2015.08.26 (Wed)
の続き。
普通に言うデザインというものは、すぐれて視覚や触覚に対しダイレクトに訴える力が大きいので、音楽の分野と同じく、それぞれに おける「理論」と呼ぶものがあっても、リクツだけでは どうしようもないところが ある。
さて、
私個人は、もともとが、色遣い等の明るい爽やか~な雰囲気を好むほうなのでw、
まさに、梅野氏というかたの提起されたデザイン案は、
これって実は、皮肉を込めているんだよ?と言われても、正直、このほうがタイプだぁ(笑)
一見して、「万華鏡」みたいで綺麗だしぃww
このね、綺麗なものを好むというのが、俗な感性なのであり、くろうと好みではないという指摘も理解できるんだけどね(苦笑)
男性選びで、
屈折しまくって陰気で、扱いに困惑してしまいそうなマニアックな人よりも、
単純パーなくらい、あっかる~い王子さまタイプ好青年のほうにダンゼン好意を持つようなもんか?(苦笑)
あーん、許してェww
『五輪エンブレム、梅野隆児氏が選考方法に問題提起』
日刊スポーツ 8月24日(月)10時20分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150824-00000065-nksports-soci
しかし、私とて、
佐野氏のエンブレムについては、第一印象で、ちと暗いかな?とは感じたものの、いかにも男性的知的な雰囲気も感じられ、そのものが嫌いというほどではないのだよ。
「作風バラバラ」ということ自体にも問題があるとは思っていなくて、
むしろ、自分自身、そういう方向で行くのもオモシロいじゃないかと考えていたくらいだ。一つの面に固まってしまうのもツマラナイかなと思っていたので。
そういえば、こういった意見は、役者・俳優業の人が言っているのを、よく見かけてきた。
いわゆる「引き出しが多い」とかいうことの表れという場合もあるか、とも思っている。
ただし、
いわく「レディメイドのものをポンポンと配置しただけ」であろうとも、ディレクティングであろうとも、その人本来の個性が強かったり、すでに確立されたスタイルを持っている場合なら、そういうものは隠しようもなく、配置の感覚にさえも滲み出てくるものではないかなとは思う。
要するに、
芸が なさ過ぎて、
いくらなんでも、
その「まんま」は ないでしょってことだ。
先達に対する敬意だ「オマージュ」だと主張するのなら尚更じゃないかと。
すでに、「まんま」としか言いようのないデザインについては、現に、取り下げ騒ぎになったわけだし、これ一事が万事かと見做されても しょうがないところまで来てしまった感がある。
あとね、梅野氏も主に指摘されている、システム的な問題。
このことは、過去のエントリーでも指摘したんだけど、
文学方面、俳句や和歌の世界などでも、流派や派閥なんかがあって、
その関係性のなかで、選を決定する等してるらしいのだ。
だいぶ前に、問題が表面化した書道の世界でも、たしか、そんなような話が あった。
つまりは、
その分野なり世界のなかで持ち回りが、横行してる、と言うべきなのか どうなのか、
そうだとすれば、
全く新たなる試みや才能が生まれ出ていても、狭い世界に撥ねつけられ、潰されかねないという事態でもあるということを示しているのか、
あるいは、
よほどに、画期性が枯渇しているゆえの、よんどころなき現象なのか、
まあ、どんな分野でも、既存のシステムや権威的なものに寄っかかってるほうが安全・安心だもんねw
とにかく、
門外漢は知らないシステムが できあがってしまっているということでは ないのかな。
【旧ブログの記録より】
「引きずられる」 2010/10/23 19:21
これ、人まね上手の「優等生」に多い現象だと見受けている。
数年前、ネット上で私を猛攻撃してきた女(優等生でもないw)が、
そのくせ、私のパクリをやって憚らないので、そのことを指摘すると、「ネットで公開されているものなのだから、パクリ指摘は無意味」だとか、くだらん言い訳をして噛みついてきたけどさ。
この朝日新聞の「引きずられ」記者さん、まだ お若いのかと思ってたら、ベテランさんじゃないの?
「記事の大半で表現が酷似しており、」
忙しかったのかぃ?
私の母も、子どもの頃から優等生で鳴らした人だったけど、歌や音楽の才能に恵まれていて、最後は、人さまに教える身になっていた。
そうなってからでも、音痴な生徒に教えていると、自分も音程が狂ってくる~と言ってボヤいていたよ。
以前のエントリーで、こう書いたことがある。
『敵と仲間』
~私が子どもの頃の一時期、母が、こじんまりした割烹料理店を経営していたのだけれど、その頃、地域の記者クラブに詰めていた新聞社の記者さんなども常連で来ていた。そのなかの お一人から、母が聞いた話。
地方発の、いわゆるベタ記事なんかは、各新聞社、どこも似たり寄ったりなものだが、たとえば、Y新聞社の記者が、他のことで手を離せない場合、A新聞社の記者が、自分ちの社へ送稿するついでに、ちょいと部分的な言い回しなど変えておいて、ライバルのY新聞社へも一緒に送稿したなんてことは、べつに珍しくもないそうだ。
いまでも、そうなのかな。
~
実家では一貫して読売新聞だったし、私自身は、実家を出てから長らく朝日新聞を愛読していた。だから、両方とも読む機会が多かったのだけど、まっ先に気づいたのは、個性なのか方針なのか、ごく単純な次元での違いで、
たとえば、読売は、何かで校正・校閲の落としなどがあった場合、あとで訂正を出すと同時に、お詫びのことばが添えられている。
朝日は、間違いが判明したことを知らせはするんだけど、まず謝らない!(笑)
長いことフシギだった。いまでも、そうなのかなぁ。
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朝日新聞、共同通信に謝罪 文化面記事“パクリ”で(2010/10/22 21:13)
もし、へんなエリート自意識が原因なら、そんなものは捨てたほうがいいね。