いっとき、僅かにだけれど。

その父も、すでに去った。

 

 

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