2024.11.03 (Sun)
そういうものが あると言われる。
なんとなく分かるような気は していた。
さて、
『創』という月刊誌の編集長氏が、先日のコラム記事内で、いわゆる「獄中結婚」「獄中養子縁組」のことを解説しておられ、それを読んだ私も、うちのブログ エントリーで、そのことを話題に、あれこれと述べたのだが、
最新の記事に おいては、その話題の関連で、あの『オウム真理教』の信者だった死刑囚と獄中結婚を実行した女性の話が紹介されていて、それについても、いろいろと思うところは あったのだけれど、
ひとつだけ、素朴な疑問を言わせてもらうとすると、
「自分自身が、死刑を宣告された究極の事態になって、そこで初めて、言語道断な罪を犯していたのだということに目が覚めたのですか?」
ということ。
お門違いの他者を、むざむざと殺め、苦しめ続ける前に、もっと、もっと早く、気が ついてもらいたかったね。
まず、『オウム真理教』というと、真っ先に脳裡に浮かぶのが、
「教祖」だった松本智津夫が、衆院選挙に立候補していた おりの、各候補者がアピール演説する、いわゆる政見放送を見たときの話。
たぶん旧ブログ、現ブログともに、過去エントリーで述べたことが あるのだが、
あの当時、私は20歳代だったと思う。
その日、家族は皆、不在だったので、一人で夕食を済ませたあと、なんとなく、テレビの政見放送を眺めていた。
ぼんやりと眺めつつ、
「まあ~、世のなか、いろんな人が いるもんだなあ」
と、
なかば呆れつつ感心、感心しながら呆れ、という気分になっていった。
登場した立候補者たちは、やはり、中高年の男性が殆どだったように思う。
そうしているうちに、例の松本智津夫と、その信者らが登場した。
いまでも、ひときわ、まざまざと思い出せるよ。一見のインパクトだけは凄かったからねw
ただ、そのわりに、松本智津夫本人の肝心の演説に関しては、まーったく憶えていないww
テレビ画面では、やや後方ど真中に、松本智津夫が、どっかりと座り、なんだかニヤニヤと薄ら笑いを浮かべていて、それを中心に、数人が独特な服装で、ミョウな歌や踊りとともに登場、そんなふうな構図だったと思う。
私は、それを見た瞬間、
「なに?これ、、、」
と、まじで呆気に とられた。
いま、再び思い出してみても、浮かぶ感想は、まったく同じ。
「なんだったの?あれは、、、」
でしか ない。
これに付け加えるとしたら、当時も今も変わりなく、
「異様なまでに子どもっぽい」
という印象、それだけだ。
私は、幼少の頃から、
たとえば、特定の宗教に凝っている人とか、そういうわけでなくても、何かしら、ふつうとは思えないような偏った傾向を滲ませて、独特の言動を向けてくる人には、最初からハッキリした迷惑でも被らないかぎりに おいて、べつだんの反感とか嫌悪感に至ることは ないけれど、とにかく違和感が つよいと、どうしても、敬遠しておきたくなる気持ちを払拭できない性格なのだが、
その違和感、どうしても鼻につくほどの異様な感じ、そういう感覚を、『オウム真理教』のようなものに のめり込んでしまう人たちは持ち合わせていない、いなかったらしい、まずは そのことが、終始どうにも理解し難いのである。
ところで、
幼なじみの家の親子が、のちに、とある新興宗教に のめり込み、それを めぐって、私のほうも、多少、特異な経験に巻き込まれたという出来事が起き、このことも、過去エントリーで とりあげたことが ある。
ただ、
いまにして振り返ると、平常の生活のなかに おいて、親しい個人どうしという何気ない交流のなかでは、もっと鷹揚に見過ごしてしまったかもしれないということは、その幼なじみとの経緯のなかで、少し感じたことも あるのだが、結局のところ、やはり、私のほうの違和感が つよ過ぎて、受け入れられるものでは なかった。
学業優秀で、気立ても良かった、その幼なじみが、親子ともども のめり込んだ新興宗教も、ご多分に漏れずと言うか、要するに、個人崇拝を大きな特徴の一つにしていたわけだが、この感覚も、常日頃は利発な彼女と違って、いつもボンヤリした性質の、劣等生そのものだった私には、いまも理解し難いままだ。
これは、ずばり言って、『天皇』『皇室』崇拝に対する違和感や反感とも共通している。
そうは言っても、いちおう、現行憲法を戴く国民のハシクレなのだから、このことに触れざるを得ないようなことが あるたび、やはり違和感やら困惑を来たしてしまい、なんとも言いようのない、どうにも割りきれないような気分になってしまう。なので、ふだんは、極力、考えず、目を逸らしておくようにして やり過ごすことが多い。
そんなわけで、
「男女差別」は言い募るが、それ以上に憲法違反であるはずの「門地差別」「血筋差別」の問題は全くスルーして、その甚だしい矛盾にトンと平気でいられる手合いにも、
そういう手合いが支持している政党と結託している団体組織が主導する国家の権力制度にも、
納得いかなさから不快感さえ もよおす私なのだが、
個人崇拝や特定の対象を崇拝して やまない、そこに何の疑問も持たないでいられるような種類の人たちと、こんな私との あいだに、厳然と横たわるものが あるのだとしたら、
たとえば『オウム真理教』のような宗教の類にドップリ浸りきってしまう、なんなら凶悪な犯罪にまでも、一心不乱の体で突き進めてしまう、そういう種類の人は、およそ違和感や嫌悪感、異様さに辟易するというような、言わば「バランス感覚」とでもいうものを少しも持ち合わせては おらないらしい、このことに対して、私は、ついていけないと感じ、どうしても、不可解さが拭えないのである。
心底で、「自分は特別、特別のはず、特別でなければ ならない」のだと、強迫的かつ無自覚に思い込んでいそうだなと思える。
教祖と信者の双方ともに、本質的には、「ナルシスト」要素が つよいのでは ないかな、とも察している。