2018.02.16 (Fri)
「『安楽死』制度を、はやく設けよ」に加えて、
「医療の発展は罪だ」云々という、
もしか、やっぱり、当ブログを覗きに来ているのかと思しき「ヤフゴ民」のコメントを見かけたので、あらためて指摘しておく。
「ヤフゴミ溜め」の有害廃棄物コメント投稿常連らは、そうとうにアンポンタンだかスカタンだか知らないが、
ここまで懇切に言ってやらないと分からんのかもしれないと、できるだけ善意に受け止める努力で答えてやるが、ほんとうに、こんなことも分からんのかね?。。。
「医療の発展」は罪だ、いらない、
65歳とか一定の年齢に達して、不治の重病や障碍を得ていた場合、「選択的」に「安楽死」を望めるようにせよ、という主張らしいのだが、
日本社会のサガとかフインキやなんかで、「選択」というのが、潜在的には強制のニュアンスを帯びかねないのは、目に見えてるし、
なにかな、
弱い者いじめ大好きな自民党・安倍政権の、あるいは、これの背後の、ある組織、たとえば『日本会議』のような(エセ)ウヨ組織あたりからの指令でも出てるのかしらんと思えるほど、一斉に複アカを使ってかとも思えるほど繰り返し同じことを投稿し続けているので、まとめて答えてやるが。
あのなあ、
オマエさんらの主張どおり、「罪だから」医療の発達・発展を放棄したとしよう。
仮に65歳なら65歳までには、ほとんどの人が、何らかの病気になったりするし、なかには、重病だったり、全快する見込みが なかったり、障碍を負うハメになったりするわけよね。
もちろん、どちらかと言えば、マイノリティに とどまる、つまり、全体としては、各方面に分かれてもいくし、少ない事例に属するのだろう。
もっと年齢を重ねると、今度は、全体的に圧倒的多数に属するようになるわけだが、まあ そりゃ、若年のうちから、重病人や障碍者が大多数であるわけは ないな。
ところで、もし、すでに、「罪である医療の発達・発展」を、社会から放棄してしまっていたら、
それは、20代、30代、40代、まだ全然、死ぬべき年齢でもないはずの自分自身また家族が、何らかの重い病気や障碍を背負う事態に直面したとき、
すなわち、
自分や家族も、「医療の発達・発展」の恩恵に、もはや、あずかれないということに ほかならないのだぞ。
「だって、まだ65歳になってないもん!」
という要求は通らないの、オマエさんらの主張に従うならば、だ。
ましてや、
「おカネが あるなら別」と、いやらしくも。
金持ちだけが、医療の発達・発展の恩恵に、以後も従来どおり あずかれるはずも なくなるのよ。分からんか?こんなことくらい。
なぜなら、
「医療の発達・発展」というものは、これまで私が指摘してきたように、
あらゆる病人や障碍者は、存在するだけで、彼らから得るデータに寄与している、
ということだからさ。
直接の医療だけじゃないよ、あらゆる補助具なんかにも影響してくるんだ。
せやから、一定の年齢層だけ切り離したって、意味ないでしょが。
ただでさえ、社会全体から見れば、やっぱりマイノリティなのだから、日々刻々と多岐にわたって得られる全人的データは貴重なわけよ。
それに、ヒントとして、医療分野も また、有意義な「モデルを構築する」べきビジネスでも ある。
そのための智恵や何かが欠けてるってことなんじゃないのかな?
もういっぺん、言っとく。
ごく少数の金持ちが、どんだけ多額の税金を納めているとしても、
この社会の恩恵を最も効率良く享受しているからこその金持ちなのであって、
圧倒的多数のシモジモ、貧乏人たちには勝てないの。
厭なら、日本から出て行けーw
おたくら居なくても、シモジモは、何も困りませんので。
民衆を搾取し、国力までも疲弊させるカネ持ちなんて、いっそ居ないほうが、むしろ、助かるんじゃないかねww
ま、「医療の発達・発展」を、この社会が放棄しても、あくまで私個人的には、いっこう かまわぬよw
一番、泣かなきゃならないのは、この先が長いはずの若い年齢の人たちだもの。
どうしても、「安楽」なのかどうかも保証の限りでない「安楽死」を「選択」できるようにするのなら、そうね、あとは、おつむがシッカリしてるうちに、つまり、家族や周囲から、はよ死んでくれんかな、ジャマだと見做されてしまう前までに、明快な意志を表示しておくようすることさね。
それと、何歳に達したら、一切の治療を拒絶する意志表示。
そうして、あとから撤回することは一切、認めては ならない。
なんなら、あらゆる社会保障や福祉施策も、いっさい廃棄して よろしww
つまり、税金不要、
そうなったら、どだい、国会も政府も役所も不要になるわね。やってもらう仕事が ないんだからw
「俺は早く死にたい!」
と、常々のたまっていた うちの親父が、齢九十を超えて長生きした皮肉な例とか、
「シモの世話になるくらいなら、さっさと死なせて」
とカッコ良く宣言していた母親も、60歳代で迎えた最晩年は、家族どころか、他人の若い男の子に、おむつを替えてもらう状態になったけれど、意外にも、本人は、そんなことは大したことじゃない、くらいにまで、考えを変えていたようだった。
その人の性格なんかにもよるかもしれんけど、
私の周囲を観察してきた経験では、まだ、せっぱ詰まってない、余裕ある普段の段階で、さも、未練がましくなく、思い切りの良さげな意思を吹聴する者ほど、いざ、そのときに直面したら、自分では思いがけないほど、今生に執着したりするもんなのさ。
…業平だったかな、昔々の日本の貴公子も、このように述懐したというでは ないか。
「つひに行く道とは かねて聞きしかど」「昨日今日とは思はざりしを」
とね。