2022.06.16 (Thu)
『性風俗店の無料案内所模した案内展示に苦情、急きょ撤去 福岡パルコ』
という、少々、説明不足な感のある『朝日新聞』のウェブ記事を読んでみたんだけど。
ここで一言。
『福岡パルコ』さん江。
「陳腐ぅ!!」www
しかも、「新たな感覚を広げよ」をテーマに、
ですって?
ますます陳腐やんか、「パルコ感覚」wwww
しかも、ダサい。![]()
さて、昔は、「住み分け」的なことが何事にも、いちおうは あったらしいが、
同じ『昭和』の時代でも、そうとうの「幅」が あってね。
だいたい「バブル」以前までは、
たとえば、私も大好物の江戸川乱歩の小説を、ある人が、子ども時分に、父親の書棚から抜き出して、こっそり読んでたら、親に見つけられて、えらく叱られたってな話も あるくらいだからw
もしも、自分の子が、乱歩の『孤島の鬼』とか『陰獣』とか『人間椅子』とか読み耽って、うふふ、えへへ、にへら~と笑っていたら、多少の心配は するかもしれないけどwまあ、なんせ、私自身が大いに好んでいる立場だからなあ(苦笑)叱りつけるというよりは、どうにか こうにか、宥めスカそうと努めるかな?大きくなってからの楽しみに取っときなさいヨとか??(苦笑)
その点、いまどきは、何不自由なき裕福な家庭で育った女子大生が、みずから好んで、最底辺の性風俗にさえ従事することも現実、それほどには めずらしくもなくなってるようでは あるからして、まあ、性的な方面に おいても、「なあなあ」「ええじゃないか」感覚みたいなものは、かの「バブル」時代から こっち、一般社会のなかで顕著になっていった傾向という指摘は できると思うね。
それでも、私自身、「性風俗」関係の「案内所」っつうのは、実際に見た記憶が ないので、パッと見ても、ピンと来なかったけど、もし、くだんの現場を通りかかって、気まぐれを起こし、その「囲い」のなかを覗いてみたとしたら、「下着姿の女性」の絵と共に、「刺激」が どうちゃら書いてあったら、なによ?コレはと、多かれ少なかれ困惑と不快を もよおしたかもしれない。
だからと言って、いちいち苦情電話を入れるエネルギーもないけど、
ただ、センス悪いなあという印象は確実に持っただろう。
しかも、これが、「アート」の御案内だというんだから(苦笑)
ま、いわゆる性風俗について、良いとか悪いとかの判断は、掘り下げていくと、けっこう困難なものが あるし、ある意味でのリスペクトも、逆に、軽蔑や侮蔑も、なんか違うとは思う。
ただ、もと「コピーライター」として言わせてもらえば、およそ宣伝や広告というものは、いわゆる「ゲイジュツ」とか「アート」ですから!と、孤高を保てば良いわけじゃないのよね。残念ながら。
主たる層に対して、どのように訴求し、誘導するかという、
そこは、あくまで、一つの商売なのでねw
だから、センス悪いし、ダサいし、そもそもカン違いしてる、
何よりも、「新たな感覚を広げ」どころか、思いっきり陳腐も甚だしいよ、ってことだ。
聞けば、
自身のヌードを、作品のモチーフ的に創作活動しているアーティストの女性も参加予定だったそうで、これを原因に、展示を辞退されたそうな。
そりゃ、困っちゃうわよね(苦笑)
カン違いした男どもに、ニヤニヤ(・∀・)ニヤニヤしながら見に来られるのもねえw
2022.04.19 (Tue)
『人を殺させる者、させられる者。』の続き。
とは言え、有権者・国民全体の知性が、そうとうに高くなる社会が実現される日は、恐らく、はるかに遠いのだろう。見果てぬ夢のように実現不可能なのかもしれない。
そのことは、すなわち、まともな「社会主義」や「共産主義」が実現されるにも甚だ困難であり続けたことの本質的理由をも示しており、
往々にして、それらの主義を掲げている国に おいてこそ、最も、情報の極端な遮断や管理社会による専制・独裁的為政者・政権が出現し、尚且つ操作や小細工してでも、長期に わたり居座り続ける例に事欠かない原因でも ある。
ま、『共産主義』の実現に至るまでも、その前に要請されるのは、やはり、有権者・国民の知性と聡明さであるのは同じことで、これなしに無理やり導入してしまえば、あたかも「先祖返り」した如くに、当然、あらゆることの強制的管理、はては「密告社会」を招く、そういうことなのだ。
古今東西も現状も、結局のところは、
一言で言えば、やはり、「プーチン」的存在一人に振り回されている。
故ソルジェニーツィン氏にも見通すことは できなかった。
なぜ、このような事態を迎えることになるのか、
どのように防いでいくのかを、どこの国であれ、民族であれ、政治体制を とっているのであれ、よくよく考えておくべきことだ。
さて、ここ最近の日々は、私が学校時分から確信していたことの一つ、
「文学界の最高峰は、ロシアにあり」
ということ、それが、何度か、わが胸中を よぎっていた。
なるほど、「プーチンのロシア」、とりわけ、プーチン政権下にあるロシア国民と、ドストエフスキーたちのロシア、これらの甚だしく深い、少なくとも、そう見える乖離を、どう解釈したら よいのかと。
ただ、ひとつ言えるだろうことは、
間延びしたように なだらかな平坦な場所には、けっして ありえない、峻険たる「文学の高峰」に至る恐ろしく険しい細い道なき道の下には、人々の生活の、民衆という存在の、血の涙が幾層にも重なった地下水脈として流れていて、
いよいよ頂上に辿り着けば、そこには、怨嗟や悲嘆の呻きが ひっきりなしに立ち昇って谺しており、合間合間に、ささやかな慰めと、かすかな願いの囁きも入り混じっている。
私自身、学生時代から、特にドストエフスキーを好み、その作品の殆どは読了していたのだけれど、『カラマーゾフ』だけは「最後の お楽しみ」的に未読なので、はやく読んでおかなくちゃと、かねてから思っている。
トルストイ、チェーホフ、ツルゲーネフ、プーシキンもだ。
なので、
侵攻が激しくなり始めてから、ウクライナの どこかの街で、プーシキン像が撤去されたというニュースを見て、理解は しつつも、なんとも言えず哀しくなった。
ドストエフスキーも、非常に敬愛していたという、プーシキン。
『「プーチンはウクライナ人を殺し、同時にロシアも殺している」ロシア人作家が語る“本当のロシア”とは【報道特集】(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュース』4/17(日) 9:20配信
「2月24日以降、ずっと悪夢を見ているような気がします」
でしょうね。
まったくの他国人である私ですら、『ウクライナ』侵攻が報じられてからというもの、毎日げんなりする気分だもの。早く停戦をと思わない日は ない。
「プーチンを倒せるのはロシア国民だけです。私たちが目指しているのは、ロシア国民に理解してもらうために彼らと対話することです。彼らを私たちの仲間に引き入れたいのです。しかし残念ながら、これがとても難しい。そのためには、新たな仕組みや手段を見つけなければいけません。今、それを検討しています」
とても難しいのかあ。。。
それは困るなぁ。まじで困る。
「新たな仕組みや手段を検討している」
これについては、他国の者も精いっぱい協力したいところです。
そう言えば先日、やはりニュースに登場した、在日ロシア人の若い女性が、ロシア国内で、「声に出さないデモ」みたいな活動を実行し始めているとか言ってたみたい。たとえば、支払いする紙幣の端っこに、メッセージを書き込んで手渡すなどの方法で。
「血を流さずに今の政府は出ていかないというのは明らかですから、その結果、ロシアという国が新たに数か国に分裂すると思います。非常に困難なプロセスになるでしょう。もしかしたら内戦になるかもしれない」
ああ、、、![]()
世のなかの おとなたち誰もが、予想しているようすも なかった「『ソ連』崩壊」を、その20年近く前の児童・生徒の頃、ハッキリ予感していた私なんかでも、そこまでのことは考えてなかった。
でも、言われてみれば、
『アメリカ』の前大統領だったトランプ氏の政権が、退くべきときが来た最後の最後に、議会が襲撃され、死傷の場と化した、あの悪夢と恥辱の出来事が起きたのだものね。
「プーチンのロシア」が、その程度で済むはずは ないか。
しぶとく悪足掻きする連中のパターンだ。
ただでは起きないし、転ぶときは、傍も巻き添えにするか、傍だけ転ばせて、自分が立つ。
それが「敗者」にならないことだと信じている。表面的な、目先の「勝ち負け」でしか考えられないオツム。
最後に、これだけは、明確に言っておきたい。
同じ日本人に対してなんだけど、
以前から、言っておかないとと思っていたこと。
日本国内で、ロシア料理店などを営んでいる人たちや、少なくとも一般のロシア人に対して、差別や排斥的な言動を とるのは、やめなさい。
なんと下品で、短絡的なことか。嘆かわしい。恥ずかしいったら ありゃしない。
地方の温泉宿泊施設だかが、早速やらかし、あろうことか、公共交通の案内表示などにまで、利用客の一部からのクレームが あったことを理由に、そうした動きが見られたという報道を見たけれど、
そんなことを やっても、何らの改善や解決にも ならないどころか、
われわれ日本人にとっても、あとあと、けっして良くないことを招くもとに なる。子どもの教育にも甚だ悪い。
…
立って、今すぐ、十字路に行って、ひざまづいて、地面にキスを、
それから、四方に、世界じゅうに、お辞儀して、大きな声で、
わたしは、人を、殺しました、と…
(「ソーニャ」の ことばのウロ覚え――ドストエフスキー『罪と罰』から)
『罪と罰』の登場人物のなかでは、現代日本女性のハシクレである私にも理解しやすかったのは、ラスコーリニコフの妹ドーニャだな。
「聖と穢れ」に引き裂かれているかのようなソーニャの、ある意味での欲望さえ垣間見える、家族への やみくもな犠牲的奉仕は、
殺人を犯し、やがて、人の世の刑に服することとなったラスコーリニコフたちへの奉仕へと切り替えられたことによって、彼女のなかにも潜んでいた ある種の歪みが ただされたのだとも思える。
とにかく自分が、自分さえ犠牲になれば いいということにも ならない。
誰かが誰かに犠牲を払わせるのを、可能なかぎりで防ぐことも大切なのだ。
ユダヤ人という存在に対する、作品のなかでの扱いは、かのシェイクスピアにも興味深いものが あるのだが、ドストエフスキーも、ユダヤ民族を殊のほか嫌っていたそうな(苦笑)
ところで、
『誓いの休暇』という『ソ連』時代に制作された映画が あるのを知っている人は、いまどき少ないだろうか。
『西部戦線異状なし』のパウルたちと、何も違わないような、ごく若く、純朴な兵士の、つかの間の出会いと別れの物語だ。
もっと古い、終戦して数年後の制作である『山河遥かなり』はアメリカの映画だが、
こちらは、『ナチス』のせいで、家族全員が引き裂かれたまま、あても なく彷徨する、東欧の少年と母親の再会に至るまでの物語。
私は、学校時分に、テレビで観た記憶が あるものの、
長いこと、『誓いの休暇』とゴッチャになっていた。
●。 ○。 。●。 ○。 。● ○。 。● ○。 。●。
【旧ブログ2011/04/02の記録から抜粋】
亡き母が
忘れ得ぬと言い残せし
ト翁の『復活』
われも手にせむ
2022.02.04 (Fri)
『「繋いでいる」ものは』の続き。
こういう記事が あった。
『「死」とは何か 脳死状態で約20年生存した人の脳はどうなっていた?〈週刊朝日〉』1/28(金) 19:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f198cd9fcddb59a4f8ac42cd2397e65172380d16
うん、「脳が溶けて」「液状化」とか「石灰化」と言っても、全体一挙に進行と限ったわけじゃないのだろうし、
こまかいところまで全ての動きを脳だけが一手に取り仕切っているわけでもないのだろうし、
連結しつつ、分担も あって、ある程度まとまった、自動的に進める機能も、局所ごとに持っているのだろう。
爪や髪だけは勝手に順調に伸び続けている、とかいうね。
人工的な装置によって、機械的維持は継続できても、結局、肝心のところは、不可逆性が覆せないのであれば、問われるのは、決断だ。
維持し続けるにせよ、止めるにせよ、それぞれに別様の、
得られるメリットも、可能性を断ち切るデメリットも ある。
私宅の、初代のパソコンだったかな、それが突然、故障したときに、修理業者に来てもらって、何が原因か調べてもらったことが あるんだけど、
そのときに初めて聞いて知ったのが、「論理障害」「物理障害」ということの違い。
パソコンの仕組みも、カメラなどの仕組みも、おもしろいことに、人間の脳や眼球の仕組みと基本が共通してるみたいよね。
むかし、私が学生時分だったか、
「透析」患者と家族が、腎臓移植を望んでいるといった話を、新聞やテレビで報じているのを多く見聞するようになった、そのたびに、
「他人の内臓を もらってまでも生きたいなんて、あつかましいこっちゃ。それなら、自分の家族や身内から もらったらエエねん。それも無理なら、諦めるべき」
などと主張して憚らなかった、うちの母親は、内臓移植そのものも、遺体の解剖にも嫌悪感を隠さず、断固反対!の意見だった。
当時は、「脳死」の問題がクローズ アップされてきていて、
私自身も、かなり曖昧で怪しいものが少なからず残ってるようにも思え、その頃の、気まぐれ日記ノートには、
「そのうちに、脳も死なんのに、すげ替える」(ように なりかねない)
てな、俳句モドキを書き残している。
これは、父方の親戚筋の嫁ぎ先だったかと記憶しているが、
その親戚の女性たち家族一行が、冬季休暇の おり、スキー旅行に赴いた地で、さっそうと滑降していた最中のダンナさんが、いったい どうしたことか、立木の太い枝か何かに気づかなかったのか、よけられず、頭部からマトモに激突してしまい、ほぼ即死か脳死に近い状態で、緊急搬送されたという事態が起きた。
私とは全く面識が なかった親戚なので、自分の身内に起きた悲劇という感覚は、正直、希薄だったのだが、それ以上に容赦もないのは、うちの母親だった。
なんでも、急死した夫側の両親が、担当医と病院に対し、息子を蘇生させる努力をと執拗に要求して諦めなかったそうで、
その理由というのが、たしか、
「うちの息子は、とても優秀な頭脳を持っているんです!なんとか蘇生させれば、奇跡は起きます!!」
「なんとしても蘇生させないと、もったいない!」
とかナントカと頑強に主張し続けたそうな。
なんだか、最近、90歳代の母親の死亡後、すでに1日以上も経っているのに、蘇生させよと要求し、あげく、訪問介護を担当してくれていた医師らスタッフを死傷させたという立て籠もり事件の、寝たきり老母をダシに、自己愛を満たしていたオッサンを連想させるが、
そんなムチャな要求を言い張って やまなかったものだから、医師や看護師らの顰蹙を買っていたことを、自分も「また聞き」で私に聞かせた母親が、さんざんに嘲りつつ話していたものだ。
「息子が優秀なアタマも何も ないやろが。とっくに死んでおます!ちゅうねん。アホみたいや!」
と。
まあ、特に親子の関係では、互いに、どんな姿になっても、とにかく生きていてほしいという愛着や執着が起きやすいものなのだろうが、それは、肉体そのものに及んでいてもフシギは ない。
親にとって、自分の子は、自分の肉を通じて生まれ出たもの。
子にとって、自分の存在が生まれ出た みなもと、それが、親の肉体。
とりわけ母親の からだに対する愛着・執着は、子にとって、独特の重要感が あるのは、多くの人に共通している感覚であろうし、
日本語には、母親というものを、あたかも「聖堂」の如く喩えた呼びかたも あるし、俗に「お袋」という呼びかたも あるくらいだ。
そう言えば、うろ覚えだけど、フロイトだっけ?
『夢判断』に おいて、「トンネル」は、母親の産道の象徴とかいうの。
そうだ、
「多元宇宙」と「トンネル仮説」理論だw
ま、さて置き、
後年、うちの母親自身の『C型肝炎』が判明し、同じ血液型の娘である私は、移植で改善できうるものなら、自分の肝臓を提供してでも、と考えていたのだが、
生来の虚弱で、長年の『本態性高血圧』で、他にも持病が多かった母親自身には、移植手術に耐えうるだけの余力が、60歳代にして、もはや、残っていなかった。
また、私自身も、長年の持病の結果、開腹手術に至っていたし、やはり、母親に似たのか、虚弱な体質なので、自分自身の からだにメスを入れ、内臓を欠けさせたとなっていたら、いまごろは、もっと難儀な状態に陥っていたことだろう。
意外なことに、
むしろ、家族間に おける内蔵移植は、あかの他人との それよりも格段に、複雑な問題が起きやすいのだそうで、家族関係の隠れていた心理的問題をも浮かびあがらせることが あるという。
介護の問題とも通じるものが ありそうだ。
ところで、
題名も筆者名も忘れてしまったんだけど、むかし、新聞に連載されてた小説のことを思い出した。
それは、先天的障碍児、ずばり、奇形、それも、脳が ない新生児を題材にしていて、
実の両親たちのショックと狂乱、激しい拒絶を始め、病院のスタッフたちの困惑や葛藤といった、周囲の人々のネガティブな反応や心情が渦巻くなか、その新生児を担当した看護婦が、ただ一人、だんだんと、情愛を覚えて傾けていき、やがて、ある日あるとき、
くだんの あかんぼうを、「おくるみ」に包んで、両腕に抱きしめ、病院から連れ出して逃亡を図るという、そんなふうな場面が あった。
この あかんぼうが「安楽死」させられそうになったことを切っ掛けに、とか、たぶん、そういうストーリーだったように憶えているのだが、
とりわけ鮮烈な印象が残ったのは、
脳の ない あかんぼうは男児で、
ふしぎなことに、性器だけが、申し分なく備わっていて健康だった。
その性器が、まめまめしくケアに つとめる看護婦の手のひらに向けて、おむつを はずしたとたん勢い良く、気持ち良さげに、清らかな おしっこを放出する、そんなふうの場面だ。
全身麻酔と局所麻酔の両方を体験した私は、それぞれの違いを考察し、うちのブログでも(旧ブログも含めて)エントリーに まとめてある。
全身麻酔について一連の流れを実体験した人のコメントには、さすがに、「ヤフゴミ捨て場」と言えども、ほぼ共通した独特の現象が あった事と、真面目な所感が窺えた。
先日、当ブログでは、これらのエントリーをアップしている。
なおも、ちらちら考えていて、
もしかしたら、水分というか粘液状のものに決め手が あったのかも?
などと思った。バラバラのものを繋げていなければ ならないはずだから。
生命活動すなわち新陳代謝すなわち、それは、化学反応。
外部から、栄養などを取り込み、供給し、いらないものはポイする。
こういった一連の化学反応のサイクルこそが、すなわち生命活動なのだという。
「有機的結合」性。。。
ひとたび連結・結合したものをば、バラバラに崩したくない。
調節し、立て直し、維持し続けたい。
壊したくない、死にたくない、という本能的な思い。
自殺願望だって、本音では生きたいことの裏返しだ。
なくなってしまえば、もう二度と、失われることは ないから。
唐突だが、
いわゆる「膠着語」としての日本語。
「てにをは」などの助詞とかね。
これが、「膠」として結着・連結の機能を正しく果たせていないと、一見は「日本語文」の体らしく見えても、よく見るとブツブツ途切れてバラバラの支離滅裂、ただの意味不明な「日本語文モドキ」でしか なくなる。
生命体も同じようなもんで、繋いでいる連結が切れてバラケたら、様々な基本物質の単位、分子のレベルに戻るのだろう。
目には見えない、手に掴めない、数値化も できない、たとえば「視線」の強さ、「感情」や「念」といったものですら、物質かもしれないね。
2022.01.08 (Sat)
名優シドニー・ポワティエが亡くなったらしい。94歳だったそうな。
『野の百合』は、中学か高校生の頃に、テレビの洋画放送番組で、親と共に、茶の間で観た記憶が ある。
ストーリーも感動的だったが、とても力強い存在感のある俳優さんという印象だった。
『いつも心に太陽を“To Sir With Love”』のほうは、中学校の行事の一つだった映画鑑賞会で、講堂にて上映された。この映画は、遠い異国であるイギリスが舞台だし、登場する学生たちは高校生で、時代も世代も、われわれより上なんだけれど、それでも、級友たちの多くが、大いに共感を覚えたようだったが、ここでも、新任教師役のポワチエの存在感は格別で、ただただカッコよくて。
それにしても、あの当時からイギリスでは、すでに、黒人やアジア系の人たちを多く受け入れていたんだな。
私は、登場する生徒役の一人でもあった「ルル」による、時代のスタイルと情感あふれるオシャレな主題歌に、たちまち夢中になり、
当時は、ラジオのFM放送で、たまたま流れてきたのを辛うじてカセットテープに録音し、「やったぜー!!」と喜び勇んで、親しくしていた友人に、何を言っているのか、英語の歌詞を聞き取ってもらったりして、そのまんま覚えてカバーしたりしたものだが、
ところが、だいぶトシくってから、『ユーチューブ』の動画を手軽に観ることが できるようになったときは、あらためて、なつかしの主題歌を聴くことも できるようになり、ほんとうに嬉しかった。
ただし、学校時分に、友人に聴き取ってもらった発音が、かなりの部分でメチャクチャだったことも分かった(苦笑)
以前にも触れたように、洋画鑑賞を特に好んでいた うちの母親の持論が、
「子どもと動物が出てくる映画と、主題曲が名曲の映画は、まず、ハズレが ない」
というものだったのだが、これは当たってると思う(笑)
『野の百合』の主題歌も、これもカセットテープに録音していたのだが、
いかにも「ブラック スピリッツ」溢れるような、素朴で力強い歌唱である。一度聴いたら、忘れられない。
ただ、これは、ポワチエが歌っているのでは なく、別の人による吹き替えらしいと聞いている。
ポワチエの出演作で、まだ観ていない有名なものも あるので、近いうちに観てみたい。
“Lilies of the Field~Amen”
うちのブログで、何度か紹介してきた『いつも心に太陽を』。その主題歌を再び。
そして、すばらしい俳優だったシドニー・ポワチエへ。
Rest in Peace.
“To Sir With Love Tribute (Lyrics)”
Lulu“To Sir With Love”
2022.01.05 (Wed)
『久方ぶりの科学系記事』の続き。
どうやら、私は、『絶対真空』ってやつをイメージしてたんだな。
つまり、それは「概念」に過ぎぬのだそうな。
そりゃ、現実には あり得ないことだというのは、もちろんで、
『宇宙空間』だって そうに違いないのは明らかなことだけれど、
私が ずっと問うているのは、
あくまでも「宇宙発生前」のことだからねえ。
いまだ かつて、「絶対真空」なんてものが あり得たことは ないとすると、それこそが不可思議。
常に、何かしら あったことになるわけだから。
じゃあ、その「何か」は、どこから来たのか?ってことになるわよね。
そこが知りたいのよね~。
でも、不可能みたいね。シュ~ン。。。![]()
「トリガー」。。。
「時空の歪み」が起き。。。?
「揺らぎ」が起きて。。。??
「相転移」。。。???
だいたいさ、
「天が動いてるんじゃなくて、こちとらのほうが動いてるんだよ!」
という現実を、なかなか受け入れられなかったという大昔の人の感覚と多少似て、
「無から有」が生じるなんてことは、そんなことが あって たまるか!!
ってくらい、どうにも納得いかないというか、キショクわりい感じするんだよね、この世界の摂理のなかで生きて、慣れているつもりの身としては。
逆に、最初の最初から、何かが、そこに あった、というのも、ヘンな感じよね。
やっぱり、何かが あったから、そこから何かが起き、では、その、あった何かは、そもそも、どこから来たもので、と、
こう、順序を追いたいものなのよw大概の人間にとっては。
でも、
何かが どこから来た、ということをトコトン追っていったとしても、
結局、キリが ないわけよね。
ほんとうの「最初」が分からないから。
宇宙も含めた「この世界」の どこででも、いったん発生したならば、そこから あとは概ね、われわれが親しんでいる、かつ、一応にせよ納得している基本法則と、あまり大差は ないのかもしれないが、
また、一見、それなりの大差が あるように見えたとしても、
あくまで「この世界」の範囲でのことは、他の天体であっても、根気づよく倦まず弛まず追究し、とことん突き詰めていけば、「ふうん、なるほど」と納得できる結論に辿り着けることも不可能では ないだろう、とは思える。
しかしながら。
なにしろ、とうちゃんと かあちゃんがナニしたから、この自分が生まれたというような「法則」を、『宇宙』発生の根本に当て嵌めようが ない。
われわれが生きて活動している「この世界」の摂理とか法則に おいては、「これを こうした、すると、こうなったから、こうなった」と、原因や理由を追究したり追跡することは、いちおう、かなりの程度まで可能なのだけれど、それにしたって、
じゃあ、なぜ、そういうふうに できているのか?という根本のところにいくと、答えは、ない。
「グラスの底に顔が あったって、いいじゃないか」(??)
尻が頭でもイイじゃないか???
さて、
以下の部分も、だーいぶ前に、たまたま見かけた、ある記事を読んで、それから書き始めたものの、途中でホッタラカシになっていた。
唐突ですが、
私、『宇宙背景放射(3ケルビン黒体輻射」とかいうものは、早い話が「煤」みたいなもんやないけ?と思ってましたw
ビッグ ボム!!![]()
梵っ!!!![]()
![]()
ボーーーㇺンンンンンンン!!!!![]()
![]()
![]()
と、大爆発したんであるからには、火の粉やら煤が発生するのは、この世の必然でっしゃろ?ww
ほんで、どんどん飛び広がりつつ、同時に、だんだんに冷めていくわね。
あとには、いろんなカタマリ(クラスター)も できてる。
寄ってカタマリになった分だけ、隙間も あいてる。
最近、『火星』に大量の水が、という『アメリカ』の大手メディア発の記事を読んで、「ヤフゴミん」の多くがキャッキャと単純に喜んでいるのを眺めながら、
何年前にか、かの『CERN(セルン:欧州原子核研究機構)』が発表したという、なんか胡散臭かった記事を目にして、大喜びでコーフンしていた『産経』系ブロガーらを、せせら嗤ったことも思い出す。
“Water on Ares“
「火星の水かぁ、、、もう そこまで分かってきてるのか。。。だけど、どんな味なんだろ、ってか、そもそも飲めるのか?」と思った私。
『土星』の『タイタン』。。。
「土星の炊いたん」。
火星で汲んだ お水から、じっくりと煮詰めていきます。
菜箸で、よぉく転がしながらですね、うすくち醤油を、、、
「お晩菜」か!w
ところでね、
私、前々から、「宇宙空間のなかに、有機物が漂っている」ことの理由と言うか原因と言うか、そのことを特に摩訶不思議と思い、なんとなく考えていたんだけど、と言うのも、
地球に代表されるような惑星の水が最初、いったい、どこから来たのかと問うと、
隕石やらが衝突してきて、
そのなかに含まれていた有機物が、水分を齎したのだという説を読んで、
その後の話題で、
新潟の、とある農園さんが、『ツイッター』上にて、
ネギの青い部分を踏んだら、めっちゃ滑る!
(じつにバナナの100倍以上)
という注意喚起を発信されたというので、
たしかに、私も、スーパーマーケットや八百屋さんなどで、何かの野菜の切れ端が落ちていたら、踏まないよう、気を つけては いた、
もっとも、単に危ないからという以上にも、
食べるはずだった物を踏むことへの抵抗感が あるからなんだけど。
ネギといった野菜類の、そのヌルヌルつまり粘液は、私たちの健康にも寄与する有意義な成分なんだろう
(ただし、個人的に、虚弱な私の場合、生タマネギなどを始め、ネギ系は、おなかを壊すことが ままある。いわゆる「精の強い」ものは、体質に合わない場合も あるので)。
このツイッターでの、ネギの話題に関連し、北里大学の名誉教授という かたが、結論として、
「生命に由来する有機物は、踏めば、すべて滑る」ということを述べられたと知り、
なんとなく、「宇宙空間のなかに漂っている有機物――水の源」のことを思ったわけ。
私は、むかしから、「電気」というものを、殊のほか不可思議と思ってきたのだけれど、
われわれの肉体の重要な構成要素でもある『炭素』ってのも、これまた不思議だよねー。
炭素が できたのは、『宇宙』発生の爆発後、ほんの(?)数億年くらいで誕生した恒星のなかで起きる「核融合反応」から やがて「超新星爆発」に至る様々なプロセスの現象の結果で あり、それ以前には、存在してなかったということだけど、
でも、私は、『ビッグ バン』直後あたりから、その萌芽は、すでにあって、ばら撒かれたような、気ガスるんだよねえ、いや、単なるカンだけどw
でね、
そもそも「無機物」「無生物」。ただ物質の状態から「有機物」「生物」へ、どこで大転換(相転移?)したのだろうかね。まだ分かんないんだろうね。
人間には特に発達している「自我」ってものも、だんだんに年齢を重ねるにつれハッキリと、つよく、複雑になってくる傾向が一般的だろう。
自分は何者なのか?
そして、どう ありたいのか?あるべきなのか?
ということが殊のほか気になってくるのが、ほとんどの人間の成長過程の特徴でも あるから。
ごく幼い頃までは、「無我」であるとされたりもするのだけれど、
やはり、個別の肉体を備えているからこそ、それを通して、それぞれにとっての「外界」を眺めているうちに、いろいろ察知していき、要は自分の心身を守ろうとして培われていくものらしい。
同時に、愛着、執着心も つよくなっていく。
そう、肉体あればこそ、なのだ。
そのために、まずは「快・不快」豊かな「喜怒哀楽」といった様々な反応を齎す肉体は、最終的には、物体そして物質そのものに戻る。
言わば、同じ一本の線状のものの上にピョコピョコと並んでいる大小の突起物のようなものなのだろう、われわれは。
ピョコの一つ一つ、それぞれは、
孤独を嘆いてみたり、隣りのピョコを鬱陶しがったりもするのだけれど、
しょせん、溶けて流れりゃ、みな同じ。w
物質って、不思議だ。
【続く】