2019.10.14 (Mon)
トランプさんでも橋下さんでも百田さんでも竹田さんでも、
いま話題のグレタ・トゥンベリさんを、アタマから批判したり、中傷したり小バカにしたりするのは、
私に言わせれば、そんな彼ら自身が、何か確信犯的なのか?それこそ、何らかの勢力や権力筋に「洗脳」されている軽薄短小者なのか?
と疑わしい連中です。
それとも、
「汚れっちまった」エセ大人であることに、まったくの無自覚なのか。
彼らの言っていることは、単に「自分棚上げ」や「自己投影」から出ているコトバとしか思えませんわ。
まだ子どもと言っていいほど若い人を つかまえて、やけにムキになってさ(嗤)
実は、このエントリーも、数日前の ある記事を読んで、ほぼ書きあげてあったのを、またぞろ、そのままにしていたのだが、
さて、東大名誉教授の上野千鶴子氏が、こう おっしゃったそうだ。
「環境問題は『未来世代との連帯』と言われてきました、が、その『未来世代』は死者と同じく見えない、声のない人びとでした。その『未来世代』が当事者として人格を伴って登場したことに、世界は衝撃を受けたのでしょう」
いやいや。
子どもや孫を持つ人たちは特に目の前で日々、見ているじゃないですか。「その『未来世代』当事者」を。
私自身は、子や孫を持たなかったから、怪訝に思っていたけれど。
「しょせん、子どもが いない者は」
と言う人たち、世間では とても多いみたいよね。
でも、最近は、
実際には、そんなもんなのだなあ?と、諦念に似て思うようになった私。
以前から指摘してきたけれど、
子どもを産み落とした人たちは、私に言わせれば、往々にして楽観的で、基本が俗物なのですw
「子を持って一人前」とか、子を持つことで、それだけで、なんだかリッパになれたような気が するらしい、野生の猿の価値観さながらな人々ww
そうでないと、
子を産み落とすことなんて、
ましてや、
このような日本で、なにがしかの抵抗感どころか、子を産むのが当然!という気には とうてい、なれないはずですよ?
あのグレタ・トゥンベリさんの世代から見れば、まさに、私らの世代こそを中心に含めて、「よくも!」と糾弾したくなる対象だろう。
けれども、
例の『福島』での原発大事故を機に、あらためて私が驚いたのは、
「いつの間に!日本じゅうに、こんな たくさんの原発が」
ということだった。
ところで、私の実家では、いつだったかの過去エントリーで述べたように、
夏の1ヵ月間だかは購読料ロハにするという約束を、営業に来たオニイチャンに、うちのケチな親父がフッカケて、無理やり押しつけたらしく、
以降、ずーっと、『読売』新聞ひとすじで何十年と購読していたのだがw
そもそも、国の「原発」施策に大いに関わっていたという、あの『読売』ですら、私が若かった頃までは、「原発」の問題についても、わりに、ちゃんと報道していたように記憶している。
でないと、中学・高校生時代の私が、ほぼ『読売新聞』しか読む機会が ないのに、問題意識を少しは持ち得ていたはずが ないので。
いまでは もう、すっかり、安倍政権ソンタクのヨイショの、
『自民党』御用達ペーパーとなり果てて久しいけどなw
うちの親らは、「低学歴のうえ、女」である母親でさえも、政治や社会問題全般に対して関心は持っているほうだったのだが、なぜか、両親ともに、「原発」問題については、何か話していた記憶が ない。
フシギな気が するほどだ。
それと、
私が、「環境に良くないんじゃ」と咎めたことに対して、「うちだけが心がけてもムダ!」と即座に一蹴されたという出来事も、一度ならず あった。
特に母親のほうは、戦中・戦後の子ども時代を経験しているにもかかわらず、食品を使い忘れたまま腐らせてしまったり、つくり過ぎて廃棄したり、食べ残したりと、食べ物を粗末にする傾向が あったので、子である私のほうが、よっぽど、食べ物をムダにすることへの抵抗感が つよくなった。まさに「反面教師」と言えるだろう。
うちの親らの世代というと、間違いなく、まずは、あの戦争に翻弄された世代である。
親父らの同世代は、例の『特攻隊』といった「クレイジー」な命令にも従容と、あるいは嬉々として、従った。
その世代が、戦後、中心となり、こんにちの日本へと繋がる道を着々と つくりあげてきた。
うちの親父は、個人的に、自分の養父に対する恨みも あってか、
自分自身が高齢になるにつれて、親世代に当たる『明治』生まれ世代への反感を つよめていった。
もとは、若きエリート軍人らしく、『天皇』崇拝者だったのに、いつしか、『昭和天皇』に対しても冷淡な姿勢へ変化していった。
自分自身の子どもや孫が いるからこそ、全体の将来像を思い描き、深く案じもするはずだろうと思うのだけれど、はたして現実は、そうだろうか?
うちの親も、自分自身の人生への不満やらを、子どもで個人的に解消したいと思っているフシは見受けられたが、
おおむねは、単なる「自己投影」に発し、軽薄な「自己満足」に終わっていた。
いつの時代も、子どもは、その親世代のツケを払わされることになる、
それが、この世の現実では なかろうか。
かつての子ども、すべての子どもは、グレタさんなのだ。
それにしても、あちゃらの若者は行動的で、おとな顔負けにシッカリしとんなあと感心することも多いけど、
日本の子どもや若い世代は、いよいよキモチわるいくらい、おっとなしいねえ~。だいじょうぶかよ?
先日も、二十歳代の人と、仕事の ありかたなどについて少し話を する機会が あったのだが、あまりにも、従来の社会や陳腐な おとなたちの影響下にあるのか、些かの疑問も持たず、画一的で、通り一遍で、「哲学」のテの字もない、ある意味、人間の現実というものを無視した、形式的良い子ちゃん、つまり「優等生ちゃん」むき出しで、「こりゃあアカンわ」と思った。
その若者自身は、公私とも平均以上に恵まれた立場に居る、健康的な好青年だけれど、
何と言うか、
適性とか考慮することなく、言わば「苦役」であっても、「仕事」というものは、そんなものでアタリマエという考えなのね。おそらく、世間一般からの受け売りだろう。
そういう、決まった「枠」が大前提として あり、
そこから少し違う角度でも考えてみることなんて、思いも つかないようだった。
そりゃ「ブラック」でも従容と黙々と従って、逃げもせず、抗議もせず、
機械的に日々の作業を続けていた「良い子ちゃん」が、ある日とつぜん、とんでもない事件を起こして、周囲が仰天する、そういうパターンが増えてきたような気もするわけよ。
【続く】